第5話 隔離病棟の眠り姫 前編


 普段降りない駅の改札を抜けるとき、好奇心と心細さが諍いを起こした。それは大抵が好奇心の勝利に終わって、足を踏み出す原動力になる瞬間がある。


 中心街から二駅ほど離れた、下町風情の残る地域。付近に芸術系の専攻科がある大学があることから芸大通りと呼ばれる商店街を歩いた。学生街にありがちな丼物チェーン店。教材も扱っている古書店。色彩の暴力とも言うべき抽象画が描かれたシャッター。当地の学生の生活が窺える、独特の雰囲気の街並みだ。


 僕は手もとのチラシに描かれた地図を確認した。芸大通りがやけに太い線になっているせいで、どの横道に入っていけばいいのかが非常にわかりにくい。日常的に商店街を利用していれば問題ないのかもしれないが、この地図の形状では排他的と言われても仕方ない。


 地図の読解に没頭するあまり、向かい側から来た通行人と肩がぶつかる。相手は講義の終わった学生とおぼしき男性。反射的に謝ると、学生は人懐っこそうな笑みで接してきた。日陰者として生きてきた僕にはつらい対応だ。


 そんな僕の内心をよそに、学生はチラシに目を向けると「ああ、ライブ見に来たんですね。その地図わかりにくいんですよねー」と笑ってから道案内を始めた。慈善精神の恩恵にあずかり、数分ほど追行すると目的の場所に到達できた。


 そこはぽっかりと開いた口の中に地下へ続く階段が見えるのみで、明らかに一見さんお断りの気配を醸している。正直帰りたくなったが、道案内をされた手前引き返すことはできない。


 躊躇する僕を放置して、親切な男子学生が階段を下りていく。「どうしたんですか、入らないんですか?」にやりと口角を吊り上げたのを見て、直感的に気づいてしまった。


 この学生、さっきぶつかったのはわざとだったのか。


「すみませんね。俺、このライブハウスのスタッフなんすよ」



   ◇ ◆ ◇



 ――お兄さん、音楽に興味はありますか?


 元日気分も抜けきった新年三週目、唐突に憂月が言ったことを思い出す。


 学生鞄から取り出した四つ折りのチラシを渡され、開くと飾り文字で大きく

『Hey音峯寺』と書かれていた。


「……一応訊くけど、なにこれ」

「へいおんぶじ、と読みます」

「そうじゃなくて」

「今度、そこでライブがあります。私も出ます、ボーカルとして」


 わざわざ倒置してまで強調しようとする憂月。いつになく必死な様子に僕はまごついた。


「ボーカルって、唄うのか。きみが?」

「はい。とは言っても初めてなんですけれどね、人前で唄うのは」

「それなのにボーカル?」


 チラシの雰囲気から察するにロックバンドのライブだと思われるが、それのボーカルともなると苛烈な歌唱を求められるはずだ。まして憂月が歌う楽曲となると、まるで想像がつかない。


 強いてイメージだけで言えば、人工音声に近い感じだ。


「いまけっこう失礼な想像してません?」

「してないよ。ボーカロイドもなかなか馬鹿にできない」

「私、半分くらいは生身なんですけれど」


 というかどういう想像ですかそれ、と呆れ口調で笑われた。納得がいかない。


「仕方ないな、見に行けばいいのか?」

「来てくれるんですか!?」

「正直興味はある」


 ちょうど千世にも気晴らしをしたほうがいいと言われたばかりだったのだ。病人に心配されるのは想定よりも情けなく思えてくる。


 ライブの会場が芸大通りの近くであることも理由の一つだった。孤児院で何かと世話を焼いていた子が芸大志望であるため、キャンパス周辺の地理を知っておけば少しは助けになるかと考えていたりした。


 憂月の歌声が聴きたいという動機もゼロではなかったが、それほど重視はしていない。


「ありがとうございます! 嬉しいです!」


 少し胸が痛んだ。何もそこまで喜ばなくても。


「お兄さんが来てくれるんだったら私、頑張りますね!」

「役目はちゃんと果たせよ」

「もちろん!」


 白磁のように透明な憂月の朗笑が、僕の内側の脆い部分を浅く切りつける。


 僕は心のどこかで憂月に期待を抱いていた。この少女はもしかしたら死なない人間なんじゃないか、という荒唐無稽な夢物語を、僕自身の救いのために望んでいる。


 だからこそ、そんな笑顔を見せられたら困るのだ。


 それじゃあまるで、普通の人間みたいじゃないか。


「……だけどこの地図を見てもライブ会場まで行ける気がしないな」

「それなんですけど、そのチラシを持って歩いていれば自然に着きますから――

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