第22話

 地獄旅団の密林攻略は順調に進んでいった。彼らは五月まで続いた雨季に負けず、探検と道路の拡張、新基地の設立に人口が一万人を超えたサン・ディエゴの本格的な都市化へ邁進していった。密林の前線には〈貴婦人〉〈慈善家〉〈甲冑職人〉〈書籍商〉〈薬剤師〉といった変わった名前の小要塞ができていき、要塞と要塞をつなぐ道路際のあちこちに国家反逆罪にかどで処刑されたインディオの腐乱死体が木からぶら下がっていた。一方、文明化されたインディオたちはラム酒をなめるために卸商の言い値で作物を手放し、べろんべろんに酔っ払って、ヨーロッパ人が来る前の自由闊達な世界を夢のなかに見るのだった。

 移住者はどんどん増えていった。ナポリ人街は拡大し、シナ人街も拡大した。両者が境目を接することになると、店同士の縄張り争いが勃発し、それがそれぞれの民族が抱える犯罪結社同士の抗争へと発展するかのように思えた。

 もちろんデ・ノア大佐は自分の足元でそんなことをするのを許すはずはなく、講和のための話し合いがなされた。ナポリ人の代表であるチッチョ・エスポジートとシナ人の代表であるアンル・リーことリー・ウェイツォンは旅団司令部の食堂で会談し、地図を広げて厳密な縄張りを決めていった。アヘンと洗濯屋はシナ人の独占、ヨーロッパ式の賭場とラム酒の卸しはナポリ人の独占など交渉は縄張り以外の細かいところまで詰められると、チッチョはリーの注いだ老酒を、リーはチッチョの注いだ香料入りの赤ワインをあおって正式に交渉締結となった。

 六月、待ちに待った乾季が到来すると人々は滝のような雨のことを気にせず、夜のサン・ディエゴを徘徊し、その売女のような悪徳にどっぷりと身を浸からせるのだった。青や赤の紙でできたランタンが建物と建物のあいだに張った紐から吊るされ、酌婦や売笑婦たちが男たちを酒場に誘い、賭博窟では獣脂蝋燭の光の下でサイコロがふられ、カードが羅紗の卓に叩きつけられ、袋から王国時代に鋳造された国王の横顔を刻印した古い金貨がこぼれ落ちていった。夜の町は臭いにまみれた――焼けた脂、サトウキビ焼酎のげっぷ、胃液にまみれた魚とキャッサバ粉、シナ人の焚く沈香、女たちのむせるような香水。

「おれを殺してくれえ。おれは生きる価値なんてない男なんだあ」そう間延びした声で叫ぶのはかつての革命家、いまは酔っ払いのアヘン狂いだった。祖国への捲土重来を誓って国を追われた革命家たちはラム酒やフランス人娼婦、そしてアヘンに身を持ち崩し、妖精を確保するまでの活動資金として仲間から託された大切な金を全て自らの快楽のために使い果たしてしまった。妖精を捕まえてブルジョワに売りつけ、その金で武器を買い、革命を起こしてブルジョワを打ち倒す。ブルジョワをブルジョワ自身が出した金で打倒するという夢物語はアヘンの煙のなかに消えてしまった。

「殺してくれ、殺してくれい」

「わかった」たまたまそばを通りかかったデ・レオン大尉が微笑んだ。「すぐに殺してあげるよ。大丈夫、苦しいのは最初だけだから」

 大尉がそういって、ナイフの手袋をはめると、酔っ払いは相手が誰だか分かったらしい。

「ひ、人殺しい!」と叫びながら、横町を走って逃げていった。

 嬉しいニュースもあった。レストランの名を冠するに相応しいフランス人経営の本物のレストランがサン・ディエゴにもついに開店したのだ。ブイヨンではなく、本物のコンソメ・スープを出す店はあっというまに流行り、鶏のコンソメや口のなかでとろける牛の舌のシチューなどに妖精成金たちが舌鼓を打った。香味野菜の畑や養鶏場がサン・ディエゴのまわりを囲むようになり、要塞の門から密林へと行くのに徒歩で十五分はかかるようになった。以前は密林の椰子の葉が要塞のなかに陰を投げかけていたのだが。

 デ・ボア大尉は非番や夜の暇なときはデ・レオン大尉と一緒に出歩くか、チッチョ・エスポジートの店で一人で飲むようになった。そこには大勢の士官たちもいたので傍からはその一人として飲んでいるように見えたが、本当のところは人殺しの懊悩についてチッチョから何か引き出せないかとぼんやり意識して店に足を運んでいるのだった。

