リベラリストに踏絵を。

ひどく背徳的ななにか

the loyalty test for liberalists.

 桃の香りが口腔に広がる。

 ふう、と大きく紫煙を吐き出す。

 厄介事に当たる前には、こうやって気を休めるのが一番だ。わたし――キャサリン・アサロは、右手に握られた電子タバコをもうひと吸いし、淡い桃のフレーバーを鼻孔の奥で味わった。

 左手にある時計型デバイスを起動させる。わたしの今日の心拍数や歩数、体温や代謝が記録されたアプリケーションの奥に、そのファイルは存在した。

 AIHに関する同意書。呆れ返るほどシンプルに、そう冠する添付ファイルを前に、わたしはひどくナーバスになっていた。

 AIH、正式名称はArtificial Insemination by Husband。つまり配偶者間における人工授精という意味だ。勘違いされたくないのだが、今日におけるAIHは、前世紀のそれとは違い、、世界中のごく僅かな例外を除いた大多数の法的に認められた夫婦が行う、だった。

 わたしがナーバスになっているのは、そんなが、何故かに感じなくなっているからだろう。常識なんだ。頭では分かっているけど、うまく言葉に出来ない。タバコの煙のような、芒漠とした不安。今日におけるAIHは、授精率は限りなく高いし、母体に対する影響も限りなく低い。夫のことは愛している。子も為したいとも考えている。――にも関わらず、だ。

 そういえば、前世紀まで、人類は性器を直接使用した、体内授精による交配を行っていたらしい。それも、現代のように性交渉同意書にサインをする法的義務もなく。そう、それはちょうど、わたしの祖父母の年代あたりまで。あるいは、あの核戦争の前まで。あるいは、ジーム・コーポレーションが世界の新たな秩序として君臨するまで――。




 ジーム・コーポレーションは無痛分娩と人工授精、有機ナノマシンの開発、そして遺伝子治療をビジネスとして取り扱う企業の中では最大手であった。ジーム、というのはGene(遺伝子)、Meme(文化因子)、そしてRegime(体制)という単語を併せた造語だという。

 彼らは21世紀の末期にいつの間にか世界に現れた。当初は、同業他社がそうするように、不妊治療などを専門に手掛ける医療関係の会社として存在していた。

 そして、米中核戦争 ――つまり第三次世界大戦が勃発した。天地開闢以来の全面核戦争は、アメリカの勝利で幕を閉じた。中国という国家は、歴史と世界地図の上から消えてなくなった。

 世界を焼いた核の炎は、あらゆる生物の遺伝子をも焼き尽くした。戦後四半世紀の間、放射線は出生率を著しく減少させ、作物へも甚大な影響を及ぼした。このままではヒトという種の存続はおろか、地球そのものが死の星になるのではないかと警鐘を鳴らす学者も少なくなかった。

 だが、結果として、人類は滅亡しなかった。

 ジーム社の開発した全く新しい遺伝子治療は、まるで福音のように現れた。

 放射能汚染によって子を為せなかった父母はもちろん、畜産関係者までもがこぞってジーム社の提供する遺伝子治療を受けることになった。まるで旧約聖書に登場するノアの方舟のように、あらゆる生物がつがいになってジーム社の祝福を受けにやってきたのだった 。

 常識は、科学の発展と歩みを共にする。

 ジーム社の高度な科学技術は、人々の常識をドラスティックに書き換えた。前世紀では当たり前だった性行為による受精を、悪しきもの、違法なものとして淘汰していった。AIHによる受精こそ、祝福されるべきプラトニックな愛だと、世界に、いや人類に対して、新たな規範のようなものを打ち立てたのだった。





 電子タバコのカートリッジが点滅を繰り返す。それは充電を必要としている合図で、わたしは最後に思い切り桃の紫煙を吸い込んだ。

 気晴らしに冷凍庫から、ウォッカを取り出した。アルコール度数の高いウォッカは凍ることがない。ショットグラスになみなみと注ぎ、一気に飲む。ウォッカそれ自体の冷たさが喉を通過した直後に、熱い余韻が駆け抜けていく。続けて、二杯、三杯とショットを呷る。深く呼吸をつく。少しだけ、足がふらつく。

 そのまま、ベッドに倒れこむ。脳の血管が膨張し、神経を圧迫することで発生する微かな痛みを覚えながら、微睡まどろみの中に沈んでいく。明日も仕事だが、気にすることはない。どうせ、起きる頃には有機ナノマシンがアルコールを分解しきっているだろうから。




