第二話

 先頭に立って執務室を出た鉢塚が回れ右をして振り返る。日計洋一はぶつかりそうになりながら、背後で扉が閉じる音を聞いた。

「ツラを貸せ」

 今日は誰もかれもが自分と話をしたがる日であるらしい。危機に瀕して回転を速めた頭をさすりながら、はあ、と日計は気の無い返事を返した。

 鉢塚が眉根に皺をよせ、はい、と返事をし直す。自分は疲れているな、と日計は自覚する。

 そしてこの口煩い二等陸曹に親しみを感じ始めている自分が、少し信じられなかった。

 今までけなすだけけなされていただけに、自らの身を挺して彼の擁護をした鉢塚は、ただの鬼教官から畏怖の対象へと格上げされつつある。だからといって訓練で手を抜くなどとは考えず、むしろ逆だ。ここまで目をかけてもらったのだから、期待に応えよう。前向きな自分に驚きながら、目の前を先導して歩いていく広い背中を追った。

 唐突に現れた階段を昇っていく。日ごろのランニングのお蔭で息切れも起こさない。順調に自分の身体は兵士へと変貌しつつあるのだとわかる。

 同時に、この肉体の変化は志を置き去りにしている、と日計は思う。自分の心はまだ兵士になり切ってはいない。

 陽光の差し込む網ガラスが差し込まれた両開きのドア、その右側に据え付けられたノブを回して押し開く。

 眩しい太陽光が網膜を焼いた。兵舎とは違い、洗濯物の干された物干竿もないクリアな視界が開ける。

 みなとみら駐屯地は広い。地上面積だけで横浜港沿岸地区の一割以上を占めている。自衛軍施設の中でも最大規模を誇り、駐屯部隊はPG科から高射特科までを含んで五千に迫る。ヘリポートもいくつか所有しており、ティルトローター機が頻繁に人員の入れ替えや物資の搬入を行っていた。

 気持ちのいい晴れ空を横切る民間用の旅客機。大きな翼をしならせて飛ぶ金属の塊を見上げていると、鉢塚二曹はおもむろに懐から煙草を取り出して口に加えた。そのままシガレットの箱をこちらへ差し出してくる。

「いるか?」

「いえ、自分は吸いません」

「なんだ、つまらん。最近の若いのはこれだから。死に際になって吸いたかったといっても、黒い奴らは煙草なんかくりゃせんぞ」

 ぶつくさと文句を言いながら安物のライターで火を点ける鉢塚。深く一服すると、煙突のようにもくもくと紫煙を吐き出す。

 彼は転落防止用の柵に身をもたせ掛け、訓練に励む機甲科の訓練生たちを遠巻きに眺め始めた。その隣で立ったまま、日計洋一は気持ちのいい五月の空が輝くみなとみらいの景色に見入っていた。

 よく勘違いされる事だが、横浜港に大型の護衛艦は入港できない。ベイブリッジが巨大な建造物を満載した軍艦、およびそれに比肩し得る大型船舶の入港を許さないのだ。みなとみらい駐屯地が建設された当初、計画案として港を設けるかどうかが議論に挙がったが、ベイブリッジがひとつの防衛兵器として湾内への敵船舶侵入を防ぐ事と、大桟橋からの輸送船から物資輸送を行えばよいとして却下された経緯を持つ。

 この地が戦火に巻き込まれるなど、ぞっとしない話だ。

「お前に話しておく事がある」

 途絶える事の無い車の流れがきらめく海を背景に大橋を渡っていく。日常という風景を見やり、日計洋一は鉢塚の言葉を聞いていた。

「はい、二曹」

「重要な事だ。お前は、まあ当然の事ながら、ここでの教練課程を終えたら、正式にどこかの駐屯地へ派遣され、PGドライバーとして着任する事になるだろう。そうなれば、お前は世界に数万といないドライバーの一人として、蒼天を与えられる。お前自身はそのことについてどう感じる?」

「ぼく、ですか」

 鉢塚はくるりと向きを変え、鉄柵に背中を預けながら抜け目のない瞳で日計を見つめた。

「そうだ。お前自身がどう思っているのか、腹を割って話したい」

 彼は少し考え、いや、考えてはだめだ、自分の心をそのまま言葉として紡ぎだす事を先方は期待しているのだと思い直し、言った。

「何とも思いません。いや、思いませんでした。先ほど、二曹からお言葉を貰うまでは」

「まだ思案しているということか。それとも脊髄反射的に戯言を口走っているだけか」

「ぼくはまだ自分との比較対象を同じ訓練生以外に得てはいませんから、どれだけ自分に才能があるのかを推し量る事はできないのです。ですが、これから戦いに身を投じる意味、それは案外、ぼくの近くにあるのではないかと、そう感じています」

 一瞬。鉢塚はできのいい息子を見るような優しい目をしたが、すぐに教官らしい鋼のような顔に戻った。

「成程な。そいつはお前にしては上できだ」

 彼は吸殻入れのレーション缶に吸い切った煙草を放り捨て、もう一本に火を点けた。

「人間、何かのために戦う時は、イデオロギーや主義主張のためではなく、自分に近しい具体的な何かを頭に浮かべるものだ。たとえば家族、友人、恋人。金や快楽は目立ちこそすれあまり見ない」

「やはり……そういうものですか」

「当たり前だ。おれ達は軍人なんだ。戦闘行為には目的が必要となる。特に――」

 煙草を指で挟んだ左手を、彼は管理棟から少し離れた場所にある巨大な格納庫へ振る。そこには配備されている蒼天が十六機と、日計らの乗る訓練用蒼天が四機、格納されている。

 赤と青のラインが入った白い訓練機が、恐らく鷺澤や久世、藤巻の操縦によって動き出しているのが見えた。覚束ない足取りなどではなく、しっかりと大地を踏みしめ、巨大な脚部と腕を同調させて重心を取りながら歩く度に、軽い振動が管理棟を駆け巡る。身体の動きに合わせて、ウェイトスタビライザーも奇妙な動きを繰り返していた。

