エピローグ Never
エピローグ
灰色の警察署から出て、肌寒さに身が震えた。十二月も半ば過ぎ。年の瀬が迫りつつある。
「お疲れさん」
戸口から続く階段を歩き降りたら、柱の陰から声を掛けられた。菟田野がいた。白いロングコートを羽織って、顔には馴染みのロイド眼鏡が金色に光っている。
「待っていたのか」
「ちょっとだけね。気にすることはない。事情聴取は済んだ?」
「ああ」
「食事でもどう?」
頷いたら、菟田野はにこりと笑って先へ進んだ。妙に嬉しげに歩いている。俺も小走りで後を追った。
「駅に行く予定なんだ」
公道沿いの食事処で定食が運ばれてくるのを待っている間に菟田野は何気なく教えてくれた。
「どこか行くのか」
「仕事でね、遠くへ」
「遠く」
「そう、遠く」
どことは教えてくれないらしい。
曖昧に笑って見せたのち、菟田野は目を伏せた。
しばらくお互い黙っていた。俺は疲れていたし、菟田野も、俺とは別の理由で疲れているようだった。笑っているのは相変わらずでも、いつもとはやはりどこか違う。
「何かあったのか」
俺が言うと、菟田野は目を見開いた。
「驚いた」
「何が」
「君はそういう他人を詮索するような質問をしない男だと思っていたよ」
「嫌だったか」
「いいや、大丈夫。でも答えられないんだ」
ごめんね、と菟田野は続けた。俺が首を横に振り、また沈黙が流れた。定食が運ばれてきて、食事に集中していたら、雰囲気はだんだん穏やかになっていった。
駅のホームまでまたひとしきり歩き回った。
事故一つ起こさない交通網、安全管理の行き届いた往来、その合間を人とヒューマノイドが闊歩している。
「半年も経っていないのに随分ヒューマノイドが出回ったんだな」
「そうだろう、そうだろう」
俺の呟きが菟田野の琴線に触れたらしく、目を輝かせて話し始めた。
解禁されたヒューマノイド研究が次々と製品開発に結びつき始めた。機械で管理されていた分野が、少しずつヒューマノイドに取って代わられているという。単なる店先での応対から、社内の事務作業、工場内での繊細な作業などなど。
「この現象はなかなか奇妙なんだ。機械で管理していれば効率的に済ますことが出来るのに、わざわざ人型に作ったヒューマノイドが世間に受け入れられている。単なるブームで終わるのかもしれないが、僕は異を唱えたい。人は常に変化を求めているんだ。自分にとって馴染みやすい結果が得られるそのときまで」
菟田野は、本当に遠いところへ行くらしい。
椿姫市には二度と戻らないという。
「いったい何をやらかしたんだよ」
「聞かない方がいいよ」
「……どうやらそうみたいだな」
「でもまあ、君のお姉さんは良い人だね。僕にやり直すチャンスをくれたんだから」
椿姫市の駅の構内に入ると暖気が待っていてくれた。
出発の電車まであと数分。
「君は、これからも絵を描くんだろう」
「ああ」
「頑張ってくれ。楽しみにしてる」
「絵は見られる環境なのか」
「その点は僕も頑張るよ。頑張ればきっと何とかなる」
改札を前にして、菟田野は俺に手を差し出した。俺も伸ばして握手を交わす。すると、掌に紙の当たる感触があった。
「ハンナという女性に渡してほしいんだ」
「誰だ?」
「僕と一緒にナユタを……育てた人だ。住所を教えている暇はないから、詳しいことはナユタにでも聞いて」
「その人、ここに来ていないのか」
「うん」
「なんで呼ばなかったんだ」
「……」
「知らないけど、多分大事な人なんだろう。どうして」
「会ったら、離れたくなくなるからね」
それじゃ反省にならないのさ、と言いながら菟田野は踵を返し、あっという間に改札を潜った。
人混みに紛れ込んでいく彼の手が高々と上がっている。荷物もほとんどない。まるで隣街にでも遊びに行くかのような体だ。
手元に残った手紙を見下ろした。『ハンナへ』と手書きで記してある。細くて頼りない、掠れた字。彼の文字というのを俺は初めて見た気がした。上手くない。きっと今までも、電子メールで済ませていたのだろう。
そのとき、風を感じた。
俺の脇を通り抜けて、改札を飛ぶように抜けて、真っ直ぐ。
「うわあ」
菟田野の手がその風に薙ぎ倒された。
