春うららかに・17


 サリサ・メルは、春を待って最高神官を勇退する。

 そして、霊山を去る。

 メル・ロイとなったムテ人は、一年以内に百年の年月を身に受けて、あっという間に老化して死ぬ。寿命の使い方が激しければ、一気に灰と化してしまう。

 祈りの儀式の後、寿命の温存のために霊山に残り、新しい最高神官の支えになってほしいという要望が、一部の神官から上がった。

 だが、サリサはそれを断った。

「自然の成り行きに身を任せて、ごく普通のムテ人と同じように散りたいのです」

 すでにシャインに伝えることはない、ムテとしての穏やかな最期を迎えたい。

 最高神官らしい達観した微笑みで、サリサは神官たちに言ったのだった。

 それに、消える前に後を引き継いでしまう最高神官は過去にいなかったし、当然ながら後進に後を譲って霊山に留まった者もいない。



 祈りの儀式で倒れてしまい、アリアとミキアに担ぎ出されたエリザは、その後も寝込んでいた。

 マサ・メルの死後、後追いするムテ人が後を絶たなかったというが、エリザにはその気持ちが痛いほどわかった。

 サリサが消えてしまった後、生きている自分が想像できなかった。

 しかし、それにしても……。

 あれだけ多くの人がいて、エリザ以外にショックを受けた者がいないというのは不思議だった。

 アリアが言うには、つい、ミキアもアリアも、拍手に参加していたという。

「おそらくね、最高神官が二人いるようなものでしょ? 暗示が働いていたのだと思う。あの儀式の後だしね」

「きっと、サリサ様に心が近すぎたから、エリザには効かなかったんだと思うわ。あのね、誤解しないでね。私もアリアも、けして、サリサ様の寿命が尽きることがうれしかったわけじゃなかったのよ」

「酷なことを言うようだけど……。どんな長命の人だって、いつかは旅立つときが来る。それを乗り越えなくちゃ……」

 聞くに堪えなかった。

「ごめんね……。私を一人にして」


 時として、ありがたい友達ほど困るものはない。

 その日、ミキアとアリアはエリザをそっとしてくれたものの、日に日に様子を見に来るのだ。

 二人だけではない。サリサの勇退話を知って、エリザとサリサの関係を知っている人たちが、とっかえひっかえエリザを心配して会いに来てくれるのだ。

 おかげで、エリザは死に損ねた。

 ついにエリザは祈り所の闇に籠った。そして、祈りの儀式を思い出しては、泣き暮らし、そのまま死を迎えたいと願った。

 祈り所は、もう巫女姫が籠る場所ではない。それに『老いたる人』を閉じ込める場所でもない。ただ、光を苦手とする彼らは、相変わらず祈り所を住まいとしていたが。

 しかし、既にそこにエリザの巫女姫時代を知っている者はいなくなった。彼らは皆、祈り所のさらに地下で、かさかさになって眠っている。

 サリサとともに寿命を終えたいと願ったエリザは、時にその地下まで降りて、死の恐怖に涙した。



 祈り所に籠って何日目だろうか?

 すっかりやつれてしまったエリザの前に、黒いマントのサリサが現れたのは。

 闇にぼんやりと浮かぶ炎に、エリザは頭を上げた。

 申し訳なさそうな顔のサリサを見た瞬間、エリザは彼に飛びついていた。

「ごめんね」

 耳元に響いた最初の音は、小さなお詫びの言葉だった。

 春の抱擁以来、サリサに触れたことはなかった。

 むさぼるようにマントを引き寄せ、エリザは泣いた。心臓の音が確かに響き、サリサの生命を感じさせた。抱きしめてくれる腕も強かった。

 まったく変わっていない。

 エリザが知っているサリサのままだ。


 ――この人が死ぬなんて思えない。とても耐えられない。


「サリサ、お願い。あの宣言は嘘だと言って! じゃないと私……」

「嘘です」


 ――一瞬、空気が乾いた。


「え?」

 エリザはびっくりして、サリサの顔を見た。

 彼は、困惑した顔をしていた。

「今……なんて?」

「あの……あの宣言は、真っ赤な嘘なんです」

 思わず涙がひっこんだ。

「嘘?」

「はい」

「本当に……嘘?」

「本当に嘘です」

 体から力が抜けて行った。

「ごめんね、エリザ。まさか、あなたがそこまで落ち込むとは思わなくて」

「落ち込みます!」

 悲しみの次にきたのは怒りだった。

「ひどい! こんな大掛かりな茶番をして! 私を騙したのね! 一体どうしてよ!」

 すがりついていた胸を、今度は何度も何度も叩いた。

 まったくわけがわからない。

「祈りの儀式の暗示が、あなたに効かないとは思ってもいなかったのです」

 叩かれるがままになって、サリサが弁明した。


 ミキアの言う通り、エリザとサリサは完全に行き場を失っている。

 もうしたくはなかった痛い別れの後、サリサはある計画を立てたのだと言う。

 それは、ムテの保守派に大きな爆弾を投げ込むことだ。

「確かにエリザは保守派のいい攻めどころになっている。でも、別の視点から見れば、改革が僕とエリザの関係に都合がいいからなのですよ。最高神官が僕でなければ、保守派も攻めどころを失います。改革は一気に加速する」