「――PGTASは恐ろしいほど扱いにくい代物だが、同時にとてつもない潜在能力ポテンシャルを秘めている。評論家や本省の頭の固い奴らの一部には未だに反PGTAS派が残ってる。一〇式戦車を改良配備すべきで、大型兵器よりも費用対効果に優れていると主張しているんだ。だが、それは間違いだ。それらは既に実現している、蒼天の研究データをフィードバックさせることでな。PGTASを持つ利点の主たる理由はそこにあるが、昔ならいざ知らず、今のPGTAS、特に蒼天は、ひとつの兵器として完成しつつある」

「単騎の戦闘力を底上げしても、より巨大で、機能的な軍組織の前では無力でしょう。二曹の仰る通り扱いにくい威力のある兵器よりも、取り回しが容易で、誰もが手にできる兵器がひとつ存在するほうが、軍隊で利用する際には適しているのでは?」

「その通りだが、話はそう単純ではない」

「どういう事でしょうか」

「人だよ、日計。どんな兵器も人間が扱う、関わるものだという事だ。UAVでさえ、指令センターに詰めているのは人間だろう? 戦争は人間無くして成り立つことはない。争いの火種とよく言うが、火種に着火するのは、いつだって人間の意志だ。そうでなければならない。どんなに汚くて醜悪な出来事でも、人間が始めた限りは、人間がケリを付けなければならんのだ」

 それから、鉢塚二等陸曹は柵に背中を預け、空をふり仰ぎながら深々と紫煙を吸い込み、吐き出した。白い煙が空へと溶け、風に掻き消されていく。

 日計は、その煙の行く先を追い、自分の中に何かが芽生え始めているのを感ぜずにはおれなかった。

「お前がPGTASに乗れば、正直、その暴走を止められる実効的な武力は、日本にはない」末恐ろしいことを、彼はなんともないように言って見せた。「機甲師団でも持って来なければ仕留められんだろうな。それでも被害は甚大だろう」

「ぼくはそんな大それた事なんて考えてもいません」少し憤慨して言うと、鉢塚二曹は少し驚いた顔で首を傾けてこちらを見た。「あなたは、ぼくが市民を虐殺するとでも言いたいんですか」

「落ち着け、日計。おれは何もお前を揶揄している訳じゃない。特に、今のお前をな」

 顔を顰めている青年へ、鉢塚は嘲笑を差し向けた。

「お前は知らないだろうがな。人は変わる。それこそ、白が黒になるように」

 日計洋一は、懸命に目の前の男性を睨み付けるのを堪えていたが、胸の内に蟠る憤激をどうにか抑え付け、ゆっくりと頷いた。厳つい二等陸曹は、しかし申し訳なさそうな素振りなど微塵も見せることなく、指で叩いて煙草の灰を足下に落とした。

「いいか。お前が今日の事を受けて、この先、暗い一面に少しでも魅せられる自分がいない事を、百パーセント否定できるか?」

 何も言えないでいる彼へ向けて、鉢塚は少し寂しそうな笑みを浮かべた。

「そうだよな。誰にも未来の自分なんて保証できない。だからこそ、こうしておれは話しているんだ。お前が本当に馬鹿な事を考えていようといまいと、どうでもいい。おれはお前に伝えなければならない事を伝えているだけだ。言葉にしなければ、お前は理解できないだろうから」

「すみません、二曹。差し出がましいことを――」

「吸うか?」

 彼は性懲りもなく煙草を差し出してくる。銘柄を見れば赤いマールボロだった。日計は少し逡巡した末に一本を引き抜き、鉢塚が放り投げた安ライターを危うい所でキャッチして、煙草に火を点けた。胸いっぱいに紫煙を吸い込むと、やはり、盛大にむせた。

「どうだ、初めての煙草の味は」

 にやつきながら聞いてくる二曹へ向けて、日計は涙目のまま顔の前で手を振る。

 彼は豪快に笑った。

「お気に召さなかったか。まだガキってことだな。日計、お前が煙草の味をわかるようになるまでに、どうして戦うのかをよく考えておけ。以上だ。その煙草を吸い終わったら訓練に戻ってよろしい」

「二曹は?」

「おれは、この一服が終わったら下に戻る。お前よりも遅く戻ることになりそうだ」

 日計洋一は慌てて煙草の非を消して、敬礼。





「もう、空なんか、だいっきらい」

 隣で鷺澤朱里がヒステリックに叫ぶ。さながら、ベタな学園恋愛小説のワンシーン。所在なさげに、とりあえず同意の印として頷いてみせる。

 既に身支度を整えて外出許可証を手に握り、さあ出発と兵舎を出た所で大雨に見舞われたのだから仕方がない。少し気遣う意味も込めて彼女の肩を叩くと、ぷくぷくと彼女の頬が膨らんでいく。

 食堂でのあの時から一週間、この日を心待ちにしていたらしい。久世と藤巻には冷やかされるばかりで、他の男子訓練生からも白い目で見られる羽目になった身としては何とも言えない。少なくとも鷺澤のように、日計洋一は今日という日に、期待を持てなかったのだろう。

 それでも、彼女にまるで気が無い訳ではなかったし、なんとなく落ち着かない気分で、ああ、これが男心というものかと自覚していることに少し嫌気がさした。

 デート当日に自分の気持ちに気付くなど、本来ならばありうべからざる失態である。戦略的な敗北は戦術的勝利では償い切れない。それは恋愛でも同じことだろうか?

