第三章

第18話 哲学的な彼女


 通されたその病室は、記憶の中で見た白い箱の内側に酷似していた。


 飾られている調度品、ベッドに掛けられたタオルケット、果ては医療機具に至るまで、全てが白い絵の具を混ぜられたように薄まったカラーリングに統一されている。


 そんな個室の主となった千世は、僕の姿を見るなり花のように笑った。


「久しぶりね、遥斗」


 以前に会ったときより、千世の顔色は良くなっている気がした。彼女を取り巻く淡い色彩がそう見せるのか。錯覚だとしても、僕は救われた。


 後ろで戸が閉まる音がした。ここまで案内してくれた看護師が気を遣ったらしい。


「そんなところに立っていないで、もっと近くに来て」


 手招きに応じて僕はベッドの隣の椅子に腰掛ける。間近になった千世の手足は、梢のように細い。元々痩身だったのに加え、過酷な治療が拍車をかけたようだった。


 髪も、以前は中性的なショートヘアだったのが今は肩まで伸びていた。明るい茶色の隙間に、白髪がメッシュのように入り込んでいる。


 僕の視線を意識したのか、千世は恥ずかしそうに手の甲をさすった。それからタオルケットの裾を腰元まで引き寄せる。


「会いたかったわ」

「僕もです」


 触れることはできなかった 。途端に崩れ落ちてしまいそうで怖かったからだ。


 こんなに近くに居るのに、これ以上距離を縮めるための勇気が奮えない。僕はこの弱さを持て余し続けていた。


 千世とは二日に一度電話はしていても、直接聞く声は生々しく感じられて、思っていたよりも強く僕の胸を締めつける。掛ける言葉を探しても、喉のあたりで何度も詰まって結局音にならない。


 臆病な僕を、千世は笑うだろうか。いや、決してしない。僕が手を伸ばすのを、いつまでだって待ってくれていた彼女。僕がどんなに弱くたって、彼女は容易く受け入れる。


 受け入れて――しまう。




「孤児院に居た頃。千世が市内の高校に通うため、寮で暮らし始めた頃の話です」


 唐突な昔話。僕は、告解するつもりだった。


「僕は千世が孤児院を去ったのが信じられなくて、裏切られたような気持ちでいました。義務教育が終わったら何らかの形で自立する決まりだと知っていても関係なかった。想像力が足りなくって、事前に心の準備をすることだってできていなかったんです」


 あの頃から僕は弱かった。だからこそ、命という脆く儚いものへ執着したのかもしれない。


「覚えていますか。宿舎の隣の庭で犬を飼っていたこと」

「大型の、ラブラドール・レトリバーだったわね」

「僕は彼の世話係でした」


 当時、僕は十二歳。その頃はまだ周りとの協和を諦めてはいなかった。友人関係の構築のために人一倍努力する、不器用を言い訳にしなかった時代の話。


「退去した人から世話係を引き継いだとき、既に彼は老犬でした。当時の院の子の間ではバクダンなんて呼び名をされていて、お世辞にも皆に愛されていたとは言えなかった」


 千世は何も言わない。ただ眼を伏せて聞いている。


 けれどそれだけで僕の胸の負担は軽くなった。


「彼の運動のために首輪を外して庭に放す時間が朝と夕に決まっていて、僕は夕方の担当でした。ある日クラスメイトと放課後の付き合いで帰るのが遅くなり、保母に叱られたことがあって」


 遊んでばかりじゃいけません――保母のそんな言葉に強い反抗を覚えた。僕は僕で必死になっていた。友達を維持し、孤立しないために躍起だったのだ。愛着のない生き物の世話をしている余裕はなかった。


 それらは単なる言い訳だということも、今の僕はわかっている。


「それをきっかけに僕は係をサボりがちになりました。そのことに気づく人はいなくて、夕方代わりに彼を解放する人も現れなかった」


 既に院の子たちの興味は彼に向いていなかったのだろう。老い先短く愛嬌もない大型犬は存在を忘れられていた。可愛がってくれた子どもたちも今や、この孤児院を去ってしまっている。


 比較的元気だった頃を知っているのは、当時中学生の子どもだけ。それも微かな記憶になってしまって、今でも彼の姿は薄茶色の毛がくすんだ老犬として思い浮かんでいる。


「次の年の冬、彼は息を引き取りました」


 それを口にするのはあっけないほど簡単だった。


「朝の係が動かず冷たくなった彼を発見したと聞きました。僕は、罪悪感を覚えはしなかった。でもあの日、変わってしまった。昨日まで生きていたものが今朝は死んでいる。その事実を理解した」


