第7話


 村は相当小さいのだろう。必死に杖をついてついていくうちに、もう小屋も何もなく、ただ木々が茂るだけの森になった。

 日中の高い太陽の下にあって、森の木々は空を覆いつくさんばかりに枝を広げ、豊かに葉を繁らせ、地上に光と影を織りなしていた。

 木漏れ日は優しく、風はさわやかに渡ってゆく。しかし、ミラの心に、森の美しさを堪能するゆとりはなかった。

 あの一角獣にあった森だ。

 別の地域では見たこともない木、透き通るような木肌、まるで自分を凝視するかのような木々の視線。ミラの心は恐怖に囚われていた。

 再びあの獣が現れたら……。

 また襲ってくるだろう。今、自分とグリンティアしかおらず、身を守る術はない。

 しかし、銀色の髪の少女はこの森が自分の庭らしく、何の気にも止めていないようだった。


「あ、あなたは……森の守り人にあったことがあるの?」

「私に話しかけるな。結界が緩む」

 ミラは息を切らしながらも、言葉を飲み込む。

 純血種は結界をはることができる者がいるという。

 銀髪の種族のエーデムの民やムテ人がそうだ。シルヴァーンやグリンティアの見事なまでの銀髪を見ていると、彼らも結界をはって暮らす魔族だと思われる。

 恐るべき森にいだかれて生活しているのだ。結界は不可欠だろう。グリンティアの平然とした態度が、結界に対する信頼度のあらわれなのだ。

 彼女の近くにいる限り、たとえ一角獣といえど、我々を襲うことはないのだと、ミラは確信した。

 敷き積もった落ち葉の深さに、杖は飲み込まれ、ミラは何度もよろめいた。

 しかし、前を歩くグリンティアは振り返ることも無かった。さすがにミラが転んだ時は歩をとめてふりむいたが、それでも歩み寄って手を貸すような事はなかった。

 体力が本当に落ちた。ミラはすでに汗ばみ、息を切らす有様だった。

 確かに体は弱いが、それなりに毎日練習させられ、何度でも観客の前で躍らされていたというのに。その苦労の末に得たものは、既にミラには残っていないらしい。

 踊りをしなくてもいいことは喜ばしいはずなのに、なぜか泣きたいほどに悲しくなる。動かない足を無理矢理動かすたびに、ミラは落ち込んだ。

 しかし、ここで置き去りにされたならば命は無いだろう。一角獣が現れて、今度こそ命を奪っていくだろう……。

 そう思って、ミラは不思議な感覚に襲われた。


 ――命……は、すでに無いだろう? 間違いなく殺されたのだ。


 何かがミラの足に絡みつき、突然世界が回り始めた。ミラは、頭にどすんという衝撃を覚え、落ち葉の湿った感触を頬に感じた。

 前を歩くグリンティアが振り返った。落ち葉越しに斜めに見えることで、ミラは自分が転んだのだと気がついた。

 ミラが持っていた杖は、グリンティアの足元まで転げ、彼女がふわりと拾う姿が見える。彼女が歩み寄る音――落ち葉を踏みしめる音が耳元でする。

 グリンティアは杖を差し出すと、ミラを自力で立つように促した。置き去りにする冷酷さはないものの、助け起こす優しさもないらしい。

 ミラは、自分が期待していたことに苦笑しながらも、杖を受け取ろうとした。しかし、杖は手にかかる瞬間、ミラから遠のいていた。思いもしない空振りに、ミラは再び落ち葉の中へと顔を打ち付けた。