 とにもかくにも、じっとりと汗をかいた掌を軍服に擦り付け、漂う彼女のにおいから顔を逸らす。

 こういう時は蒼天のコックピットに座るに限る。格納庫のある方角を見やりながら、夜には格納庫に顔を出してみようと心に決めた。非番の時はPGTASのコックピット、またはシミュレータに乗り込むのが彼の日課になっていた。訓練生の中でもかなりの実力を発揮し始めている日計の他に、PGTASと積極的に関わろうとしている者は少ない。鷺澤や他数名の上位にランクインしている者を除けば、ほぼ皆無だった。

 ああ、あの操縦桿の感触が懐かしい。

「七月十三日、土曜日。鷺澤朱里、不機嫌也」

「ぶっとばすわよ、日計くん。あなたは楽しみじゃなかったの?」

「楽しみだったよ、もちろん」何ともなしに答えて、「そう、嫌なはずがない。雨は残念だ」

 そうして二人で雨空を見上げ、がっくりと肩を落とす。

 みなとみらい駐屯地はすぐ傍に横浜の観光名所である桜木町を臨む位置にあり、非番となれば外出する訓練生が多い。意外も意外だが、訓練生の中で恋仲に発展する隊員もごく僅かながらいるそうだ。そうした風紀の乱れは鉢塚二曹が、入隊初日からの一時期に厳しく取り締まったから、大っぴらに惚気るには外に出るしかない。また、軍隊生活から抜け出して外の空気を吸いたい人間も大勢いるので、土曜日の桜木町では頻繁に制服姿の自衛官候補生が多く見られる。

 他の多くの訓練生たちは、雨の中を肩をすぼめて歩いてゲートをくぐり、ゲート前にある路線バスに乗り継いでから街へ向かう。

 鷺澤は雨に髪が濡れることを嫌った。駐屯地では、彼女のお気に入りのシャンプーが手に入らないからだという。女の命を風雨にさらすつもりはないそうだ。

「せっかく予定も立てたのになぁ。二時間いいから、止んでくれないものかしら」

 ぽつりとつぶやく彼女の横顔に、心臓の鼓動が一際高鳴るのを感じたその時。兵舎の前に設けられているロータリーに一台の高機動車が滑り込んできた。

 日計洋一と鷺澤朱里の目の前まで滑らかに減速して、停車する雨避けの幌から溜まった雨水がびしゃりと地面に落ちる。運転席に座っている男性が窓を開けて身を乗り出すと同時に、二人は手荷物を置いて敬礼していた。

「鉢塚二曹!」

「鷺澤と日計か。どうした、こんな所で突っ立って」

 鉢塚二等陸曹は小脇に書類を抱えている。それほど厚くも無い茶色いそれを右手に持ち替え、待てよ、と顎をさすると、意地の悪い笑みを浮かべた。叱責されるかと思われていた二人にとっては、背中を寒気が走るほど戦慄した事は言うまでもない。

「二曹、自分達は、その――」

「いや、皆まで言うな。少し待っていろ」

 そう言い残すと、彼は早歩きで兵舎へと入り、入り口監視員兼事務職員の自衛官の窓口まで行くと、何事かを告げて書類を渡した。係りの男性自衛官と敬礼を交えて帰ってくると、運転席の扉を開きながら顎をしゃくって高機動車を示す。

「乗れ。お前ら、街へ出るんだろう? おれも桜木町まで用がある、乗せて行ってやろう」

「いいんですか」と、鷺澤。

「二度は言わん」浮かれた彼女へ、鉢塚はぴしゃりと言う。「判断はお前らに任せる」

 そして、案の定乗り込む事になった。上官からの誘いとあれば断ることなどできよう筈も無い、そう自分の中で納得するまでにしばらくの時間がかかった。雨粒が叩く幌の音を聞きながら、案外乗り心地の良い高機動車の後部座席シートに、日計は身を沈める。

 鷺澤は何も言わなかった。特に話すことも無いからだろうが、時折、寂しそうにこちらを見やってはそっぽを向いてしまう。

 鉢塚二曹の心遣いはありがたいが、重い空気は謝意でどうにかなるものではない。しばらく無言の格闘があった後に、鷺澤が口を開いた。男としていかがなものかと思わなくも無い。

「二曹、聞いてもよろしいですか?」

「許可する、鷺澤訓練生。言ってみろ」

「はい。二曹は、昭和基地防衛戦に参加しておられた、という噂があるのですが、事実ですか」

 一瞬、彼女が何を言っているのか、日計洋一には理解できなかった。

 まさか今、その噂の真偽を問うとは。回復した思考を働かせ、ありとあらゆる思惟が警報を発する間も無く、鉢塚二曹は何でもない様にハンドルを繰りながら答える。

「事実だ」

 たった一言にどれほどの意味が詰まっていただろうか。

「それでは、国連の公式発表が嘘、という事ですか」

「まあ当然、そういうことになるな」

 突然の告白に衝撃を受けながらも、ちょっとまってください、と口を挟まざるを得ない。

「そんなこと、ここで言ってもいいんですか、二曹。政府が生存者ゼロと公表したのに」

「何が悪いんだ、日計?」

 彼はまた言いながら、不敵な笑みを口元に閃かせた。その自信はどこから湧いてくるものなのか。自分の方が狂っているのではないかとさえ思えてくる。

「お前らがおれの秘密を広めたところで、噂話にしかならん。お前らの正気が疑われるだけだ」

 何も言えないでいる二人をバックミラー越しに一瞥し、彼は語り出した。

「おれは、当時は第三二普通科連隊に所属していた。南極に派遣された最初の部隊のひとつだったのは、言うまでもないだろう。戦いは想像を絶した。今のように、PGTASや機甲部隊が前面に出ていた訳ではないから、大敗北を喫した。昭和基地が壊滅して、海を漂っていたおれは危うい所で救助され、ティルトローター機でニュージーランドを経由して本国へ送還された。他にも何人かいた覚えがあるが、例外なく政府はおれ達を自衛隊の名簿から消し去って、生還した兵士をマスメディアや国際世論から守った」

