第15話

 その夜、サン・ディエゴ陣地に戻ったフランソアは下りの船に自分の部下を、従卒も含めた七名全員を乗せてセント・アリシアに返した。

「大尉殿は残られるのですか?」一度目の遠征を生き残ったジャン・ルイがたずねた。「どうしてなんです?」

 フランソアは答えるかわりに悲しげな目で部下たちを眺めた。

 フランソアは部下を乗せた船がサン・ディエゴの淀みから出て行くのを見守った。地獄に引きずりこまれる前に七人を返したことがインディオの顔をめちゃくちゃに潰したことを合理化するとは思っていなかった。ただ、彼がこれから落ちようとしているのは地獄なのだ。アヘン中毒者の悪夢ともいっていい。彼はこれから、じめじめしたかと思えば喉の渇きに襲われ、歯の根が合わぬほど寒いかと思えば焼けつく熱さに襲われ、誰一人にも省みられない孤独に襲われたかと思えば、世界中の人間から監視を受ける、そんな場所へ落とされるのだ。人はそこを地獄とも奈落ともいうが、フランソアにとって今分かっているのはそこがせまくて薄暗い場所だということだった。

 彼は陣地のなかの士官用テントが張られた場所にある自分のテントに戻った。翡翠の鎚はテントの支柱に立てかけていた。帰る道の途中で何度も捨ててしまおうと思ったが、捨てられなかった。

 サン・ディエゴ陣地はまるで繁華街のようだった。地獄旅団の兵士たちは十分な牛肉とキャッサバの炒め粉といっしょに普通の兵士の倍の量であるラム酒をコップ一杯供給されてご機嫌だったし、士官連はカードと九柱戯で忙しかった。フランソアは静かな場所を求めて、彷徨い、砲兵隊陣地の外れにある監視哨のあたりを歩いていた。その下から要塞の外へ出る道があり、数分もあるけば川沿いの開けた土地に出ることができた。

 こんなふうな夜に忍び寄られて、オヤジは死んだのか。そう思うとこうして今、地獄部隊とともにいることが嘘のように思えてきた。自分のなかの感情が変化しなかった。オヤジを殺したインディオを殴り殺したい。それが叶った。すると、今度は反抗したインディオを殴り殺したいにすり替わった。死後の世界を信じ、そこで受けるであろう称讃や福音をあの鎚で片っぱしから叩き潰してやりたかった。インディオの古代の呪いと現代の軍隊の悪夢があの翡翠の鎚に凝縮している、自分はそれに絡め取られた。帰るべきだと思う一方で「大尉、殺れ」というデ・ノア大佐の命令を待っている自分がいるのだ。こんなこと昨日までは考えつかなかった。

「だいぶお悩みのようですね」

 突然背後から声をかけられ、フランソアはサーベルに手をかけて振り返った。

「待ってください」デ・レオン大尉が両手を上げて微笑んだ。「どうか軍刀をしまってください」

「デ・レオン大尉」フランソアは半分抜かれたサーベルを元に戻して言った。「何のようですか?」

「きっとお困りだろうと思って、おたずねしました」

「ああ、そのことで。ええ、今日は一日、散々な目にあった。悪夢のようだったよ」

「でも、悪いことばかりではありません。旅団長閣下はあなたを正式に地獄旅団に移籍させました」

「まあ、マルク大佐がデ・ノア大佐に逆らう度量がないことは知っていた。ぼくは売られたわけだ」

「違いますよ」デ・レオン大尉は言った。「むしろ気にいられたのです。旅団長閣下はぼくとあなたで処刑用士官が二人も抱えられると大喜びでした」

「処刑用士官とは恐れ入ったね」

「もっと喜ぶかと思いましたが?」

「複雑なんだよ。このまま地獄旅団と一緒に本物の地獄へ落ちていくのか、ここから抜け出して抜け殻のような毎日を過ごすのか」

「そうなんですよ」デ・レオン大尉は嬉しそうに同意した。「ここでの任務を覚えると、もう他の隊には入られなくなります。抜け殻になってしまうんです。掻き切る喉のない生活なんて、ぼくは耐えられません」

「セント・アリシアとタバチェンゴ」フランソアはもうぼやけかけた記憶を探りながら口にした。「そこを往復するのが、ぼくの仕事だった。それが今、ぼくは処刑専門士官として従軍しようとしている」

 フランソアは星空を見上げた。どれもみな青白く燃えているようにすら、見えてくる。あのうちの一つがこの呪われた密林に落ちてきて、全てを焼き払ってはくれないかと願った。どうしても処刑専用士官として残ろうとしている自分がいた。処刑士官になる理由はなかったが、ただの士官として帰る理由もなかった。彼のなかではすでに殺人は罪悪ではなかった。第一回の遠征のとき、すでに彼は一人のインディオを確実に殺しているのだ。だが、無我夢中で逃げる途中に武装したインディオに六発撃ち込んで殺すのと後ろでに縛られたインディオを翡翠の鎚で殴り殺すのとは違うのだろうか? それとも同じであろうか? フランソアは苦笑いした。もう、その区別に意味はない。