 わたしの仕事はひどく退屈で、総合病院の事務作業を請け負っている。人々の病や老い、生誕と死を電子信号に置き換えて、端末に日がな一日入力し続けるだけの繰り返し。この先の科学技術が順調に成長曲線を描いていったら、10年か20年先には必ずやAIに取って代わられて御払い箱になるだろう。

 夫と出会ったのは職場だった。彼はこの病院の医者で、旧世代の有機マイクロマシンが変質して引き起こす新種の癌を専門としていた。と、紹介すると聞こえは良いが、実態は三世代前のマイクロマシンだけに見られる構造的欠陥で――すでにその問題も科学技術が解決し終えている――老人達の延命治療に過ぎず、医局でも肩身の狭い思いをしているという。

 客観的に言えば、わたしたち夫婦は、窓際族が互いの安全保障のために寄り添うことになっただけの話だった。

 夫は現在、地方の大学で講演を開いて小遣いを稼ぎに出ている。AIHの同意書も、出張先のホテルから送信されたものだった。言いづらいことを言いづらそうに言うのが、夫の悪い癖だった。結婚して5年が経とうとしているが、不思議と、嫌いにはなれなかった。




 仕事を定時で終え、電子錠のついたロッカーから荷物を取り出す。

 街を歩いていると、空中にホログラムで映し出された広告の動画が再生されている。

 豊かな緑の広場に、色んな人種の子どもたちと動物が触れあっている。そんな映像が数十秒流れたあと、ジーム社のエンブレムが浮き上がる。もう何も広告に載せる必要がなくなった企業にありがちな、無味無臭の、コマーシャルメッセージ。

 わたしはホログラムCMの再生される大通りを意識的に避けて、路地裏に入り込む。

 21st century schizoid man(21世紀の精神異常者)という看板を下げたバーは、裏通りの更に奥まった場所にあった。今時珍しい、電子錠の無い木製のドアを開くと、店主がグラスを拭いていた。

「いらっしゃい」

「ズブロッカ。ロックで」

 店主の返事も聞かぬ内に、カウンター前の椅子に腰掛けた。鞄から電子タバコを取り出し、スイッチを入れる。白桃の香りがする紫煙を三度ほど吐き出すと、目の前にグラスが差し出された。わざわざ球体に削られた氷にズブロッカが注がれており、縁にはカットされたライムが差されている。普通のバーなら、冷却装置付きアイスキューブとライム風味の香料が出されるところなのだが、店主のこだわりが強く出ている。つまるところ、このバーは懐古主義者たちにとって居心地の良い空間なのだ。

 こだわりと言えば、店内には大型の液晶ディスプレイがあり、そこでは営業時間中ずっと、20世紀中盤から21世紀初頭までの映画が流されている。白黒映画からアクション映画まで、多種多様な映画を観させてもらった。現在では違法とされる表現も多く見受けられたが、わたしにはとても魅力的に映った。19世紀から今に至るまで、言語がさほど変わらずにいたのは、プログラミング言語が英語を基にしているからだと、高校の時に学んだ。

 今日の映画は、ナチスドイツが支配する第二次世界大戦下、ユダヤ人親子がホロコーストの中で生きていくものだった。タイトルは、たしか、「ライフ・イズ・ビューティフル」。

 父親はナチの軍人に射殺されたが、息子は連合軍の戦車に乗せられて救出されるラストシーンで、わたしは少し涙ぐんだ。

「どうぞ」

 化粧が崩れないように、慎重に目頭から涙を拭おうとする横から、唐突にハンカチが差し出された。

 振り返ると、金髪碧眼の女性が、にこやかに手を差し伸べていた。

「あら。余計なことをしてしまったかしら」

 女性は、悪びれることなく言ってのけた。

 おそらく、わたしは怪訝な顔を向けていたのだろう。深紫の革のジャケットに深紫の革のパンツ。映像資料でしか見ることはない紙巻きタバコを灰皿に待機させている。懐古主義者たちが集まるバーとはいえ、その中でも彼女のいでたちとりわけオールドファッションなものだった。

「ええと……」

「エリザベス・リン。ミスもミセスも要らないわ」

「キャサリン・アサロよ。せっかくのハンカチだけど、わたしは自分のがあるから、気持ちだけ受けとりますね」

「あら、そう。ところで、あなたよく見る顔ね、。良かったらすこし話さない?」

 勘に障る女だ。わたしは素直にそう思った。わたしはキャサリンだ。などと、気安く呼ぶな。

「いえ、今日はこの映画を見終わったら帰ろうと思ってましたので」

「残念ね、

「こちらこそ。また会いましょう、・リン」

 良い映画の余韻を壊さないためにも、これ以上この女と関わらない方が得策だ。そう判断してわたしはバッグを手に取り、クレジットカードを切ってそそくさとバーから逃げ出した。「また明日ね」と、エリザベスの声が聞こえる。わたしは、それには返事をせずに木製のドアのノブに、手をかけた。