「しかし、全滅と嘘を言って公表するとは。遺族感情なども考慮されなかったのでしょう? 生きている人間を死んだことにするなど――」

 狂気の沙汰だ、という言葉は飲み込んで、日計は尻すぼみに語尾を消した。

 鉢塚は意味深長な視線を投げてくる。

「信じられんのも無理はない。少しでも希望は残しておくに越した事はないからな。だが、時に逆の操作が必要な場合もある。あそこで何人かが生き残るより、全滅としてしまえば、黒い軍隊の脅威はより高い度合いで世界に知らしめられるだろう」

 損耗率百パーセント。その言葉が意味する恐怖を、二人の訓練生は骨身に染みて理解している。

「当時はオーストラリアもニュージーランドも健在だったが、黒い軍隊に侵攻されるのは時間の問題だった。そこへ国連の多国籍軍を、現地政府の意向を捻じ伏せて派遣するには有効な手段だった、という訳だ」

「それでも、色々と不都合はあるではありませんか。二曹は、今もこうして訓練教官として職務に就いている訳ですし。死んでいるのに生きているのか、はたまたその逆なのかはわかりませんが」

「その点はうまいこと取り繕われている。実は派遣前日に風邪を引いたことになっていてな。行き当たりばったりに言い訳をしているんだ。公式記録上では、もちろん、齟齬が出るだろう。だが、黒く塗りつぶされた下の文字が間違っていても、誰にもわかりようはない」

 南極戦争の序盤は、国連加盟国の中でも様々な対立があり、ひとつの組織として黒い軍隊へ対抗するには厳しい状態にあった。そう、教科書には載っている。

 黒い軍隊からしてみれば、人類側の事情を考慮などしない。手遅れになる前に、国連にいるどこかの報道官や上位に存在する人物が、鉢塚二曹ら生存者へと策を巡らせたのだろう。

 だからといって、生きている人間を死んだこととするなど、あってはならぬ事ではなかろうか。殊、ここは日本国、仮にも民主主義国家だというのに。

 そうした心の葛藤を抱えながらも、矛盾した身上である鉢塚の果たしたその役割は、まだ対立を続ける国連内部の各国をまとめて黒い軍隊へとぶつけるのに、非常に有効な一手であったであろうことは、日計の若い頭でも理解することができた。

 一殺多生。集団が生き残るためには、トカゲの尻尾となる者が必要なのだ。

 そして、多くの場合、その役目は軍人に課せられる。

「国境なんてのは、人間が自分たちの自己満足のために作った詭弁だ」

 国家の枠組みの中で亡霊とされた男は、軽々とそう言ってのけた。

「おれは、南極に行って、それがわかった。あの白い雪で追われた地獄では、誰も彼もが人間だった。言葉が通じなくとも、肌の色が違くとも、互いに守り合わなければ戦えなかった。愚かだった。あの場で死ぬということはつまり、人間であるからだった。しかし現状はどうだ。黒い軍隊を前にしても、人類はまだ内輪揉めから完全に脱却することができない。これからもそうなのかはわからん。オーストラリアやアフリカ大陸南端の地域に住んでいた人々は、もう気付いているだろうな。鷺澤、国境線があるのはなんでかわかるか?」

 唐突な質問にも、彼女は沈着に答えた。

「別の場所で、別の文明を興したからでしょう。ユーラシア大陸、オーストラリア大陸、北米大陸。別の大陸の、さらに別の地域で生まれた集団が、自然と国家という巨大な枠組みを作るようになり、それらが接していった。だから境界線が必要になったのでは?」

「その通りだ。だが群れから村に、村から国に、と規模を拡大させていった人々が、国からひとつの集団に、とさらに大きくならないのはなぜだ?」

 鉢塚の言葉は、できの悪い生徒に辛抱強く説明を続ける教師のそれではなく、対等の存在に自分の意見を伝える、その熱意に溢れていた。ただ、日計洋一や鷺澤朱里が抱くような、若々しいエネルギーとはまったく対極に位置するものであったが。

「それはな、戦うためなんだよ」

 垂直なフロントガラスに吹き付ける雨を退けるワイパーの音が、やけに大きく響く。

「単一の集団となってしまっては、人類は争う相手を失ってしまう。無意識の内に、限界を設定しているんだ。全てが単一の集団になってしまえば、戦争は引き起こされないから」

「待ってください。そもそも、人間が群れを作るのは、独りでは生きられないからでしょう。生きていくために有利だから群れを作り、それが発展して国になった」

「群れや村、というレベルなら、そうだ。特定の場所に腰を落ち着けて互いに助け合っているのなら、日計、お前の言う通り、独りでは生きられないからだ。だが、これを変えて国へと成長させたのは、なんだと思う? 戦いだよ。戦いこそが、今の人類を形作る鋳型なんだ。戦いのために国が生まれた。国境線もその類。踏み越えれば命を奪われても文句は言えないという一線を設けてしまったんだ。黒い軍隊という外敵を得ても、それは人類にとって、戦いの相手が変わったに過ぎない」

 人間は、この南極戦争においても、決して結束する事は無い。鉢塚二等陸曹が語る戦争論は、二人に何を伝えるものだったのか。

 しばらくの沈黙。窓に付着した雨粒に歪曲したランドマークタワーが大きく見え始めたころ、鉢塚はしゃがれた声で短く笑った。疲れた笑いだ、と日計は思った。

「デートだっていうのに、辛気臭い話をしてしまったな。気にするな、年寄りの戯言だ」

「二曹、そういえば、わたし達がデートに行くのはいいんですか」

「戦闘に持ち込まなければ、な。女絡みの戦いは、よく人が死ぬ。お前らだって死にたくはないだろう。だが、死にたくないと思っている奴ほど死んで、死にたいと思っている奴ほど生き残る。それが戦場だ」