 罪悪感を覚えなかったのは、僕の怠慢が彼の直接の死因でないと思っていたからだ。食事は別の時間帯に保母がしていたし、運動だって朝の係がさせていたはずだと。


 でも、それでも、死はやってきた。朝日が昇るように、夕日が沈むように、生と死はあまねく命にとって逃れられない事象。目の当たりにして、漸く気づく。


 生命に関与した時点で、その終わりは無意識にでも認知される。ならそのときに眼を凝らせば死期を、今際の際を覗くことが可能なのではないか。


 そこから先は――語るべくもない。




「千世。僕には未来がわかりません。けれど、いつかは訪れる死のことなら、はっきりとその光景がわかるんです」


 僕の告解。千世には隠し通してきた右眼の力と、誰にも話すことのなかった始まり。


 過去の出来事は僕を内側から蝕んで、鬱屈した精神性を形成するに至った。右眼の異常性はその余剰であり、贖いのための副産物でしかない。


 つまり真実は、僕が死を極端に恐れるあまりに自らこの力を生み出した、ということ。


「――そうね」


 千世は呟いた。


「きっとそうだと思ってた。遥斗は、優しいから」


 胸の奥に仕舞っていた何かが溢れてしまいそうだった。優しいことなどあるものか。僕が見ない振りをしてきた片側の光景で、ひょっとしたら救えたものもあったかもしれないのに。


 それが傲慢だとしても、僕には眼を背けたぶん苛まれるだけの咎がある。


 どう言い逃れしようと、余命幾許かの彼の死を早めたのが僕であるように。


「僕が本当に優しかったなら、打ち明けることは決してしなかったでしょう」

「貴方が打ち明けてくれなかったとしても、きっと貴方は優しいわ」

「意味がわかりません」


 千世の頬が綻んだ。相も変わらず軌道予測のできない、不意を打つ微笑みの発露。


 だが僕はその規則性を知りたいと思った。


 もう知らないままではいられなかった。


 あの少女と同じように、僕も大事なものと向き合いたい。


「僕が黙っていたことを、怒りますか」

「お互いさまでしょ? 私だって大きな隠し事をしていたもの」

「それは」


 治療に関する情報の一部を故意に隠していたこと。僕が必ず異を唱えるとわかっていたから黙っていたのだと、後に知ることになった。


「――僕のためだったんでしょう。仕方ないですよ」

「そっくりそのまま、お返しするわ」

「僕は僕のために黙っていたに過ぎません。疑われたり気味悪がられたりするのが嫌だったから」

「ならなんで今更、打ち明けたの?」

「そうするのが僕のためになるから」

「ふふっ」

「どうして笑うんです」

「貴方が愛おしいから」


 穏やかな表情の千世の言動は揺蕩う雲のように掴みどころがなく、距離を縮めれば今度は霞んで見えなくなってしまいそうだった。


 けれどそんな雲の向こう側にある本当の空の色こそ、僕は見たい。これまでのような知ったかぶりではなく、千世という人物をきちんと知らなければ、向き合うこともできないだろうから。


「僕には千世の今際の際だって見えているんですよ」


 これまでの僕なら伝えるはずのないことも、今なら伝えられる。


「怖いんです。千世は、いつ居なくなってしまうかわからない」


 彼女はきっとここで死ぬ。その日が突如としてやってくることが、とてつもなく恐ろしかった。


 幾ら投薬治療が滞りなく行われていると知っていても、僕にはあの光景へと至るまでの過程でしかないように感じられる。日を追うごとに拭えない恐怖は増していった。


 それなのに当の千世は、恐れを知らないみたいに前進し続けてきた。山間の病棟で冬を越したときも、今の医院で過酷な治療を始めてからも、泣き言ひとつ彼女は言わなかった。


 本当に怖いのは、他でもない彼女自身であるはずなのに。


「遥斗、ねえ遥斗」


 僕の名を二度呼んで、千世は慰めるように話す。


「私はね、貴方にずっと救われてきたの。不器用でも他人を思いやれる貴方の優しさがなかったらと思うと、挫けそうなくらい。貴方はそれを、認めないかもしれないけれど」


 嗚呼――そうやってまた、きみは僕を肯定するんだ。


 僕がどんなにきみを愛しても、つり合いが取れないほどの恩恵を、きみは与えてくれる。


 その恩を返せなくなる未来がこの上なく恐ろしいことを、きみは知らない。


「ひとつだけ、訂正させてください」


 言いたかったことを、今こそ言う。声の震えは抑えられないけれど、構わない。


「百歩譲って僕が優しかったとしても、僕は、単なる他人じゃなく千世だから思いやれたんです。僕は……僕は、きみのことを、愛しているから」


 やっと言えた。でも、いざ声になるとひどく空虚に思えた。


 千世の顔がまともに見れない。反応が怖いのだと気づいた。心底臆病が染みついている。


「……うふふっ、あはははっ」


 思わず眼を丸くした。千世は、腹を抱えて笑っていた。


「いきなり何を言い出すかと思えば、くふふっ、愛しているなんて」

「っ、そんなに笑うこと、ないじゃないかっ」

「いいえ、これは嬉しいの。はじめて言葉にしてくれたことが、とても、とっても嬉しくって笑ってしまったの」


 彼女の笑顔は魔法のように、僕の臆病風を解いてしまう。


「ありがとう。愛する人と両想いで、私は幸せよ。今までも、きっとこれからも」


 千世は何の怖気もなく自分を幸せと言ってのける。梢のように細々とした手が、いとも容易く僕の頬を撫でた。


 やはり千世の考えていることはわからない。


 でも、僕がどうしたって敵わないことだけは、間違いないらしい。

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