 制度上の改革は進んでいた。でも、ムテ人は長寿を誇っているがゆえに、代替わりが遅い。人が変わらなければ、結局、外面が変わっても、中身は変わらない。

「最高神官自らが代替わりすることこそ、今の現状を打破する一番の方法。これを機に、人々の意識も大きく変化することになるでしょうね」

 そう言って、サリサは微笑んだ。

「それにね、僕はエリザがいない生活なんて、もううんざり。ちょうどいいでしょ? 勇退して、残りわずかな寿命を自由に生きるっていう筋書きは? 気に食わない?」

 エリザは真っ赤になって怒った。

「! で、で、でもっ! ひどい! どうしてそれを初めに言ってくれないの?」

 相談していてくれれば、エリザはこんなに落ち込まなかった。

 この数日、エリザ自身が寿命を縮めるほどに、苦しみぬいたのに。

「だから……ごめん。この計画は、もう四年越しなんだ。エリザは正直者だから、打ち明けたらばれてしまうと思って。シャインと僕の力と大満月の夜であれば、ここまでエリザを落ち込ませることもないだろうと」

 頭が混乱して、何が何だかわからなくなってきた。

「ひどい! ひどいったらひどい! 私……本当にサリサを追って死のうかと」

「うん、どうやらエリザが祈り所で倒れてくれたおかげで、クールもこれが茶番だなんて疑わなかったよ」

「サリサ!」

 エリザはかんかんに怒って、バタバタ暴れた。

 暴れるエリザを抱きしめながら、サリサは明るく笑った。

「古い制度は、古い最高神官とともに去る。これからは、新しい時代になるんだ。そして、僕たちも……新しく生きよう」



 ――こうして、今に至ったのだが……。



「真っ赤な嘘は、真実のほうなんでしょ? 私がショックを受けていたから、事実を受け止められなかったから……だから、サリサは嘘をついたんだわ!」

 エリザは、叫び続けた。

 きっと真実を受け入れられないエリザが、祈り所に籠っていると聞いて、サリサは慌てて霊山を下りて来た。そして、どうにか立ち直らせようとして、話をでっち上げたのだ。

「私が弱虫だから! だから、いつも何も教えてくれない!」

 あの時、気が動転しながらも、あまりに甘美な夢をサリサに語られて、ついついサリサの提案を受け入れてしまった。

 だが、瞬く間に半年がすぎ、華やかな最高神官の就任儀式も終わり、引っ越し準備が進むうちに……何かがおかしいと思うようになった。

 先が見えない不安――。

 それに呼応するように、サリサの力は衰えていく。

 旅立ってから、そして、カシュに会ってから、ますますエリザはサリサの寿命に不安を募らせた。

 あの宣言が真実ならば、サリサはもうすぐメル・ロイとなる。いや、もう既にそうなのかも知れない。とすれば……。


 ――残された時間は……一年?


 思えば、サリサは嘘つきなのだ。

 だが、今回はさすがに弁解の言葉を失って、エリザのなすがまま、言うがままを許している。それだけで、何が真実かを語っているようなものだ。

「ご……ごめんなさい。興奮しちゃって……。でもね、サリサには本当のことを言って欲しいの。私、真実を知りたいの。どんなに辛い事実でも、今、こうして不安に苛まれるよりはマシ。私、弱いけれどきっと乗り越えるから」

 散々叩いた胸にしがみつき、エリザは嗚咽おえつした。

「……ごめんね、エリザ」

 やっとサリサの口から出た言葉は、やはり詫びの言葉だった。

 詫びるということは、そういうこと――エリザは顔をあげられなかった。嗚咽がひどくなったが、必死にサリサの胸に顔を押しつけてこらえようとした。

「弱虫は、あなたじゃない。僕なんだ。僕が弱いから……」

 サリサは、そっとエリザの肩を抱き、そしてゆっくりと顔を上げさせた。

 泣いてくちゃくちゃの顔を見せたくなくて、エリザは両手で顔を隠そうとした。

 だが、サリサの手が、エリザの手を押さえ込んで、無駄な抵抗になってしまった。

 やむをえずエリザは視線をそらした。


 ――こんな弱いところを見せたら……また、嘘をつかれちゃう。


「大丈夫。すべてを打ち明けるから」

「本当の……こと?」

「僕があなたを愛しているのと同じくらい、真実」

 そっと目線をあげると、ぴたりと視線があった。

 やや悲痛な顔をしているものの、サリサの目には嘘がなかった。

「僕は、弱虫で臆病だ。エリザが思っている以上にね……」

 ぽつ、とサリサが言った。

「だから、突然、自分の死ぬ日がはっきりとわかって、怖かったんだ」

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