 やがて高機動車は桜木町駅の前にある、商業用複合ビルの脇に停車した。なんとなく気まずくなった空気の中、二人はドアを開けて屋根の下へと小走りに駆け込み、振り返る。

「鉢塚二等陸曹殿、ありがとうございました」

 大声で礼を言って敬礼すると、鉢塚二曹は片手でラフに答礼。すっかり短くなったマールボロを車輛脇の雨水升へ放り込むと、そのまま高機動車を操って道の先に消えていった。

「あの人は」高機動車の幅の広いテールライトが見えなくなると同時に、鷺澤朱里が言う。「わたし達に、何を伝えようとしていたのかしら」

 それはきっと、生きる事の難しさ。戦う事の理由、意味。それに飲まれるな。そう、彼は言いたかったに違いない。

 自分はどうだろう。戦う理由。思考とは裏腹に、日計は彼女のきれいな横顔を眺めている事に気が付いた。

「さあね。でも、探すのは今からでも間に合いそうだ」



 鷺澤朱里の行動力は予想の範疇を大きく超えていた。ワールドポーターズに始まり、ランドマークタワー、そこからコスモワールドまでを征服する事、早七時間。日ごろの訓練に比べればまだ楽であるものの、心の底から楽しそうに笑顔を振りまく彼女に中てられて、始終、慣れないエスコート役を務めさせられた。悪い気はしなかったが。

 日計洋一は神奈川県に住んでいる。元々は静岡の生まれらしいのだが、両親がこちらへ移住してきたのには訳があった。なんでも、父は元々政治家一族の出自だそうで、このご時世で許嫁まで定められていたらしい。俄には信じられないが、母はその許嫁の相手ではなく、高校の頃の同級生だという。

「駆け落ちってやつさ」

 気恥ずかしそうに笑う父と、その様子を幸せそうに見つめている母を見て育った青年は、妙に得心したのだった。

 なるほど、人の愛情とはかくも美しくあるものだ、たとえその事由が誰かの怒りや不興を買ったものであるとしても。

 他人の感情と自分の感情は、同じメカニズムで働いているとしても、立場が違えば反対の属性にもなりうる。当然のことではあるが、人間の多様性ほど矛盾に満ちたものもまた無い。その影響か、それとも父の「女には優しくしろ。どこまで付き合ってやれるかが男の甲斐性だ」という教えがあるからか、鷺澤の無茶は全て聞いた。飲み物を奢れとせがまれては財布を開き、走れと言われれば走った。疲れはしたが、それほど悪い気分でもない自分に気が付き、少しだけ父の母と駆け落ちした時の気持ちがわかったかもしれない、と腰を落ち着けた海保ビル前で石のベンチに座りながら思う。

 いつしか雨は止んでいた。あれほど激しく降り続いていた雨は雲ごと海風に吹き払われたのか、水平線の向こう側には既に夕日が見えている。赤い光に染め上げられた広場には他に人影はなく、水溜りに空が反射してきらめいていた。

 彼女の買い物は、結局、しなかった。ほとんどが冷やかしだった訳だが、秋田に住んでいるという両親への土産物と、手紙類の発送までしていたらこんな時間だ。訓練とは違う心地のいい疲労感に恍惚としながら、隣で肩を寄せてくる彼女へと顔を向ける。

「制服を着ていなければ、それらしい雰囲気なのにね」

 彼女の言葉に、二人で破顔した。春の木漏れ日のような温かさが胸の内にじんわりと染み出してくる。

「今日は楽しかった?」

「久々にね。いつも鉢塚二曹に怒鳴られてばかりだし、今日くらいはこんな役得があってもいいかなって」

「同感。むさくるしいおじさんばかり見ていると気が滅入るしね」

「ぼくももうおじさんだよ。歳を取ったと思う。二十歳から先は成長じゃなくて老いだ」

「ちょっと。それだと、わたしはおばさんじゃない」

「君は別格。鷺澤を見ていると、退屈しないし」

「それ、どういうこと? 返答によっては怒るから」

「良い意味で、だよ」

「そう? なら、そういうことにしておきましょう」

 殺伐とした日々の中に花が咲いたかのように、二人の周囲を青春の若々しさが彩った。

 自衛軍へと入隊してからというもの、こうした異性とのふれあいはほとんどなかった。感慨深さが胸の内に湧きあがってくる。基礎訓練課程を終えた後に、ここみなとみらいでPG科へ転属するための適応訓練を受けている昨今。今日までに二年という歳月が流れているという事実に驚きを禁じ得ない。

「どうかした? 何か、顔が強張ってる」

 平静な顔を保ちながら、海保ビルの前にある一本の電柱に視線を注ぐ。なんとなく、その根元から濃い影が地面を伸びている様が美しいと思った。

「時間が経つのは早いよな。もう自衛軍に入隊して二年が過ぎている。もう二年先では、ぼくらは戦地に立っているのかな」

 鷺澤は目を瞬かせた後で、項垂れたように俯きながら、ベンチから伸びる両足をぶらぶらと揺らした。デート中の話題ではないとわかってはいるが、今話しておかなければ、彼女とこんな会話をすることは、もうできない気がする。

「さあ、どうかしらね。黒い軍隊に聞いてみるのはどうかな。無線機使って、もう二年は待っていてくれませんかって」

「そいつはいい。やってみるだけの価値はありそうだ」

「冗談よ?」

「知ってるよ」

 黒い軍隊への停戦の打診は、既に幾度も為されている。返って来た返事は、飛んでくる砲弾と誘導弾だけだった。

 彼らは人類を徹底的に殲滅するようにプログラムされている。実際に無人兵器を鹵獲してみないことには知りようがないが、ほとんど間違いない。人類に鹵獲される危険を察知すれば即座に自爆する無人兵器は、未だに強大な敵として、東南アジア諸島とアフリカ南部で息を潜めている。

 横浜港の玄関口であるベイブリッジを、一隻の輸送船が潜ってくる。大黒ふ頭にある自動車輸送場から立ち寄った車輛運搬船だ。横浜港は日本の加工貿易の中核を担う港として、極めて重要な戦略的意義を持っている。