 チャーリーのことを語ろう。

 わたし達夫婦の初めての子ども。

 生まれてすぐに冷たくなった我が子。

 のように、戦車に乗ってはしゃぐことなく短い人生を終えたチャールズ・アサロのことを。

 7年前、わたしはAIHに関する同意書に電子署名し、ジーム社が経営母体の病院で必要な処置を受けた。わたし達夫婦が勤める病院に向かわなかった理由は明確ではない。職場の人間に対する気恥ずかしさがあったのかもしれない。

 わたしはすぐに受胎し、産休もとった。悪阻つわりもさほど辛くはなかった。チャーリーがお腹の中で動くたび、わたしに向かって何かを主張しているような気がして、嬉しかった。

 検査で何か異常な値が出ていたわけではない。むしろ母子ともに健康そのものだった。妊娠して40週目ぴったりに、チャーリーはこの世に生まれ出た。きっと貴方の生真面目な性格が遺伝したんだ、と夫に言うと照れ臭そうに笑っていた。

 しかし、わたしたち夫婦が笑っていられたのは、ほんの短い間だけだった。

 チャーリーは生まれてから4日後、病院のベッドで急死する。

 計器から呼吸音がしなくなったことを不審に思った看護師が駆けつけて発見した。彼の命を奪ったものは未だに判明していない。警察や医者からは俗に、乳幼児突然死症候群Sudden Infant Death Syndrome、SIDSと呼ばれる原因不明の死因だと説明された。

 それからの3年間は、まるで時間が止まったかのようだった。

 夫はひどく落ち込んでいたが、わたしに励まされるのを嫌ってか、今まで以上に仕事に取り組むようになった。講演の仕事を積極的に受けるようになったのもこの頃からだった。酒や暴力に逃避するような人間ではなかったが、わたしにとっては、逆にそうしてくれた方が救われたかも知れない。

 ともかく、わたしたち夫婦は、幼い我が子を亡くした悲嘆を、分かち合うことなく各々の方法で消化しようとしていた。

 そして、夫からAIHに関する同意書が届いた。夫は、彼なりの方法で前に進もうとしている。だが――わたしは?




 仕事を終え、わたしはまた21世紀の精神異常者schizoid manに来ていた。あの女に不快感を覚えたのは確かだが、それで映画観賞を止められるのも癪だ。

「ズブロッカ」

「ロックで、ね」店長ではなく、聞き覚えのある声が返ってくる。

 そんな予感はしていたが、わたしはリンを意に介すことなく、彼女の眼前を通過してモニタの前の席に座った。

「良いお酒ね」

 リンはずいっとわたしの席の隣に座ってズブロッカのグラスをわたしに見せる。

「仕事帰りね。なんの仕事を?」

 わたしのズブロッカが届く。グラス半分をぐっと呷る。深く、息を吐く。鼻腔の奥から、桜の匂いが抜けていく。

「病院の事務。つまらない仕事よ」

「そう、病院……ね。ジーム社の系列?」

「いや、ジェリック・ホスピタル社よ。そういう貴女は?」

「わたしも大した仕事じゃないわ」

 リンはグラスの中の氷を回しながら、意味ありげに微笑んだ。

「テロリストよ」

「テロ……」

 絶句した。この女は今なんと言った?テロリスト、そう聞こえたが。冗談だとしても笑えない類いのものだ。

「驚いた?」

「驚いた。ジョークだとしても」

「ジョークじゃないとしたら?」

 リンは微笑みこそ絶やさないが、まっすぐ、力強いあおの瞳で、こちらを見据えている。わたしは、彼女の意図を把握しかねていた。何が目的なんだ。この女。

「組織の名前は“The SevenつのNation軍隊Army”。どう聞き覚えがある?」

「SNA……、まさか」

The SevenつのNation軍隊Army”、何度か耳にしたことがある。主に病院や政府関連施設を狙うテログループで、その手法は悪辣の一言。公的建造物の放火ならびに爆破、政府要人やその関係者の拉致及び暗殺、重火器の製造、行政システムへのハッキングやクラッキング。犯行声明は、いつも盾と槍を持った骸骨の衛兵が描かれたフラッグを背景に行われる。異性愛しか存在を許されなくなった世界において、LGBTやセクシャルマイノリティ達の権利と解放を目的としたテロを繰り返す、イカれた無政府主義者アナーキスト達というのが、社会的に与えられた彼らの評価だった。