 一方、チッチョのほうもフランソアに興味を持ち、精神に変調をきたさない大量殺人者の神秘に触れることを半ば楽しみにしていた。こうして、いつのまにかフランソアはチッチョと同じテーブルで香料入りの赤ワインを飲みあう仲になっていた。

 他の士官たちは気難しい犯罪結社の首領と情け容赦のない処刑士官という組み合わせに畏怖の念を覚えた。そのテーブルに対して興味を持っても、三秒以上じろじろと見ることは控えられた。

 一八五七年七月、デ・ノア大佐は機嫌がよかった。大佐の手元には一番新しいヨーロッパの新聞が手に入るのだが、それによると英領インドでインド人の傭兵たちが反乱を起こして、大佐が大嫌いなイギリス人を老若男女の区別なく殺しまくっているらしい。オレイブリー大尉の一件があり、そして、イギリスはまだあきらめずに軍事顧問を送っているという確証がつかめていたから、イギリス人を殺すやつならフランス人だろうがアイルランド人だろうがインド人だろうが大歓迎だった。

 一方、チッチョ・エスポジートの機嫌は分厚い雲に包まれて今にも大雨が振り出しそうだった。原因は七月一日に蒸気船でサン・ディエゴにやってきた十人ほどのナポリ人にあった。そのうちの一人、ペッレグリーノ・ボレッロという老人はチッチョのナポリ時代の上役だった男でチッチョの店にやってくるなり親分風を吹かしてきた。

「チッチョ! 久しぶりじゃねえか!」

「ドン・ペッレグリーノ! 久しぶりですね!」

 そういってお互いを抱き合って、チッチョは店のなかでも一番いいガラス張りの個室へかつての頭領を案内すると、ドン・ペッレグリーノはナポリの近況について話し始めた。

「もうブルボン王家はおしめえだな」老頭領はラム酒で焼けた喉から愉快そうに言葉を紡いだ。「あっちこっちで警官や憲兵がぶっ殺されて、おまわりどもは夜も歩けねえってビクビクしてやがる」

「イタリアが一つになるってえのはほんとなんですかね?」

「わかんねえが、一つになるとしたら北のくそったれどもが政府を仕切るだろうな。南は腐っちまってるからよ。それよりも驚きなのはおめえさんだよ。おめえが南米で一旗上げると聞いたときゃ、うまくいくはずはねえって思ったが、それがどうだい! 立派な店にうまい酒とメシ、女たち、手下は何人いるんだ?」

「五十人より少ねえってことはねえです」

「いやはや、てえしたもんだ、チッチョ、おめえってやつはよ」

 その後、チッチョは老頭領に対して自分の家に泊まってくれと頼んだが、もう旅籠は決めてあるからといい、その気持ちだけで十分だといって帰っていった。

 老頭領と九人の彼の手下が旅籠街へ消えると、チッチョは右腕のイッポリート・ガスパロを呼んだ。

「あのじじいがどうしてここにやってきたのか、すぐに調べろ。ナポリにも人をやって調べさせろ。どうも嫌な予感がしやがる」

 七月半ば、伝説的な速さで快速船が大西洋を往復して郵便を持ち込んだ。あらかじめ税関にたっぷり握らせておいたからチッチョ宛の手紙はピエーテルバルクから快速汽艇で速やかにサン・ディエゴのチッチョのもとに届けられた。

「やっぱりな」手紙を読んだチッチョはガスパロの前で手紙を引っぱたいた。「あのじじいはおれの縄張りを乗っ取ろうとしてやがる」

 手紙の内容は三ヶ月前、ナポリで犯罪結社同士の抗争が置き、ドン・ペッレグリーノが負けてかなりの金と信頼できる部下九名を連れて、南米へ逃げてきたというものだった。

 早速、揉め事が起きた。ドン・ペッレグリーノは仮設テントの酒場をつくると、そこにヨーロッパから持ち込んだルーレット台を据えつけて、さらにラム酒をセント・アリシアから勝手に自分で卸売りし始めた。しかも、チッチョよりも安い値段で卸したものだから、チッチョも重い腰を上げざるを得なかった。