 だが今は、そんな現実的な意味を横に置いて、ただこの美しさに酔いしれていたい。沈んでいく夕日を見ながら、日計洋一は隣りで立ち上がる鷺澤朱里の横顔を見つめる。

 その顔立ちは美しい。なぜ今の今まで気づかなかったのだろうか。

「わたしは、何のためにここにいるのかしら」唐突に語り始める彼女の話を、彼は何も言わずに聞いていた。「日計くんは、二曹の話をどう思ったの? 南極戦争に従軍していたって話を聞いて、何か感じた?」

「どうして自分が自衛軍に入隊したのか、PGTASに乗って戦う意味を考えろって、二曹から言われたんだ。ほら、食堂でぼくだけ呼び出された時あっただろ。あの時からずっと考えているけど、ぼくが戦う理由は、正直なところ、まだわからない」

 鷺澤朱里は、西日が地面に映す自分の黒い影を見つめ、後ろ手に組んでこちらを見やる。

 ぼくは、初めて、彼女を目の当たりにしたかもしれない。高鳴る鼓動に、もしかしたら君かもしれない、と、日計洋一は胸中で独り言ちる。

「やっぱりね。あなた、わたし達の中でいちばん上手いもの。先日の演習の時はすっごく驚いたわ。まさか当てるなんて。同室の女の子たちの間で、日計くんの株が爆上げだったんだから」

「たぶん、君らよりもぼく自身のほうが驚いてるよ。まぐれっていうのは、自分の意志では起こせないものだから、いざその場に居合わせてみると本人でもよくわからない衝撃を受けるって、あの時はじめて気づいたよ」

 二人はもちろんPG科の訓練生であるから、配属される部隊が違えても、PGTASに触れない軍務はあり得ないだろう。これまで学んできた操縦技法、用語、他物理学的知識などは他の科で活用できるものではない。基礎訓練課程は共通したものであるから、どこの部隊でも職務を全うし得るだけの体力は備えている。既に二人の思考、体捌きはPGドライバーのそれへ完成されつつあるのだ。

 日計洋一は立ち上がり、強い西日に目を細めながら海風に靡く長髪を押さえる彼女と相対する。長く、黒い影が遠くで鳴る汽笛に震え、既にお互いの視界に瞳以外の何物も写ってはいない。

「訓練って、いつまでだっけ」

「十月前には終わるよ。秋になる前に、ぼくらは部隊配属だ」

「わたし、日計くんが好き。いてもいいかしら。あなたの隣に」

 時が止まってしまったようだ。すっかり骨抜きにされてしまった頭で懸命に思考を巡らせる。

 これから彼女とどういう生活を共にしていくのか。この告白に対して、考えなければいけないのはそういうことだ。そして、それは自分がPGTASに乗って戦うこととまったく同じ次元の問いであるのに気が付く。

 物事には理由がいる。ある、というべきか。理由なきモノは存在しえない。それは意味でもある。人間の価値観が定めた物品的価値は物理世界には何の影響ももたらさない、いわば本質がもたらす存在理由が落とす影だ。人間は個々人で別れた概念を背負って生きている。

 銃は自然の法則にしたがって銃弾を放つ。その機能に対して、人間は対価を支払う。その関係性は、対等に見えるが実は互いに次元の異なる二物で取引されるものであり、さらに、それぞれが意識しているかいないかもわからない意味、価値は、互いの認識において天と地ほどの開きがある。植物が二酸化炭素を必要とし、人間が酸素を欲しがるように、価値観や性質によってそうした利害の反転は容易に起こりうるのだ。

 人間関係でも例外ではない。金銭こそが至高の価値を持つと考える守銭奴もいれば、そんなものよりも大切な何かがあると唱える偽善者がいる。理想論を語る楽観主義者もいれば、滔々と社会の厳しさについて教える現実主義者もいる。それら数多の価値観を、同族の中で共有しているのは人間だけだ。

 だからこそ、黒い軍隊は人間を滅ぼそうとするのだろうか。あの無人兵器群は実は哲学的な命題を行動原理に据えているのかもしれない、と頭の隅で思考が働く。そんな問いを無視して、今、目の前の彼女にどう答えるべきなのかを探る。

 ああ、考えてみればなんと簡単なのだろう。

 自分の思いの丈を全て言語化することはできないが、感情をありのままにぶつけるために、人間には素晴らしい機能がある。兵器にはない、より直接的な意思疎通方法。

 日計洋一は、鷺澤朱里を抱きしめた。少しだけ身長が低い彼女の肩が僅かに震え、少し遅れて彼の腰に手が回される。目を閉じて、彼女の顔が見えないというのに、きっと自分と同じように笑っているのだろうと根拠の無い確信に酔う。

 この瞬間がずっと続けばいいのに。それはどちらの願いであっただろうか。残酷なものである、現実世界では願いこそすれ、それを届ける相手は存在しない。ならその願いはどこへ消えていくのか。

 恐らく、自分自身に。人々は自分に向かって願うのだ。未来の自分が、過去の、現在の自分が望んだより良いものに仕上がっていることを。

 そうして、何かを伝えようと鷺澤朱里が身を捩った時――それは起こった。

 茜色の空を横切る黒い影。反射的に、日計は鷺澤を胸に抱いたまま屈む。一瞬後に衝撃波。音速を超えて飛行していた戦闘攻撃機から発生したものだ。

 頭がくらくらするほどのそれを何とか耐え抜くと、長髪を振り乱して彼女は顔を上げる。同時に、遠くで爆音が轟く。今しがたの戦闘攻撃機が誘導弾を放ったらしい。それらは遠く、工業地帯の上空まで一気に舞い上がると、海上から放たれた別の誘導弾に叩き落される。パイロットの脱出は確認できなかった。

 戦闘だった。意識する時間も無く、桜木町駅の向こう側からけたたましい砲撃音が響き、大桟橋に停泊している貨客船が火を噴く。大型火砲の発砲音を背に受けながら走り出した彼女に、日計洋一は叫んだ。

