第28話


 大音響とともに崩れ去る森。

 裂けて血を吐き、熔け、砕け散る木々の声。その姿。

 その音も聞こえず、森の変化の様も見えず、ミラは、ただ歩き続けていた。

 杖がぽろりと手から落ちたが、拾うこともなく、何をすることもなく、亡霊と化したようにふらりと漂った。

 頬には涙の筋が何本もあったが、すでに乾いていた。もう泣くこともなかった。

 感覚のすべてが失われていた。

 自ら死ぬ気力もなえた。

 ミラは、ただ死に場所を求めてさ迷っているだけだった。


 草に紋様を描く風。

 その紋様のごとくに揺れる鬣。

 ミラは足を止めた。

 目の前に凛と立つ、美しい造形。ほの青白い細剣。

 そして、氷のような無慈悲な水色の瞳。

 一角獣だった。

 気がつけば、そこはミラがはじめて一角獣を見た場所だった。

 あの日と何も変わらない。

 渡る風も、空の色も、草原も、そして……一角獣の姿も。

 ミラはひきつった顔に微笑を浮かべた。


 ――あの日に戻ったのだわ。


 悪い夢は覚めたのだ。

 あの日から、なにもかも、もう一度やり直すことができる。

 私は、もう逃げない。運命を受け入れよう。本来のあるべき姿に戻ろう。

 あの角にかかって死ぬために。森に迷い込んだ罪のために。

 はじめからやり直そう……。

 それが、ここにたどり着いた意味。


 ミラは死を受け入れるように両手を広げた。

 一角獣は、ゆっくりとミラへと向かって歩み寄ってきた。

 なんと美しい生き物なのだろう? ただ、ひたすらに森を守る、純粋な存在。穢れた血を嫌い、憎み、排除する清らかな生き物。

 混濁した血をこの体全体に巡らせる許しがたい臓器を、その一突きで消し去ってもらおう。そして私を黄泉の世界へと導いてもらおう。

 銀の鬣が舞い上がり、光が細い角に反射してミラの目を撃った。

 青い冷たい光……。

 ミラはまぶしさに目がくらみ、瞬きをして目を閉じた。瞬きすらも忘れていた目は、乾ききっていて再び開くのに時間を要した。

 目を開けたとたんに、信じられない人を見て、ミラは思わずその人の名を呟いていた。


「シルヴァーン……」


 いったい、どこから現われたのだろう? 代わりに一角獣の姿は消えていた。

 銀の鬣は、そのまま見慣れた銀の髪に置き換わった。

 水色の瞳もそのままだった。

 ただ、額にいつものサークレットはなく、グリンティアと同様に、もうひとつの瞳のごとく青水晶が埋め込まれていた。

 グリンティアと同じ……ではない。

 青水晶からは、ゆらりと光の筋が浮かんでいる。そして、水色の瞳には、燃えたぎるような憎しみが込められてた。

「……殺してやりたい!」

 振り絞るような声と同時に、シルヴァーンの両手はミラの細い首を掴んだ。

 会いたくなかったのは、このような目で見つめられたくなかったからだ。しかし、ミラは目をそらすことはなかった。


 ――殺してほしい……そう願った。


 死によって少しでも償えるならば……殺してほしい。

 シルヴァーンの瞳から、澄んだ泉のように涙が浮かびあがり、頬を伝わって流れた。


 ミラは息を詰まらせて草むらに倒れこんだ。

 その上に、ミラの首を掴んだままのシルヴァーンがのしかかった。

 すでに生きる力を失っていたミラは、あっという間に死の淵に達していた。目も耳も遠くなり、息も絶え、心臓も止まった。


 ……はずだった。


「あなたの心臓にふれたとき、私の心もはり裂けた」


 シルヴァーンの言葉が、かすかに、しかし確かにミラの耳に届いた。

 首にかかった手が緩み、ミラはふっと息を吹き返す。頬に不思議な感触が広がる。

 シルヴァーンの水晶のような冷たい瞳から、何度も何度も涙がこぼれ落ち、表情を失ったミラの頬を濡らしていた。

 胸元にかざされた手は温かく、ミラの心臓は再びゆっくりと鼓動をはじめた。血が全身を巡り始めた。


 死ななかったのだ。


 ミラはかすむ目で、シルヴァーンを見つめた。

「この森を侵す者は、私にとってはすべて敵。だから、あの日、何の疑いもなく、あなたを突き殺した。そうしたはずだった……」

 額に埋められた青水晶の光は、青白く光る細剣だった。冷たい氷のような刃は、かすかにミラの額をかすめ、傷をつけた。

 サークレットをなくした髪は、鬣のように風に舞う。たしかにその人は、ミラが知っているシルヴァーンだった。

 だが、青き一角獣の瞳が、そこにあった。

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