 チッチョがラム酒の卸しと賭場は自分の独占になっていることを告げて、何の届出もなく、こんなことをされると自分の面子に関わるとごく穏やかに言った。

 それを聞いたドン・ペッレグリーノは怒鳴ったりふくれたりすることもなく――それは知らなかった、知っていたらこんなこたあしなかったよ、ただ、おれとお前の間柄だからてっきり許されると思っちまったんだ、ナポリ人の悪い癖だな、ここはもう南米だ、ナポリとは違うもんな、これはこれ、それはそれってわけだ、そうだ、おれの誠意としてこのルーレット台を受け取ってくれ、ドイツの鉱泉賭博場で使われてるのと同じ、青羅紗張りの高級品だ、こんなボロテントよりも、チッチョ、おめえさんの店に置いたほうがずっと似合ってる、そうと決まれば、善は急げだ、ルーレット台を運ぼうぜ。

 だが、厄の芽はまだ完全に摘み取られていなかった。

 八月になると、フランソアがデ・ノア大佐に呼び出された。

「うちの士官のなかで一番チッチョと親しいのはお前だからな。お前から伝えてくれ。あのナポリのじいさんがスカンジナヴィア人どもからみかじめ料を取り立てている。市場をやつの九人の手下に支配させて、市場で野菜を売る際にピンハネしているらしい。わしはこんなことを許した覚えはないし、何もしなければ、わしの権威にもヒビが入る。それにシナ人からも苦情が出てる。あのナポリの厄種は勝手にアヘン窟を営業してヨーロッパ人の客を横取りしているらしい。お前にぶち殺させてもいいが、こいつはナポリ人同士の問題だ。それにわしだって、くそったれな上司にくそったれな目に合わされたことがあるから、チッチョにはそれなりに同情はしている。やり方は任せるから、じいさんを何とかさせろ」

 その夜、チッチョの店を訪れていつもの席に座ると、チッチョは珍しく感情を露にしてフランソアに愚痴を言った。「どうしろってんだ? 確かにおれもあのじじいにはうんざりしてるさ。だが、孤児だったおれを一人前の男にしてくれた恩人でもあるんだぜ。でも、御大はスカンジナヴィア人についてはほっとけ、シナ人についてもほっとけ、文句を言ったら心臓にナイフを突き立ててやれの一本調子なんだ。じいさんはこの土地の大佐の権力を理解してないんだよ。憲兵の親玉くらいにしか思っていない。だから、お前さんのところの大佐をなめるようなことができるんだ」

「とにかく」フランソアは言った。「デ・ノア大佐は何とかしろと言った」

「どうにもできなかったら――」チッチョが言った。「おれがこれまで築いたものを失うわけだ」

「大佐はそうすると思う」

「大佐の言葉を教えてくれ。具体的にどう言っていた?」

「大佐は自分もくそったれな上司にくそったれな目にあわされたから、あんたに同情すると言っていた。それにやり方も任せると」

「やり方も任せる。そう言ったんだな?」

「ああ」

「三日ほど時間をくれ。その時間以内にじいさんにここを出るように説得してみる」

 一日目にチッチョは言葉を尽くし、敬意を表しながら、老頭領がここでなせることはないので、どこか余所の国――アメリカか、アルゼンチン――へ移ってくれと言った。

 老頭領は黙って聞いていたが、最後には了承した。

「おめえがそこまでおれのことを思って言ったんだ。おれは移るよ。おれはなにもおめえの縄張りにちょっかいを出してやろうなんて思ってきたわけじゃねえ。ただ、息子同然のおめえが南米でくたばりかけちゃいねえか心配して寄っただけだ。賭場を開いたり、みかじめ料を取ったりしたのはおれの悪い癖さ。おめえさんがここで元気にやってるのがわかった。それで十分だ。明日にでも手下を連れて出て行くよ」

 その夜、フランソアはチッチョと向かい合って香料入りの赤ワインを飲んでいた。チッチョはいつものルール不明のゲームをやっていた。

「何とかなりそうかい?」フランソアがたずねた。

「五分五分だな」そう言いつつもチッチョの顔は自然と笑んでいて、口元に笑い皺が寄っていた。「おっと、こいつは不吉だ」そう言ってチッチョは蝋燭のそばでカードを見せた。赤と黒の道化師の絵が描かれている。「このゲームではあらかじめジョーカーを抜いてからやるんだがな。今日に限って、どうして紛れ込んだのか?」