「鷺澤!」

 走りながら振り返った彼女の瞳が、険しい輝きを放った。

「行くわよ、日計くん。今日のデートを台無しにした奴ら、痛い目に遭わせるわ」

 日計洋一も、みなとみらい駐屯地へ向けて走りだす。流れるような彼女の黒髪と黒煙が重なって見えた。



 みなとみらい駐屯地は、阿鼻叫喚と断末魔の坩堝と化していた。

 無残に破壊された管理棟は、大穴の開いたコンクリート壁とその破片で周囲が埋められ、高機動車や軽装甲機動車、トラックなどの残骸が点々と燻っていた。ディーゼル燃料と消火剤、炎のにおいが鼻腔を焦がし、人々が駆けずり回って怒鳴り声を上げている。

「担架! 担架持ってこい!」

衛生兵メディック、こいつを頼む。おい、お前! 第三格納庫で火災だ! 鎮火いくぞ!」

「一尉、しかし、彼を運ばなければ――」

「そいつはもう死んでいる。生きてる奴が最優先だ」

 まだ多くの隊員が基地機能の復旧作業に当たり、その中には頭に包帯を巻いた南原世雄一等陸佐の姿もあった。司令棟は半壊しており、野外に端末を置いて簡易司令部とするために命令を飛ばしている。頭の包帯は所々が赤く滲んでいた。

 時折、駐屯地の四方に配置されているVADSがけたたましい音で空中に機関砲弾をまき散らし、迫りくる長射程の巡航誘導弾を撃ち落す。自動制御の地対空誘導弾が空へ向けて無数に放たれ、敵の誘導弾に近接信管を作動。黒煙が赤い空に尾を引き、爆発音が遅れて届いた。

 まったく唐突に、二人は戦争という、鉄と炎の台風の中に放り込まれていた。

 目前に広がる惨状に動揺しながらも目を走らせ、自分達の指揮官の姿を探す。

 鉢塚二曹の姿は無かった。角刈りの、がっしりとした体つきをした彼は、他の自衛官に紛れながらもひと目でわかる威圧感を伴っているのだが、この緊急事態に至っては姿が見えない。未だ駅周辺で足止めを食っているのだろうか。ここまで走ってくる間にもパニックになって避難を急いでいる民間車両が何台もいて、逆に法定速度を守って走行している車輛が見つけられない程だった。警察車両、消防車両もフル稼働しており、麻痺しつつある交通機能の復旧を進め、同時にみなとみらい駐屯地に所属している全部隊が緊急展開している。

 南原世雄が傍を通り過ぎた。

「なぜ察知できなかった」

「ステルス性能が高く、洋上レーダーが探知できませんでした。海保の巡視艇も交代をしていて索敵網に穴が開いており――」

「役立たずめ! とにかく、動ける者で駐屯地を復旧だ。空自、海自に引き続き要請を出せ。場合によってはわたしの名前で統幕議長にホットラインをつなげろ。CAS近接航空支援がなければ、蒼天と言えどもやられる」

 先ほどの戦闘攻撃機の二機編隊は、入間基地からスクランブルしたF-2の要撃隊だった。制空権も無い状態で沖合に接近してきた黒い軍隊の艦艇を迎撃したらしい。こちらの誘導弾は二発命中したが撃沈には至らず、国連軍と違って乗組員の負傷によって活動を停止することも無い無人艦艇は砲撃を開始。奇襲攻撃に対してみなとみらい駐屯地は甚大な被害を被っていた。

 横浜港は陥落しつつあった。

 ふと鷺澤を見やると、彼女は不安気に眉を潜めながらも、その両眼に怒りの炎を煌めかせているのが覗えた。それで安堵する。この状況に動揺しているのは自分だけではないのだと。

「おい! 鷺澤、日計!」

 声に振り返ると、兵舎へ続く道から手を振って、こっちにこいと招いている久世の姿が見えた。二人は駆け出し、大勢の大人たちが負傷者を担ぎ出したり、何事かを怒鳴りながら格納庫へ走っていく間を縫ってようやく辿り着く。

「何があったんだ」

「何があったか、だって?」

 彼は取り乱した様子で周囲を手で示した。

「攻撃だ。駐屯地は巡航誘導弾でやられた。沖合にいた海自は全滅したらしい」ありがたくない話の次に、さらに厄介な報告がなされた。「ついさっき、大滝総理が非常事態宣言を出したって話だ。日本中の自衛三軍が第一級戦闘態勢を取ってる。国連でも安保理が招集された。波を被るみたいに、世界が臨戦態勢だよ」

「鉢塚二等陸曹は?」勢い込んで鷺澤が問いかける。彼女に詰め寄られ、久世は少し後ずさった。「どこなの!?」

「食堂だ。今、訓練生を集めて状況の説明をしている。もしかしたら出番があるかもしれない。おれは、お前たちが戻ってきたら誘導するように言われてここにいた。今の所、戻ってきてないのはお前たちだけだ」

「なら、話している時間も惜しいな。急ごう」

 三人は駆けだす。甲高いサイレンが響き、同時に北西から爆音が轟いた。

 複数の空自機が空を横切っていく。投入される戦力は増強される一方だ。それほどまでに強力な部隊がここまで進出してきたというのか。悪い想像を振り払うように、日計は頭を振って足を速める。まずは仲間たちと、上官と合流しなければ。

 兵舎へ飛び込んだ。そのまま食堂へ向かえば、既に多くの訓練生がテーブルについていた。管理棟がやられたため、訓練生を全員収容できるのはここしかない。鉢塚二等陸曹の判断は考えるまでもなく的確だった。

 さらには、ご丁寧にプロジェクターまでもが降ろされ、大きなスクリーンの前に仁王立ちしている戦闘服姿の二曹の姿が見える。居並ぶ訓練生たちは誰もが無表情だが、例外なく緊張の色を隠し切れていない。中には明らかに震えている訓練生や、必死に涙をこらえている顔もあった。鼻を啜る音があちこちから聞こえてくる。