「何をしている? しっかり持て」

 グリンティアの声が響く。ミラは再び顔を上げた。

 少女は確かに杖を差し出している。が……。


 ――ズルリ……


 落ち葉をこするような音。グリンティアが少しだけ遠くなる。ミラは、右足首に冷たい感覚を覚え、ぞっとした。


 ――ズルズル……


 再び音がする。自分の体が後方へとひかれていて、不思議そうな顔をしたグリンティアが、また少し遠ざかる。

 冷たい汗がじわりと浮かんだ。

 振り返るのに勇気がいた。ミラを転ばせた存在は、木の根や石ころなどではなく、明確な意識をもった存在である。

『やっとみつけたぞ、同士よ……』

 低い男の声がした。

 心が凍りつくような衝撃が走った。

 ミラは、おそるおそる振り返り、自分の右足首を見た。

 青白い手首が、足首を握り締めている。ぬめりとした指の感覚が、脚部を駆け上がり背筋を渡り、髪の毛先まで伝わった。

 喉から飛び出そうな悲鳴を抑えて、ミラは足を蹴りながら肘で前進し、手首を振り切ろうとした。

 とたんに左ふくらはぎに冷たいものを感じた。

「ひっ……」

 さすがにひきつった声が出た。

 手首の主が、もうひとつの手でミラのふくらはぎを掴んだのである。爪が食い込み、痛みが走った。

 ふくらはぎは足首ほどに細くはない。しかし、その手は男のものらしく大きさがあり、ミラを押さえ込むには充分だった。

 ミラはあわてて手を伸ばし、手首を外そうと必死になった。

 それは、やめたほうがよかったのだ。手首は払われて一瞬ふくらはぎを離れたが、その次の瞬間、機敏な動きでミラの手首を捕まえた。

 落ち葉の中から、漆黒の髪をした男が半分顔をのぞかせていた。顔色は土色に染まり、目だけが血のように赤く、恨みを込めてミラを見つめている。

 たまらず、ミラは悲鳴をあげた。

 けたたましい悲鳴にもかかわらず、グリンティアは何事もないかのように、再びミラに杖を持たせようとしている。

「世話をやかせるな。立てるだろう?」

 木漏れ日差し込む森の風景に、何ら変化もないようだ。ミラの回りだけが闇が降りたように薄暗く、冷たく、じわりと湿度が高かった。


 ――グリンティアには、この男が見えていない? 


 冷たい瞳にはミラにのしかかり押さえつけようとしている男の姿は映ってはいず、彼女はただ軽蔑した視線でミラだけを見つめている。

 同じ空間にありながら、グリンティアは光の海にいて、ミラは闇の水溜りにはまって溺れていた。

『おまえの……胸にも穴があるだろう? 同士よ……』

 ミラの髪を男は引っ張る。ミラの胸の穴をさぐろうとしている。

 とたんにミラは気がついた。

 この男は、死んでいるのだと。死人は、狂おしいほどに魂と心臓を欲するものだという。

 心臓が凍りつき、動きを止めそうになるのを、ミラは必死で抵抗した。

 生命に対する餓えがミラの胸の穴に巣食おうとしている。凍った息を吐き手を伸ばしてくるのだ。負けては体を乗っ取られるだろう。

 ミラは、グリンティアの手から杖を奪い取るようにして受け取ると、肩越しに冷たい息を吹きかける男を脇越しに強く突き通した。

 手ごたえはあった。男の胸を突いたに違いない。

 男はかすかによろめいて、ミラから離れた。

 その隙に、ミラは這いずってグリンティアに助けを求めてすがろうとした。

「地に縛られている亡霊……のようだな?」

 グリンティアは、見えてはいないようだが、亡霊に心当たりがあるらしく、一言呟いた。

「グ、グリンティアさん! 助けてください! あれは……」

 次の瞬間、ミラは再び落ち葉の上に転げていた。


 ――何?


 ミラは落ち葉を噛み締めながら、今起きたことが信じられずに、グリンティアを見上げた。

 すがったミラの手は、空気を掴むように少女の体を突き抜けてしまったのだ。

 彼女は少し困ったような表情を見せ、それでもまるで他人事のような言葉を紡いだ。

「我がシルヴァーンに助けを求めるしかないようだ。私は彼を探し、呼んでくるゆえ、それまでは自分でどうにかすることだ」

 そういうと、グリンティアはミラを突き抜け、杖を胸に刺したまま膝をついている亡霊を突き抜け、森の彼方へと消えていった。

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