 そう言ってカードを振っているとジョーカー札が手から滑り落ちた。それを拾おうと身を屈めると、轟音と霰弾、破砕したガラスの嵐がチッチョの真上を通り過ぎた。フランソアは銃を抜くと破れた窓へ走り、酒場裏手の葦の生えているほうへ散弾銃を捨てながら逃げる人影に三発撃った。黒い影が倒れた。チッチョはその大きな体からは想像し難い素早さで窓から飛び出し、倒れた影に突進した。辮髪を伸ばしたシナ人の殺し屋の手からリヴォルヴァーを蹴っ飛ばし、自分の銃を頭に突きつけながら、光のある酒場の軒灯の下へと引きずった。するとまず辮髪がただのロープであることが分かり、そして顔を確かめると服こそシナ人の着るものだったが正体は老頭領とともにやってきた九人のナポリ人の一人であることがわかった。殺し屋は弾で削れた膝頭をかばうように体を丸めていた。すぐにチッチョの手下が集まった。

「誰でもいいから縄と琺瑯びきの洗面器を持って来い」チッチョが言った。「それによく砥いだナイフも」

 ナポリ人の殺し屋は涙声のイタリア語で早口に慈悲を乞うた。「ドン・チッチョ、お慈悲を、お慈悲を。ドン・チッチョ」

 チッチョは店のなかの梁に輪っこをつけた縄を投げると、それを後ろ手に縛った殺し屋の足に結びつけて逆さ吊りにした。

「お慈悲を! ドン・チッチョ!」

 ドン・チッチョは殺し屋の後ろの髪をつかむとボウイ・ナイフで二、三度ノコギリのように刃を引いて食い込ませて首をちょうど半分切った。血は滝のように流れ出し、殺し屋の鼻筋や額の傷痕を通り過ぎると、禿げた頭のてっぺんから琺瑯びきの洗面器へ滴り落ちた。洗面器いっぱいの血を取ると、傷に布を押し込んで出血を止めて、死体を店の奥の食料庫に隠した。

 何をするつもりだろう、と見守るフランソアの前でチッチョは手下に「おれがシナ人に殺られたといって、ドン・ペッレグリーノを呼んでこい。シナ人と戦争が始まった、手下も全員集めてくれと言え。わかったな?」というなり、いつも座っている席に血を撒いて、その血溜まりにうつ伏せに横になった。

 数分後には銃やナイフで武装したドン・ペッレグリーノと八人の手下が武装したチッチョの手下でいっぱいになっている酒場にやってきた。これから起こることを知っているフランソアにとっては全てが一種の笑劇に見えた。

「チッチョ!」老頭領はイタリア語で叫んだ。「おれの息子同然だったチッチョを! あわれなやつ! おれが必ず仇を取ってやる。おれの残りの人生をお前の復讐に捧げると聖母マリアに誓うぞ!」

 ガスパロが悲痛な顔をして、老頭領に言った。「どうか、チッチョの顔を見てやってください」

 チッチョの手下二人がチッチョを仰向けにしようとしていた。ドン・ペッレグリーノはそのそばでひざまずいて、チッチョの死に顔を見ようとした。

「ああ、チッチョ。かわいそうに」

 そういってチッチョの顔に老頭領が両手を添えた瞬間、チッチョの両手が老頭領の首、腎臓、そして胸の順番に次々とナイフを突き立てた。あっというまの出来事でチッチョがいつナイフを手にしていたのかもわからなかった。老頭領の死に顔は、死者が生者に、生者が死者にひっくり返った瞬間の驚きで固まっていた。老頭領の残りの部下八人も武器を手にする余裕もなく、チッチョの手下たちに両腕を抑えられ、銃とナイフを取り上げられた。

チッチョは自分に覆い被さるように倒れてきた老頭領の死体をわきにどけると、手下たちに命じた。

「店が汚れるから外で殺せ。死体は河に捨てろ」

 店の外で八人の男がメッザ刺しにされているあいだ、チッチョは香料入りの赤ワインを老頭領の死骸に捧げて、一息に飲み干した。

「なあ、じいさん。おれぁこれでもあんたが長生きできるように我慢してきたんだぜ。実の父親同然に敬ってきたじゃねえか。そりゃ、おれは捨て子だから、本物の父親を敬うにはどうすればいいかはよく知らなかった。でも、知らねえなら知らねえなりに精いっぱい尽くしてきたじゃねえか。その返事があれかよ? あんた、おれのこと息子同然って言ったよな? じゃあ、あんたぁ気に食わねえことがあると息子の頭をラッパ銃で吹き飛ばしても平気なのかよ、あ?」

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