「菟田野?」
呼びかけても返事はない。髪の長い綺麗な女性にとっ捕まっている。
「ハ、ハンナ! どうして」
「離したくないから」
ぜいぜいと息を吐きながら、ハンナと呼ばれた女性が菟田野の両手を握りしめている。それほど強そうには見えないけれど、菟田野の細い腕ならば意図も容易く抑えられるらしい。
往来の人たちが立ち止まっている。首を伸ばしている野次馬もいた。逃げようとしている男と、捕まえて離さない女。興味をそそる対象であることは火を見るより明らかだ。
人混みを掻き分けて、ハンナの後ろから赤い髪の女の子がつかつかと菟田野に歩み寄った。ハンナの手が離れると、代わりにその子が菟田野の手を引っ張った。
「フェイ、君まで何を」
「僕がいなくちゃ仕事にならないでしょ。それを言ったら、ハンナさんがついてきたんだ」
「見守っていろって言っただろ」
「うん。でもどこでとは言われてないからね」
フェイは舌を見せてハンナと目を合わせた。
ほら、電車出ちゃうから。そう言ってフェイが菟田野を引いていき、ハンナが後ろをついていく。
遠ざかるフェイが一度、振り向いた。
「じゃあね、ナユタ。頑張って」
階段を降りていき、彼らの姿が見えなくなる。
野次馬たちは次第にまばらに消えていき、元の往来へと変わっていった。
「ナユタ」
呟いて、周りを見渡した。
案外すぐ横にあの銀色の髪があった。
「なんだか、恥ずかしいですね」
口元を手で押さえながら、俺に近づき、見上げてくれた。
「帰ろうか」
「はい」
市内の巡回バスに乗り、最寄のバス停で降りる頃には、陽射しも赤みを帯び始めていた。
ナユタと出会うのはほんの数日ぶりではある。でも、その当日は事件の渦中で、落ち着いて話すのは久しぶりだ。
「お怪我はありませんでしたか」
「うん。少し擦りむいたくらいかな」
「やっぱり、全身縛られていたから」
「いや、君に投げられたときについた傷だよ」
「えっ」
「紐はゆるかったし、解いてもらっていたし」
「……すいません」
「いや、気にしなくてもいい」
そんな会話をぽつりぽつりと繰り返した。どうしたって、言葉は少なめだ。それは俺の性格でもあるし、ナユタだってそうだった。
それでも、会うことや、一緒に家に帰ることには、まるで違和感を覚えなかった。菟田野の実験だってきっともう終わっていて、彼女が俺と一緒に暮す理由も無いはずなのに、夕陽に照らされた二人の影がだんだん長く伸びていくのを親しみ込めて眺めていられた。
「朝、マイちゃんに会えたんです」
「マイちゃん?」
「事件のときの、あの子」
「ああ……いつの間に仲良くなったんだ」
「気になっていましたので、警察の方に会わせてほしいって言ったら、五分だけ面会の許可が下りました。街の外れの留置所、周りは荒れ地ばかりで、とても寂しげな場所でした」
マイの所属していた研究所は閉鎖され、事件の首謀者もすでに警察に逮捕されている。咲良グループの法務部が迅速に働いており、裁判の準備も着々と進行中だと姉から簡潔なメールをもらっていた。
「マイは初期化されるそうです」
ナユタが前を向きながら、呟くように教えてくれた。
「記憶データを全て消して、真っ新な状態になるそうです。本来なら解体されるところを、別の研究所が拾ってくださって、AIの基盤を保ったまま開発し直されるらしいです」
ナユタはマイが気になったと言った。
それはきっと、自分もまたマイと同じくヒューマノイドだからなのだろう。
自分たちが人にどう扱われるのか、それを知りたいと思う気持ちは、俺にも十分理解できた。
「でもできれば、記憶は残してほしいです。あんなに綺麗な絵を描けるのだから」
事件のときにマイが描いた絵は警察に押収されている。今後戻ってくるのかどうかはわからない。薄暗闇の中で見た記憶だけがマイの描いた黒猫の絵を残している。やがてそれも薄れるだろう。きっと俺もナユタも同じように。
ナユタはそれきり黙ってしまった。
前を向いて歩く横顔をしばらく見つめて、俺もまた前を向いた。
家の中は散らかっていた。
事件のときに駆けつけた警察は最低限の片付けしかしなかった。侵入者を捕まえてしまえば、彼らの仕事はもうそれで終わりなのだから、仕方ないと言えば仕方ない。