「明日、新しい従卒をつけるように旅団長閣下に申請しましょう」デ・レオン大尉は戻る道でフランソアと肩を並べながら言った。「きっと明日の閣下は機嫌がいいはずですから」

「揚げリンゴ以上にあの人を喜ばせるものがあるのか?」

「そんなものは存在しませんよ。ただ虐殺か揚げリンゴかどちらか一つだけ選べと言われれば、たぶん質問者を殺して、そのまま虐殺を行い、デザートに揚げリンゴを食べることでしょう」デ・レオン大尉は少し咳き込んで言った。「で、話を元に戻しますが、どうもヨーロッパから荷物が届くらしいのです。それは処刑器具らしいんですが――」

「ギロチンですか?」

「いえ、それはありません。閣下に言わせるとギロチンはあっけなさ過ぎる、首を跳ねるなら鉈に限ると言うのです」

「つまり、今度の処刑器具は人がのたうちまわった苦しみながら死ぬ装置だと?」

「ええ。これはどこかで読んだ話ですが、シナでは人間の肉を生きたまま少しずつ切り取って殺す刑があるそうです。死刑人は体のどこを切ったら出血を最小、苦痛を最大にできるかを熟知した老人で、その老人にかかれば、人間が生きたまま、イタリアの生ハムみたいにどんどん薄切りにされていくそうです。神秘的だとは思いませんか?」

「いや。ぼくはなぜだか魚市場を思い出した」

「そこがわたしとあなたの違いですね。それが閣下に気に入られたのでしょう」

「彼は処刑士官のコレクションでも作るつもりなのか」

 デ・レオン大尉はそれに答えず、優しい笑みを湛えたまま、では、また明日、といって、自分のテントへ行ってしまった。

 フランソアはその夜、夢を見た。さえぎるもの一つ無い薄暗い草原に全裸でX字に組んだ木に縛りつけられていて、そばにはデ・ノア大佐とデ・レオン大尉、それに乾いた海綿スポンジのようなシナの老人がいて、その糸のような目の奥からキラリキラリと早瀬を上る魚の背のような光が瞬いていた。それは焚き火の光だった。フランソアの後ろで大きな火が焚かれているらしく、風向き次第ではその熱を背中に感じることができた。大佐の影も、デ・レオン大尉の影も、シナ人の影も、そしてX字に縛られた自分の影も焚き火の火でゆらゆらとしながら長く伸びていた。

 デ・レオン大尉が黒い手袋に包まれた手で優しく頬を愛撫するように触りながら、怖がらなくてもいいんです、と耳元でささやいた。デ・ノア大佐は腕を振り上げて合図を送った。シナ人は近づいてくると、フランソアの左の腿の皮を薄く切り取った。激痛が走りフランソアは吼えたが、デ・レオン大尉がフランソアの口を塞ぎ、人差し指を一本立てて自分の唇にあてて、しぃ、と音をさせた。そのあいだにもシナ人は右の腿の皮も剥いでいた。そして、それまで気づかなかったが、フランソアの背後にある焚き火のまわりには、黒い上衣のズアーヴ兵や騎兵士官たちが肉やモツがやってくるのを息を潜めて待っていたのだ。

 その上の鉄板にフランソアの皮が置かれた。フランソアは自分の太腿の皮が焼かれる音を聞きながら、左胸の乳首とそのまわりをシナ人の器用なナイフさばきによって切り取られた。デ・レオン大尉はもはやフランソアの口をおさえるのをやめて、遠巻きに穏やかな笑みを湛えたまま、もう一方の乳首が切り取られるのを見守っていた。二つの乳首は酒の入った小さな壷の上の鋳鉄製の蒸篭で酒蒸しにされた。切り裂きが続き、半分になったフランソアの咆哮が平原に吸い込まれるたびに焚き火の上ではフランソアの残り半分がジュウジュウ、シュウシュウ、ブクブクとうまそうな音を立てていた。老人はこまめに切り口に火であぶったナイフを当てて出血を最小限に抑えていた。フランソアはもうほとんど残っていなくて、すっかりむき出しになった骨格、それに神経と血管、心臓と肺がくっついて、かろうじてフランソアでいることができた。そのころにはもうほとんどのフランソアは地獄旅団の士卒に食べつくされていた。誰かが言った――残りはどうしますか?――別の誰かが答えた――捨てちまえ、犬が食うさ。

「こんなところに犬がいるもんか、馬鹿め!」フランソアは最後の力をふりしぼってそう叫び、死んだ。

 目を覚ますと、早朝の靄のなかに彼の新しい従卒が直立不動の姿勢でフランソアを待っていた。

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