「どうも、良くない印象のようね」

「テロリストが風評を気にするの?」

 わたしがそう尋ねると、リンは大きな目を丸くして、幼児のように哄笑した。

「ふ、ふふふ。ははは。それもそうね」

 指先で涙を拭いながら、リンはグラスを呷る。皮肉に対してのこの反応。わたしは確信した。この女は本物だと。己の目的のために無辜の民を巻き添えに殺してきた殺人者だと。なのに、わたしは、この女を憎めずにいる不可解さを心中で感じていた。

「わたし、女も男も両方イケるの」

背徳主義者ソドミーってわけね」

 、通称ソドミー法に反する者達のことを、一般的にはソドミーと呼称する。旧約聖書で、かつて背徳の限りを尽くし、神の怒りに触れて滅ぼされた都・ソドムにちなんだ名称だった。

「あら、そんな不粋な言葉なんかじゃなく、両性愛者バイセクシャルと呼んで欲しいわ」

「呼び方なんて――」

「重要よ。もしまたわたしを背徳主義者ソドミーなんて呼んだら」

「殺す?」

背徳主義者ソドミー達が普段ベッドで何をしているか、身をもって教えてあげるわ」

 今のジョークは、さすがに笑ってしまった。

「なにそれ、口説いてるの?」

「ええ、もちろん」

 リンは真っ直ぐわたしの瞳を見据えている。もし彼女の視線が熱量を持ったとしたら、わたしの顔は燃え上がっているだろう。なるほど。これが両性愛者バイセクシャルというものなのか。異性愛しか知らないわたしにとっては、なかなかショッキングだ。

「残念だけど、わたしは夫を愛している。その気持ちには応えられない。ごめんなさい」

「フラれちゃったわ」

 リンは濃紺の革のライダースジャケットの内側から、銀色のケースを取り出した。蓋を開けると、紙巻き煙草が10本ほど入っていた。リンはそれを咥え、オイルライターで先を炙る。ライダースジャケットもオイルライターも、映像でしかお目にかかれないものばかりだ。

「前から気になってたんだけど、それってニコチンを摂取しているの?20年以上前に違法になっている筈だけど」

「もちろんよ。地下にネットワークがあって、そこから手に入る。吸ってみる?」

「一口だけ」

 リンの紙巻き煙草を吸わせてもらう。タールとニコチンが入った煙が、喉から肺まで届く実感がある。電子タバコよりも遥かに、重く、味わい深い。

「スコッチのような味」

「そうね。実際、スコッチとよく合うわ」

 もう一口だけ、煙を吸い込む。喉の奥に、強烈な苦みが押し寄せる。ニコチンが作用したのか、頭が少しだけ、くらくらする。

「ねえ、ケイティ」

 茫漠とした意識の中で、リンの声が響く。

「わたし達のアジトに来てみない?」

「え?」

「アジトに来ないか、と言ったのよ」

「テロリストがそんなに簡単にねぐらを晒していいの?」

「構わないわ。ねえ、ケイティ。わたしはあなたの都合を訊いてるんだけど?」

 リンはズブロッカのグラスをぐいっと煽って、わたしの目を覗きこんだ。金色の睫毛の中にある、何もかも見通すような薄いブルーの瞳。リンはうっすら微笑みながらわたしの返答を待っている。

 わたしの都合。リンはそう言った。わたしは、どうしたいのだろうか。リンの問いかけもそうだが、AIHに関する同意書にしてもそうだ。子を一人産むにも法的な契約が必要な世界だ。誰か、わたしの同意なんて無視して、どこか遠くに連れていってくれないのだろうか。

 カランと、グラスの氷が鳴る。

「どうなの」

「……じゃあ、行ってみようかしら」

 リンが嬉しそうに口角を上げる。わたし自身、何故そう言ってしまったかはわからない。同時に、少しだけ高揚を感じているのも妙だった。

 リンが席から立ち上がる。遅れて、わたしも立つ。

 ズブロッカのグラスは、すでに氷が溶け始めていた。




 21世紀の精神異常者schizoid manを出て、少し路地を歩いて大通りに出る。いつ連絡をとったのか、どこからともなく黒い車が現れた。電子端末内蔵のサングラスをかけた若い女が運転していた。細い体だったがややゆったりとしたジャケットを着ている。銃を隠し持っている。わたしは直感した。