「すみません、遅れました」

 鉢塚の視線が三人を捉え、一瞬だがその視線が弛緩するのがわかった。その安堵の色も一瞬後にはなくなり、プロの軍人然とした無表情に戻る。

「来たか。お前たちはそこで聞いていろ」

 二曹の他に、教練担当官である伍長二人もやって来ていて、さらにはPG科だけでなく機甲科、普通科の教官もいるから、戦闘服を身に纏っている正規の自衛官は十二人ほどだ。これで訓練生全員と教官が揃ったことになる。

「速報に基づき状況を説明する!」

 満を持して鉢塚が言った。

「横浜本牧へ急行した偵察隊から、敵戦力は戦車型五十四、浮遊機型フロート百以上と一報が入っている。航空兵力は不明。恐らくは戦闘機型ファイターが二個編隊。洋上には三隻の強襲揚陸艦と五隻の護衛艦。既に横須賀より進発した第一護衛隊は敗退し、海上優勢は敵のものとなっている。大滝史彦内閣総理大臣は先ほど、指揮権を防衛大臣から統合幕僚長へと委譲した。これより正式に自衛軍による反撃が始まる」

「増援は来るんですか?」

 訓練生のひとりが思わず尋ねた。鉢塚は叱責せず、しっかりと頷いた。

「もちろんだ。だが、増援が来るまではみなとみらい駐屯地の兵力だけで敵を押しとどめなければならない。横浜の周囲には、諸君も知っての通り、民間人の居住区が多くある。ここを突破されれば甚大な被害を被る。大勢が死ぬことになるのだ。無論、我々も死ぬかもしれん」

 心臓が圧迫されるように、重苦しい沈黙が流れる。

 既に海上優勢は敵のものとなった。揚陸戦において重要な水際要撃の機会は既に失している。敵は橋頭保を確保した。遠征部隊の弱点である拠点の有無、支援拠点の確保は終了しているとみられる。今から戦うのは、人間らしい疲労も、初めての土地に戸惑う遠征軍でもない。周到に準備を整えた強力な軍隊だ。

 それも、人類のどの部隊よりも高度な技術を有した。

 思わず感じた眩暈を振り払うように、日計洋一は頭を振る。

 統率のとれた無人兵器群。日計洋一は初めて、黒い軍隊の脅威を肌で感じた。こちらは倒されれば人が死ぬが、敵は、いくら倒しても命がなくなる事は無い。一方的な犠牲を強いられた戦争。その虚無と悲壮に満ちた損得勘定は、脊髄まで冷えるような錯覚すら覚える。終わることの無い消費活動だ。戦争は経済行為などではない。失うだけの、無意味な闘争。

「恐れることは無い」

 鉢塚二等陸曹の言葉に、居並ぶ教官たちが背筋を伸ばす。戦々恐々とした空気を払拭した彼の一言を裏付ける彼らの毅然とした態度に、訓練生たちの浮足立った雰囲気は一瞬にして吹き飛ばされた。

「貴様たちは今日までよく努力した。敢えて仲間内で順位付をするのならば、ここみなとみらい駐屯地は、どの科を見てもトップクラスの練度を持っていることは疑いようも無い。本省も鼻が高いことだろう。日本中が貴様らを誇りに思っているのだ。お前たちはこれから、予想外に早い出動という事態になるやもしれん。だが案ずるな、生き残る術はおれ達が教えてきた」

 教官たちが力強く頷く。その表情は何かを固く決意したものであるのを、日計洋一は見逃さなかった。

 この中の何人が、彼らが死を覚悟していることに気が付いただろう?

「これより訓練生諸君は、一時退避を実行する。現在、統合幕僚監部は習志野に予備兵力を結集中だ。我ら教官が、諸君らの初陣にて指揮官を務める。おれ達に付いてこい。まずは生き残る。話はそれからだ。そしてそれが諸君らの初任務であり、死ぬまで続く至上命令だ。日計、鷺澤訓練生!」

「はい!」二人で背筋を伸ばし、大声で返事をする。

「お前たち二人は同室の人間と今すぐに合流しろ。他の班は、室長を中心に仲間が全員集合しているかを確認の上、各科担当の教練担当官まで報告だ。報告を終えた班から整列して待機」

「了解しました、二等陸曹殿!」

「よろしい。即時実行せよ」

 訓練生の間に蔓延していた、黒い軍隊の奇襲への不安感は微塵も消え失せていた。彼らは命令一過、即座に立ち上がって各班で点呼を始める。その間に教官たちが横隊を作り、点呼を終えた班から順に列を作っていく。

 烏合の衆が軍人の集団となったかと思われた。

「日計くん」

 同室の仲間の元へ駆けて行った久世を追いかけようと一歩を踏み出した時、鷺澤朱里が袖を掴む。日計洋一は半身で振り返りながら、彼女の潤んだ瞳から全てを察した。

 彼女の薄い肩の向こうでは、鉢塚二等陸曹が意味深長な表情で彼を見つめていた。

「大丈夫だ、ぼくは死なない。だから君も生きろ、鷺澤」

「……うん、わかったわ」

「返事、そうじゃないだろ」

「了解、日計訓練生殿」

 少し安心した笑みを見せてから、彼女も仲間の元へ駆けていく。その背中を刹那の間見送ってから、日計は久世と藤巻、他三名の班員が集まる食堂の一角へと急いだ。室長である藤巻に叱責されるかと思ったが、意外にも彼は何も言わずに日計を招き入れ、そのまま六人は肩を組んで円陣を組む。こうして、高校生の頃に体育祭で気合を入れたことがある、と、誰もが思い出していた。

「鉢塚二曹についていけば絶対に生き残れる」藤巻が言う。肩を掴んでいる腕が、微かに震えているのを感じた。「今は、おれが室長だ。お前らの生命に責任を持つよ」

「最善を尽くそう」と久世。

 六人は力強く頷き合うと、報告のために腕を組んで待っている鉢塚二等陸曹へと向かった。

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