第25話


 ミラは走っていた。ひたすらに走った。

 思えば、この森を一人でさ迷うのは二度目。あの時は座長を殴って逃げた。

 そして、森に迷い込んだ。

 シルヴァーンと巡り会う運命のために。

 エルヴィルと歩いた距離は、それほどなかったはずなのに、ミラはすっかり迷っていた。

 以前もそうだった。

 この森は、まるで意思があるようだ。よそ者を迷わせ、けして生きて返さないという強い意思が。

 まるで、木々が移動して道を変化させるように、同じ道に会うことはない。

 すぐに帰れると思っていたミラが、それは大きな間違いだと気がつくまでに、たいした時間はかからなかった。

 しかも、殴り倒したエルヴィルのもとへも戻れなくなっていた。

「シルヴァーン! シルヴァーン!」

 森のどこかにいれば、きっと声を聞き届けてくれるはずだ。そう思って、ミラは何度も声を張り上げた。

 しかし、かえってくる声は木霊だけだった。

 いや、もう一人、答えるものがあった。

 

 やや開けた場所に出た。シルヴァーンと散策を楽しんだ丘の上に出てきたのだ。

 下草が伸びていて、足が絡んで転んだ。

 ささえてくれる腕はない。風だけが通り過ぎる。

 一人きりで風を受けるのはさびしかった。

 風がミラの赤っぽい髪を巻き上げる。そして、芝生に紋様を描いて立ち去ってゆく。


『思い出すがよい。おまえは死んだ。今のおまえは幻の心臓を抱えているぞ』


 風に乗って亡霊の声が響いた。

 ミラはあわてて心臓を抑えた。鼓動が激しい。

「おまえに渡す心臓などない!」

 独り言のように叫んで、ミラは両手で肩を抱きしめた。

 風はケタケタと木の葉を舞いあがらせ、丘の上にも運んできた。

『哀れな女だ、何も知らない。真実を見ようともしない』

 木の葉は何度もミラの上で舞い、何度もミラを震え上がらせた。


 風が収まった。

 シルヴァーンと過ごした時は、あんなに心落ち着いた場所だったのに、今は何と淋しいことか。

 ミラは必死に記憶をたどった。

 ここは、村から離れていないはずだ。不自由な足で歩ける距離なのだから。

 しかし、歩けど歩けど、森の風景は変わらなかった。いや、まるでミラを拒絶するかのように、木の枝が道に張り出してきて、歩くのも困難を極めた。

 ミラはすっかり疲れはて、座り込んだ。その先に、人の影がぼんやりと浮かんだ。

 その正体を知り、おもわず立ち上がり、杖を構える。

『同士よ、助けは必要ではないのか?』

 ウーレンの亡霊が、何もしないというように両手を広げて笑って見せた。

「おまえの助けなど必要ないわ!」

 ミラが杖で威嚇しながら答えると、亡霊はあざける声を上げた。

『いよいよ、我が仲間となるか? この森は一角獣の導きなくして進めはしないぞ? 我と同じ運命をたどるつもりだな? え? 愚かな女よ』

「同じ……運命?」

『迷い迷った挙句、一角獣に突き殺される運命よ』

 ミラは一瞬、考え込んだ。

 確かに、同じだ。迷い迷った挙句、一角獣に刺し殺されたのだ。しかし、なぜか助けられた。なぜ? だろう……。

「おまえの言葉など、信じない!」

『男に会いたくはないのか?』

 ミラはつまった。このままでは、ただ迷って死ぬだけだ。

『森の奥に置き去りにされた我が心臓を拾ってきてくれさえすれば、道を案内してあげよう。我が望みは、昇天すること』

 ウーレンの赤い瞳が妖しく光る。

 たしかに、この男は昇天することを望んでいた。ゆえにミラの心臓を欲したのだ。ミラに生死の疑問が希薄になった今、心臓を奪うことは不可能だと感じたのだろう。

「道は……あるの?」

『おまえには真実と進むべき道を、我にやすらぎと天国を……。悪い取引ではあるまい」

「死人と取引などしない!」

 ミラは叫んだ。しかし、心は動揺していた。

 もう、森を抜ける方法はそれだけしかない。

 このままでは、二度とシルヴァーンに会うことはないだろう。だが……。

『それはかまわぬぞ、おまえが尽きてしまったら、今度こそ心臓をいただくだけだ。いずれにしろ、我には昇天の道は残された』

 亡霊は楽しそうに微笑んだ。

『想像してみよ。あの男が心臓を失ったおまえを抱いて嘆く様を……。おまえはそれで満足だろう? 森をさ迷う亡霊と化して、いつまでもあの男の不幸を見つづけることができるぞ』

「やめて!」

 ミラは両手で耳をふさいで叫んだ。


 夢を見ているようだった。


 ミラは、胸から血を噴出して倒れていた。森のやや開けた場所、芝生の上に横たわり、すでに命をなくしていた。

 その横で、シルヴァーンが立ち尽くしている。

 風が芝生に渦を巻く。シルヴァーンの銀色の髪も、ともに風に舞う。

 心も風にさらわれてしまったかのようだ。透き通るような血の気のない肌は、死んでいるミラよりも蒼白だった。ぴくりと唇が震えた。

「このような、悲しい死を迎えてはいけない、ミラ……」

 彼は膝をつき、そっと震える手でミラの胸元を押えた。まだ、どくどくと血を流す胸に、手を当てて血を止めようとしている。

「死んではならない。死んではならない。死んではならない……ミラ」

 何度も何度も、彼の唇から言葉が漏れた。

 水色の瞳が溶けたのでは? と思われるほど、彼は何度も涙を流した。

 息絶えたミラの唇に唇を重ね、息が戻るようにと空気を送り込む。だが、胸に開いた穴からすべてが漏れてしまう。

 すべてが無駄な行為だと知って、彼はミラを胸に抱く。そしてその血に自分も染めた。

 聞いたこともない悲しい叫び声が、森の奥に木霊する。


「やめて! やめて!」


 まるで本当に見たような光景に、ミラは気が動転した。

 実際にあったような気がした。そのような夢を見たような気がした。

 これが、予感というものなのか? 予知夢というのもなのだろうか?

 あまりに悲惨で残酷な出来事に、ミラは思わずすすり泣いていた。

『死して彼に抱かれるか、生きて彼に抱かれるか? どちらかを選べ』

 それが亡霊の最後の切り札となった。

「心臓を……拾ってくればいいのね?」

 ミラは、震える声で答えた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る