 蛍光色のホログラムで浮かび上がる運転席のガジェットをいくつか操作しながら女は言った。

「わたしはジェイムズ。あなたは?」

「キャサリン・アサロ。ジェイムズ、男みたいな名前ね」

 わたしがそう言うと、リンがぷっと吹き出して、「実際、男だからね」

 わたしはミラー越しにジェイムズを覗いた。サングラスをかけているとはいえ、体つきは女性そのものだ。小ぶりだが、ブラウスの上からもはっきりとわかるバスト。華奢な腕。綺麗に梳かされたブロンドの髪。ぽってりとふくらんだピンクの唇。視覚から入る情報全てが彼――いや彼女が女性だと物語っていた。

「ジェイムズは本名よ。男だったときの」

 わたしの視線に気付いたのか、ジェイムズがそう囁いた。

「ごめんなさい、無神経なことを」

「構わない。慣れてるわ。キャサリン、

 友好的な言葉にも関わらず、わたしの鼓膜を震わせたのは感情の無い、ひどく冷たい響きだった。怒らせたのだろうか。そう考えたところで、個人と個人の初対面での失策よりも、を心配している自分の浅はかさに気が付いた。

「そんなことでわたしは貴女を撃たない。信用できないかもしれないけどね」ジェイムズはわたしの心中を読んだかのようにそう言うと、ふっと一息ついた。

「わたしが銃を向けるのは、人の生き方にいちいちクソを塗りたくってくるメジャーリーグmajor league馬鹿assholesどもだけよ。貴女がそうじゃないことを祈るわ」

 メジャーリーグmajor league馬鹿assholesども。そんな罵倒は初めて聞いた。衝撃的でもあったその言葉に、いつの間にかわたしの頬は緩んでいた。

「あら、そんな可笑しなことかしら」リンはにやついた顔のわたしに言う。「着いたよ」わたしの返答を待たずに、リンは続けた。

 社会を揺るがす狼たちの根城は、意外にも繁華街の近くにあった。世の中から見放されたスラム街の廃校。それが七つの国の軍隊の拠点とリンから説明を受けた。

 辺りはやや暗くなり始めていたが、ジェイムズはサングラスを外さなかった。が先導し、校門を抜けてグラウンドを歩いていく。荒廃した校舎が寂しそうにそびえている。別館である室内競技場の扉の前に立つと、ジェイムズはサングラスの縁を指で二度叩いた。やや間をおいて、扉が開く。「生体情報とデバイスとの二重認証セキュリティ。ここから出る際にも、同じ作業が必要になる」ジェイムズがそう説明した。

 室内競技場の中は薄暗く、目を凝らすといくつものテーブルが配置されていて、それら1卓につき4人ほどの人間が談笑していた。

「パーティーでもするの?」

「似たようなものね」わたしはジェイムズに訊ねたつもりだったが、リンが代わりに返答した。

 テーブルの方に歩を進めると、我々に気付いた者達が、それぞれリンに挨拶をしていく。「ブラザー」「同志」「ビッグボス」、呼び名は幾つもあるが、共通して言えることは、彼女は少なからぬ尊敬を集めている様子だった。

 一通りの挨拶を終えて、わたしたちは卓についた。テーブルにはワインクーラーがあり、白ワインが冷やされていた。サングラスを外したジェイムズがシャブリの栓を開けて、わたしとリンのグラスに注いでいく。所作ひとつひとつが、女よりも女らしかった。礼を言うと、まだ冷たさの残る「どういたしまして」と返ってきた。

「ジャックに」ジェイムズはそう言ってグラスを小さく上げた。リンも同様に「ジャックに」と言って乾杯する。

「ジャック?」

「ジャック・ホワイト。この組織の設立者よ。“The SevenつのNation軍隊Army”は、乾杯を必ず彼に捧げる」リンがシャブリの芳香を鼻孔で味わいながら説明する。

「あなたよりも人気者なの?」わたしの皮肉を、リンは鼻で笑った。

「わたしなど比べるまでもない。唯一無二the one and onlyの存在よ」グラスに一口つけて、リンは続ける。

「ねぇ、ケイティ、“The SevenつのNation軍隊Army”って変な名前だと思わない?」

 確かに。言われて初めて思ったが、確かに妙な名前だった。

「あれは、組織の名前を決める会議で救世軍The Salvation Armyを聞き間違えたジャックが勝手に決めたものよ。かっこいいからそのままにしよう、って。ジャックがそう決定したから誰も変えたりしない」

