菜々子の気持ち

 うだるような暑さが連日続いていた。蝉が我が家の庭の木に取り付いてやかましく鳴いている。俺は日曜日ではないが、今晩行われる花火大会に桃恵を誘っている。菜々子はいつものようにリビングにいるが親しく話せる関係ではもうなくなっている。


 腹が減った。動きたくはないが弁当を買って来る事にした。チキン南蛮弁当を二人分頼む。菜々子の好物だ。


 家に帰るとソファーでぐったり寝ている。ティーシャツと短パン姿がなまめかしい。


「ほらよ」

 俺は弁当を一人分テーブルに置いた。

「ありがとう」

 意外にも素直に弁当を受け取った。ソファーに座り直しふたを開けるといい臭いが漂う。


「いただきます」

 これを言わないと悪い事が起きそうでどちらともなく言う。


 弁当に手をつける。会話もなく、黙々と食べている。


 俺が口を開く。

「子どもができたらどうするんた? おそらく過去へ戻れなくなるぞ」

「その時はその時よ」

「ピアニストは指が命だろう。これほどのインターバルをおくと、もう全盛期のようには弾けないんじゃないのかい」

「もう!何が言いたいのよ!俺の方に戻ってこいとでも言うの?意味が分からないわ」

「そうじゃない。俺は一貫して、タイムパラドックスの事を話しているんだ。お前と俺とがこちらに来たために起こってしまう、大きな出来事。本来なら一月であいつの死を看取って帰る予定だった筈。そうするとお前は来年エントリーし、プロのピアニストになっていただろう。しかし、あいつはどんどん病状が良くなっている。このままいくと半年から一年の間に全快してしまうぞ」


 菜々子は横を向いて聞いている。

「俺はあいつに全快したらどうするんだと聞いたんだ。そしたらぬけぬけと、お前にプロポーズをすると抜かしやがった。もうすでに時間の綻びが出始めている。これを見ろ」


 俺は自分のスマホで、桃恵のページを開く。そこにのっぺらぼうのように写る自分。見ると忌避したくなるような人物像。菜々子は大きく目を開け、見いっている。


「これ全部あなたなの?」

「そうだ。まぎれもなく。時代が俺を排除したいようなんだ。もちろんお前も。これらを聞いた上であいつと結婚するのかしないのかどうするんだ?」


 菜々子は下を向き、頭を振る。

「愛してしまったの本当に。あの人の子どもが欲しいの。たとえプロのピアニストになれなくてもいい。ずっと一緒にいたいの」

 菜々子は泣き始めてしまった。


「それがお前の答えなんだな」

 菜々子は涙を拭きながら答える。

「そうよ。タイムパラドックスなんてどうでもいいわ。私はもう別の道を歩き始めているのよ。あなたもそうじゃないの。あの若い女にうつつを抜かして。どうせ今夜の花火大会に一緒に行くんでしょ。お互い様よ」


 俺は言葉が出なかった。彼女は決意をしているのだ。一生あいつと添い遂げると。


 俺は弁当の残りを掻き込み、菜々子を見た。硬い表情を崩さず残りを食べている。


 もう何も言うことはないな……


 俺は弁当を食べ終え、容器をゴミ箱に捨てる。

「当座の生活費だ」

 そう言うと三百万円を菜々子に渡す。

「ありがとう」

 菜々子は素直に受けとる。やはり俺はまだ未練が残っているらしい。少しだけ涙が滲む。

「使い切ったらまた言ってくれ」

 それだけ言うと俺はまた客間に戻りクーラーをつける。心に大きな穴が開いているのを感じながら。




 花火大会は大盛況だった。屋台が並び、祭り気分を盛り上げてくれる。桃恵は浴衣で来ていた。その姿にうっとりとする俺。まるでアイドルのようにポーズをとり、写真に納まっていく。二人で一緒に自撮りもしたが、やはり俺の顔は不鮮明なままだ。

「これもキューブにアップするのか?」

「勿論よ。これが見たくてフォロワーになった人も大勢いるんだから」


 屋台で焼きイカを二つ頼む。これを食わなければ祭りに来た気がしない。ソースがべっとりと口の回りを汚す。桃恵は笑いながらハンカチでそれを拭いてくれる。楽しい時が流れる。


 花火大会が始まった。川の土手に座って、さっき買ったかき氷を食べながら眺めていると、圧巻の地上花火から始まった。


 大玉の打ち上げ花火の音圧を感じる。やはり近くでみる花火は迫力が違う。桃恵はキャーキャー言いながら花火を堪能している。それを嬉しく眺める俺がいる。


 三十分ほどで、全プログラムが終了した。

 祭りの後の寂しさが、二人を包む。桃恵が口を開く。

「ねえ、私もシングルフライトを目指したいの。土日だけ連れていってくれない?くせになっちゃったみたい」

「おーいいよ。土日だけだと月に八日か。一月も通えば取れるだろう。思ったより安全だからな。しっかりインストラクターの先生の言うことを聞くんだぞ」

「オーライ!」

 桃恵がふざけて敬礼をする。俺は軽く頭を小突く。


 そして夜は濃密な時を過ごす。何度でももたげてくる欲望を貪るように俺は彼女を求めた。


「シングルフライトを目指す前に沖縄に旅行にいかないか。」

 学校は休みに入っている。俺はハワイを諦めて沖縄に三泊四日で旅行にいかないか切り出す。桃恵は、

「行きたーい!泳ぎたーい!」

 と、即決で返事をする。


 石垣島の民宿の予約を取ると、次の月曜日には飛行機の中だ。夕方無事民宿に到着すると、その日は早く寝てゆっくり体を休めた。


 次の日からスキンダイビングに挑戦する。シュノーケルだけなのでその日からダイビングができる。インストラクターの先生についていくと、サンゴ礁の海が広がる。


 波に揺られながら、青や赤や黄色の魚を眺める。先生がオキアミを回りに撒くと、小魚が回りを包みこみ、幻想的な世界が広がる。


 俺達は大満足で夜の町にくりだし、居酒屋に入る。黒ビールで乾杯をすると、桃恵が驚く。

「何このビール。めっちゃ美味しい」

 そういえば桃恵はまだ未成年だった。しかし大学生だからもういいだろうと、黒ビールを追加する。


 少しだけ酔っぱらいながら民宿に到着する。

 新鮮な刺身をたらふく食べて、同じ宿に泊まっている家族と語り合う。


 沖縄旅行は、あっという間に終わってしまった。次の土曜日は桃恵のフライト特訓の日だ。俺達は遊び回り、幸せの絶頂にいた。


 九月に入った。いつものように桃恵を迎えにいくと、車の中で思わぬ話を聞いた。


「私ね、赤ちゃんができたみたいなの」

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