「やり甲斐がありますね」
玄関先で並んで立っていたナユタが、しばしの沈黙の後に鼻を鳴らした。見れば歯を見せて笑っている。
「よし、任せた」
「手伝ってください」
「え、俺も?」
「そうですよ。どこにどう物を置くとか、教えてください」
「前と同じだよ」
「教えてください」
言うが早いか、すでにナユタは俺の手を握っている。引っ張られて、家の奥の方へ。
「待って」
思わず俺は口にした。
「観念してください。嫌がらないで」
「いや、そうじゃなくて」
俺は目を瞬かせた。
手を引いていたナユタが俺を振り向く。
「どうしました?」
「今の、良いな」
「え?」
ナユタに手を引かれている光景がまだ俺の頭の中に強く残っている。
「よし、描こう」
「今からですか? 待ってください、掃除は」
「後で」
「ダメです。このままじゃ不潔です」
「それでも」
「いや、です」
ナユタが俺の前に立ちふさがり、箒を押し当ててくる。
「せめてそれを持って、歩いたところを掃いてください」
「それだけでいいの?」
「あ、そんなこと言うんですか? いいんですよもっと手伝っても」
「いや、じゃあ元ので」
「ちょっと!」
箒を押しつけてくるナユタを振りほどこうとして、結局どうにもならなくて、気づけば箒が二本俺の手元に託されていた。
ひたすら掃除を続けて回る。アトリエへと辿り着くまで、ナユタがもういいと言ってくれるまで、身体は妙に素直に動いた。
まだ景色は消えていない。
ざわめく胸の内を説き伏せながら、掃いて磨いて整理して、前を行くナユタを見た。顔色を伺うつもりだったが、ナユタはアトリエの中を見つめて立ち止まっている。
「あ」
思いあたって、箒を握ったまま歩み寄った。
「あれか」
アトリエの中央に、描きかけの絵がひとつ、イーゼルの上に載っている。
「私、ですか」
キャンバスの中で笑っている顔を見て、ナユタがぽつりと尋ねてきた。
俺はゆっくり頷き返した。
「長いこと描いているんだ。なかなか思うように描けなくて。でも、お前も人なんだから、きっと笑うことができると思ってな」
ナユタの心は発展途上。これは人の心の研究なんだ、と菟田野は俺に言っていた。
研究は終わっても、ナユタはまだ残る。いつまでだかは知らないけれど、結構長く残るだろう。
そんなことを考えながら、何度も描き直して、秋頃から描き始めているのにまだ半分も出来ていない。
絵の才能が俺にあるのかないのか、はっきりしないまま、ぼんやりと描き進めてきてしまっていた。
「また会う頃には描き上げようって思っていたんだけどな。ちょっとだけ、残念だ」
そう言って、俺は笑った。
ナユタは黙っている。
「ナユタ?」
アトリエの入り口でナユタは俯いていた。
垂れた前髪に隠れて表情が見えない。口元の、強めに結ばれた姿だけが毛先の下で震えて見えた。
「竜水さん」
ナユタの腕が俺の服の裾を軽く握って、すぐに離して下へと伸びた。
俺は腰を下ろしてしゃがみかけた。けどその前に、ナユタが勢いよく俺を見つめてきた。
潤んだ瞳が力強く光っている。あまりにも強すぎて、怒っているのかと一瞬思い、すぐに違うと気づいた。
「ごめんなさい、竜水さん。私、何もわかっていなくて」
ナユタの瞳が揺れて、また項垂れた。
髪が俺の胸もとで擦れる。
声を出そうとして、やめた。安易なことは何も言えなかった。
「私、まだまだです。わからないことがたくさんあるんです。未発達で、脆くて」
ごめんなさい、とナユタが続ける。
俺はその肩を二回、掌でそっと叩いた。
機械の肌に陽射しの温もりが残っている。冷たいとは感じない。まるで人の肌のよう。
人なのだ、と俺は思った。思い込んだ。思い込まねばならないと誓った。
「続き、描くから」
ナユタが首を横に小さく振った。
「あんな笑顔、私、できない」
「できる」と俺は強く言った。
「諦めたくないんだ、まだ」
人になりつつある彼女の腕を今度は俺の手が引いた。
From AI to U 泉宮糾一 @yunomiss
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