 ジャックについて語るリンの顔は、まるで少女のように輝いて見えた。

「時間がきた」ジェイムズがリンに向かって言う。

「そうね」リンはグラスを持ったまま立ち上がる。

 ジェイムズも立ち上がるが、「ジェイムズ、あなたはケイティの側にいて。命令よ」と制されて再び席につく。

「ケイティ、ごめんなさい。このパーティーの乾杯のスピーチをしなきゃならないの。少しの間だけ待っててね」にっこりと微笑んで、去っていく。

 テーブルには、ジェイムズとわたしだけになった。

 少し間があり、ジェイムズが口を開く。

「ベティとは、どういう関係?」

「ベティ?リンのこと?」

「下手なとぼけ方ね」

 どうやらジェイムズは、わたしに不快感を覚えているようだった。

「バーで会っただけよ。それ以上でもそれ以下でもない」と、言葉にしようとするやいなや、リンの言葉が脳裏をよぎる。

 ――わたし、女も男も両方イケるの。

 確かに、リンはそう言っていた。

 すると、目の前の彼、いや彼女が怒っている理由、そして出会ってから今に至るまで、わたしに対して必要以上に冷たく対応していた理由がパズルのピースのように嵌まっていった。

「何が可笑しいの?」

 ジェイムズは怒気を孕んだ黒い瞳を、こちらに向けている。

「ジェイムズ、妬いてるのね」

 わたしがそう言い放つと、ピンク色の下唇を噛みながらジェイムズが立ち上がる。白い頬は見事に赤らんでいた。

「図星かしら」

「貴女に、何がわかるの」ブロンドの髪は微かに震えていた。

 目の前にいるのは正真正銘の、泣く子も黙るテロリストだ。しかし、想い人を奪われる不安に押し潰されまいとする姿は、思春期の少女のようにしか見えなかった。本当に、ジェイムズは女よりも女らしかった。わたしの人生に、他人に憤りをぶつけるような熱情があっただろうか。彼女が生まれ育った環境など知らないが、わたしには彼女が少し羨ましく思えた。

「ジェイムズ。わたしには夫がいるし、彼を愛している。リンから何を言われようとほだされることはない。それについては夫にも神にも誓うことができる」

 ジェイムズは何か考えているような様子で、わたしを見据え、やがて「わかった」と呟いて椅子に座り直した。

「取り乱してごめんなさい」

「いえ、大丈夫。リンのことが好きなのね」

「ベティには黙っていて」

「別に言えばいいじゃない」

「わたしは、ベティの護衛よ。そんなこと、言えるわけがない」

 目を反らしながらジェイムズは言う。なんて健気なんだろうか。わたしは、身悶えするほどの甲斐甲斐しさをジェイムズに感じていた。いくつかの言葉を交わしただけの関係に過ぎないが、わたしはのことが気に入っていた。

「始まるわ」

 ジェイムズが何かに気付き、掌を掲げる。

 すると照明が暗くなり、ピンスポットが壇上の舞台の下手しもてを照らす。袖から、グラスを持ったリンが現れた。観客たちが、立ち上がってリンを迎えている。リンはそれらに片手を振りながら答えつつ、舞台中央に向かって歩いていく。

 乾杯のスピーチにしては、演出が少し仰々しい。

 何が始まるのだろうか。

 尋ねようにもジェイムズは、すでに舞台上のリンから視線を外さない。

 演台に立ったリンは、満足そうに当たりを見渡していた。背後には、槍と盾を持った骸骨ドクロの衛兵のフラッグが高々と掲げられていた。




ともがらたちよ。戦いはやがて終わる」

 演台のマイクに向かってリンは、力強い声でスピーチを始めた。

「偉大なる指導者、そして最愛の我が夫、ジャック・ホワイトが凶弾に斃れてから一年が経った。大いなる悲しみに打ち震えた年だった。だが我らの闘志に些かのかげりがあっただろうか」

 観客たちは雄叫びを上げる。

「その通りだ。諸君。我らの闘志はますます燃え上がるばかりだ。では、我らの闘志は、何に対してのものだろうか」

 怒号のようなもの、もはや意味を消失したが、リンの元に押し寄せた。

「そうだ。全くもってそのFuckin' exactlyりだ。諸君らは玉無し野郎どもとカマトト女どもにファックのやり方を教示するために戦っている。あるいは、愛の形を勝手に定義するクソ貯め社会のクソOSの入れ替え作業のために、だ。わたしが誰をどのように愛すかを、わたし以外の誰にも決めさせやしない。神にだってその権利はない。神が決めるというのなら、我らは神とだって勇敢に闘ってみせよう」

