プロポーズ

「子供ができた?」

「うん。検査薬で陽性だったの」

「そりゃあいい。でかした!」

 俺は笑顔で取り繕うが、心の中では動揺を隠せない。何気にハンドルを持つ手が震える。


「喜んでくれるの? 良かったー。おろせとか言われたらどうしようかと思っていたの」

「そんな事言うわけないじゃないか」


 やはり桃恵が、未来の俺の妻らしい。信号待ちの間に軽くキスをする。


 もうこうなったら流れに身を任すしかないようだ。心は波に似ている。不安と希望が交互に去来する。金の心配はない。俺の動揺は少しづつ鎮まっていく。


 何時ものパラグライダー場に車を止め桃恵に尋ねる。

「妊娠したとなると、激しい運動は出来なくなるんじゃないの」

「まだまだそんな段階じゃないわ。それより早く飛びたーい」


 桃恵の特訓が始まった。インストラクターの先生が熱心に指導をしてくれている様子。

 俺は一人で風を待つ。


 向かい風が来ていざフライトだ。空の散歩を一人で楽しむ。桃恵の方は悪戦苦闘しているようだ。


「めっちゃ難しいの」

 休憩をとり、缶コーヒーを飲んでいると、桃恵が笑いながら弱音をはく。

「最初のうちはそんなもんさ。三日目辺りからコツが分かってくるよ」

「うん、頑張る!」


 桃恵はコーヒーを飲み干すとまた練習に向かう。

 俺はインストラクターの先生にそれとなく聞いてみる。


「俺の彼女が妊娠したようなんですけど、激しい運動なんかは大丈夫なんですかね」

「あー、それはおめでとうございます。五ヶ月辺りまでなら何の問題もないですよ」

「そうですか、ありがとうございます」


 だが、俺はまだ別の意味で動揺していた。彼女が妊娠をすると、やはり結婚しなければならないだろう。タイムテーブルが崩れるんじゃないだろうか。


 しかしこの四ヶ月で、案外時間軸は強固でそうそうタイムパラドックスなどは起きないというのを実感している。現に未来の俺の存在が、それを示している。一月で死ぬはずが、もう三ヶ月も延命している。未来の医療は確実に進歩している。完治すれば、菜々子にプロポーズをするとまで言っている始末だ。そういう事を踏まえて考えるに、過去にタイムスリップをするのは分からないが、未来の世界の時間軸は結構柔軟で、ある程度のタイムパラドックスは、織り込み済みなんじゃないかという気がしてくる。


 俺は缶コーヒーをゴミ箱に投げ込み、またフライトへ出かけていった。




 九月九日、今日は桃恵の誕生日だ。ケーキを持って遊びにいく。


「お誕生日だ。おめでとう」

「わーありがとー。ちょっと待ってね、部屋を片付けるから」


 片付いたところで、俺はちゃぶ台にケーキを置き、蝋燭を十九本さしていく。カーテンを締め部屋を暗くし、桃恵を待った。

 桃恵は紅茶を入れ、ちゃぶ台に並べる。


「チョコレートケーキね、チョコレート大好きなの」

 桃恵は終始ごきげんである。

 蝋燭に火をともし、「ハッピーバースデートゥユー……」お決まりの歌を歌う。


 桃恵が蝋燭を吹き消す。カーテンを開け、外の光を入れる。お誕生日会が静かに始まった。

「最近はどうなの?勉強は進んでるの」

「あんまり進んでないわね、興味がないことは身が入らないのよ。まあ、何とかなるわよ」

「まあ、何とかなる……ね。頑張るんだよ」

「ハーイ、頑張りまーす」


 ケーキをばくばく食べていく。その食いっぷりが相変わらず凄い。


「予定日はいつになるんだい」

「産婦人科に行ったら、来年の三月上旬って言われたわ」


 来年の三月か……その頃俺はこの時代にいるのだろうか。


「体を大事にするんだよ」

「分かってるわ。まだ吐き気がしたりとかそういうのは、ないみたい。ただ…」

「ただ、何だい?」

「大学のほう、迷ってるの。つわりがひどくなれば、一年間ほど休学しようかなって」

「そうだな、でもなんで社長になりたいんだい。選択肢はいろいろあるだろうに」


 桃恵は考え込んでいる様子だ。俺はケーキを一口食べる。

「家が母子家庭で貧乏だったから、かな」

 桃恵が語り始める。

「私が中学生のころ、親が離婚したの。それからはお母さんは、夜も昼もなくパートで働き始めて…お父さんからは何の援助もなかったみたいなの。たまにおかずが、お芋の煮っ転がしだけなんていうのが当たり前な家庭だったわ。そこで私は『貧乏だけはいやだ』って思ったの。だから風俗嬢になるのに何のためらいもなかったわ。だから、だから……社長になれば、貧乏から逃れられると思って……」


 桃恵は涙ぐみ、次第に泣き出してしまった。普段の天真爛漫な彼女からは、想像もつかない暗く切ない過去であった。


 俺は桃恵の横に座って、そっと抱き締めた。

 まるでガラス細工を扱うように。


「もう泣かなくていいよ。俺がついてるから」

 心から彼女を愛しいと感じた。

「大学を卒業したら、俺の会社の社外取締役のポストを開けておいてやろう。年収は一億とまではいかないが、五千万円は払うことができる。それで貧乏からおさらば出来るだろう。どうだ、漠然と社長になるのは難しいが、こういう方法もある。考えておいてくれ。それと、産休は二年ほど取った方がいいよ。まずは育児に専念することだ」


 彼女の表情がパーッと明るくなった。

「本当に? 大好きよ!」

 俺の胸に顔をうずめる。

「社外取締役って何をするの?」

「何の事もない、監査役のようなものさ。事業計画を眺めてここが悪い、あそこが悪いって文句をつけるのが仕事みたいなものだ。経営学部出身なら、誰も文句は言わないだろう。お気楽なポストだよ」

 俺は笑って答える。


 その時、桃恵は口から異物を取り出した。おもちゃの指輪だ。いきなりのサプライズである。桃恵は仰天している。俺は片ひざを着き、プロポーズをした。


「俺と結婚してくれないか?子供ができてから真剣に悩んだ結果だ」

 桃恵はまた涙ながらに、震える声で言った。


「こんな風俗嬢上がりの私でいいの?」

「俺には君しかいないんだ。もっともっと二人で人生を謳歌しよう。それはおもちゃの指輪だけれど、今度一緒に婚約指輪を買いに行こう。好きな物を選ぶといい」


 桃恵の顔にいつもの笑顔が戻った。


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