 興奮の坩堝となった会場を、リンが掌で制止する。

「諸君らの何人かは命を落とすことになるだろう。かの良き友人――偉大なる指導者――ジャック・ホワイトがそうだったように。ともがらたちよ。存分に死を恐れよ。真の英雄とは、恐れを知り、それを克服する者だ。死を恐れぬ者が居れば前に出よ。そんなマス掻き野郎は我らの軍に必要ない。愛する者をそれ以上愛せぬ事実に震えよ」

 近くのテーブルのゲイのカップルたちは、肩を抱き寄せ合い、口づけを交わしていた。

「輩たちよ。勝算はある。敵は我々を恐れている。奴らは愛を定義せねば人を愛することも出来ぬ腰抜けばかりだ。他人のファックが恐ろしくてガタガタ震えるような臆病者だ。わたしの夢は、そんな腰抜けどもをを立てながら一人残らず肥溜めに叩き込むことだ。輩たちよ。我らが安心してファックを楽しむためには、そういう蛆虫どもを一掃しなければならない」

 これは、パーティーの乾杯の挨拶などではない。蹶起けっきだ。ようやく、わたしにもそれが理解できたが、あまりの迫力に動けなかった。会場がリンの言葉で、一つの巨大な意志を持つ獣のようにまとまっている。

「ジーム・コーポレーションは確かに、世界を一度ひとたび癒した。荒廃した世界を救ったかも知れない。だが彼らの用意した方舟の乗員リストには、我らの名前などありはしなかった。わたしにはそれが許せない。我らの多くは子を為すことも出来ない。だから何だ。で人が人を愛する権利を奪うのか。奴らは、神にでもなったつもりらしい。Allrightしい。まことにFuckin' allrightしい。輩たちよ。ならばこれはもはや神殺deicideしだ。我らは傲岸で臆病な神のなり損ないを、その御座みざより引き摺り下ろす」

 指を地面に差しながら、堂々とリンは世界への宣戦布告を言い放った。そしてグラスを高々と掲げる。

「今こそ、奴らの自由への忠誠心を試すときだ。我らはリベラリストthe loyalty testへの踏絵for liberalistsとなるだろう」

 そして一息ついて、「ジャックに乾杯」と、一際大きな――それはもはや絶叫に近く――声で乾杯を促した。聴衆たちが「ジャックに乾杯」と続く。

 わたしは、身動き一つ出来ずにいた。場違いさ。それも確かにあるだろう。それよりも会場を取り巻く狂気に、完全に呑まれていたのだった。

 その時だった。ガラスの割れる音がした。




 ジェイムズの動きは早かった。テーブルを倒し、ジャケットの内側から銃を取り出すと、わたしの体をテーブルの裏に伏せさせた。

「伏せていて」

「なにが起きたの!?」

 わたしは事態を飲み込めず、そう叫ぶ。

「警察よ。おそらくね」

 周囲からぱらぱらと発砲音が聞こえてくる。わたしは恐る恐るテーブルの端から周囲をうかがった。

 “彼等秋の葉の如く群がり落ち、狂乱した混沌は吠え猛り”――。

 まるでミルトンの「失楽園」の一幕。天界から追い出されたルシファーとその手下の天使が地獄に堕ちていく様のように、神に逆らった者達が呪詛の言葉を吐きながら、鎮圧部隊の銃弾で塵芥ちりあくたのように倒れていった。

 ジェイムズがテーブルの縁から少しだけ頭を出して、様子を窺っている。重火器の掃射音が聴こえてくる。

「ジェイムズ、わたしに構わずリンのところに向かってあげて」わたしはたまらず叫んだ。

 ジェイムズはリンのことを愛している。リンの窮地に向かうべきだ。今日会ったばかりのわたしなんか、放っておけばよい。本心からそう思った。

 だがジェイムズの返答はわたしの考えとは真逆のものだった。

「それは出来ない。わたしはベティから、貴女の側にいるように命令された」

 ジェイムズはテーブルの向こう側に注意を払いながら、極めて冷静に言い放った。

「命令?馬鹿馬鹿しいわ。そんなものは無視すればいい。あなたはリンを守りたいんでしょ」

 わたしの言葉を受けて、ジェイムズはテーブルから視線を切った。そして、片手でわたしの胸ぐらを掴み、顔を引き寄せた。

「ベティの大切な人を、二度も失わせはしない」

 その黒い瞳は、悲しみや怒り、あるいは焦燥と決意、相反する感情が入り乱れた複雑な光を帯びていた。

 特殊部隊のマシンピストルから放たれた、9x19mmパラベラム弾が机をずたずたにしていく。ジェイムズはわたしの手を取り、別のテーブルに滑り込む。弾丸が来た方向へ、すかさず威嚇射撃を見舞う。下には、スピーチ中に肩を抱き寄せあっていたゲイのカップルが一人は頭を撃ち抜かれ、一人は腹圧によってはみ出した腸を抑えながら苦悶の表情のまま死んでいた。床には、血塗れの銃が落ちている。わたしはその銃を手に取った。

「わたしも戦う」

「その銃には、期待しないほうがいい」ジェイムズは事もなげにそういった。

 引鉄ひきがねを引いてみる。何かが詰まったようにそれ以上押し込むことはできなかった。

「体内のマイクロマシンと銃の生体認証。持ち主が違うと銃は金属バット以下の能力しか発揮しない。キャサリン、お願いだからじっとしてて。わたしはあなたを失いたくないの」

 わたしは銃を床に投げ棄てる。近くにパラベラム弾が転がっている。Si Vis Pacem, Para Bellum(平和を望むならば戦いに備えよ)というラテン語のことわざから名前をもじった弾薬が、今は他者を愛する権利を求めて戦う者たちをほふり続けている。

 この世界に天国があるかどうかはわからない。ただ、地獄はある。。わたしは、ただ他者が死んでいく様を見せつけられながら、なにもせず立ち尽くしている。

 その時、わたしの視界がになにか赤いものが飛び込んできた。

 わたしの血ではない。

 ジェイムズが撃たれた。肩のあたりを抑えている。黒いジャケットの生地が破けて、そこから血が滲んでいる。

「ジェイムズ!!」わたしが近寄ろうとするやいなや、「離れて!!」と彼女が叫ぶ。「奴らが近づいてくる。早く逃げて」眉間に皺を寄せながら、彼女はなおも銃を離さなかった。

 逃げる?どこに?ここは地獄だ。どこへ行こうと逃げられない。

「いたぞ!!」

 掃討部隊の声が聞こえる。思っていたよりも、彼らは近くまで迫っていたようだ。

 マシンピストルが辺りを一斉に薙ぎ払う。わたしたちが身を隠しているテーブルの上半分は吹っ飛んでしまった。

 黒い防弾着を身にまとった特殊部隊の隊員が、銃を構えながらこちらに近づいてくるのが見えた。

「抵抗するな。銃を捨てて手を上げろ。ゆっくりとな」

 隊員は怒鳴りつける。後ろから、他の隊員が周囲を警戒しながら歩いてくる。

「言う通りにしなさい」

 ジェイムズは肩を抑えながらわたしにそう促す。

 わたしはゆっくりと手を挙げ、立ち上がる。

「手を頭の後ろで組め。おい、おまえもだ」

 隊員がジェイムズに銃を構えながら命令する。

 ジェイムズは銃を捨てようとしない。まさか、ジェイムズ――。

「さようなら。。わたしは戦って死ぬ」

 ジェイムズは銃を発砲し、投降を促した隊員は崩れ落ちた。そして、わたしを蹴り飛ばす。そのあと、ジェイムズは後衛にいた隊員たちの一斉射撃をまともに浴びて、踊り狂った。床には、が飛び散ってきた。




 それからの記憶に関しては今でも断片的でしかない。

 蹶起の情報を入手したテロ鎮圧の部隊が廃校を襲撃。大規模な掃討作戦が決行された。警察側とSNA側併せて642人の死傷者が出たと報道では発表されていた。

 SNAの首魁であるエリザベス・W・リンに関しては生死不明で、その首には、国内外に向けて生死問dead or aliveわずの懸賞金がつけられている。

 わたしは、何日間か警察の取り調べを受けたが、銀行口座やインターネットのアクセス記録、そして町中の監視カメラから割り出した掃討作戦前の足取りから、SNAとは無関係な一般人であることが証明され、すぐに釈放された。

 夫は、事件後すぐに家に戻ってきた。あらゆる仕事をキャンセルして。

 気を使っているのだろうか。不器用な人だから、わたしにはなにも言わない。




 今でも、ときどきあの演説のことを考える。

「わたしが誰をどのように愛すかを、わたし以外の誰にも決めさせやしない」

 エリザベス・W・リンは力強い言葉でそう言い放った。

 チャーリーは、良い兄になれるだろうか。

 わたしはAIHに関する同意書にサインし、前に進むことにした。



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リベラリストに踏絵を。 ひどく背徳的ななにか @Haitoku

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