6-5

「長く続かなかったのよ」

 演奏は今、中断されている。

 曲目の変更のため、楽器の位置を変えているのだ。人の腰ほどもありそうな太鼓を運び、大きなシンバルを片付けて、トロンボーンのうちの数名がトランペットに持ち替えている。

 暖色のライトが客席を照らしている。今のうちに、済ませたい用がある人は自由に動ける。

 周りの雑音に妨げられながらも、私はなるべく淡々と話を続けた。

「あなたが目覚めて、一年もした頃だったかしら。私、倒れてしまったの」

 意識が飛んだ瞬間。

 視界が突然真っ暗になって、気がついたら病院のベッドの上にいた。

 日付までは覚えていないが、数日が過ぎていた。

「通っていた大学院内の病院で三日寝込んだ。あなたは私の傍にいてくれて、ずっと看病してくれていたみたい。菟田野が来て、教えてくれたわ」

 私はナユタを一瞥した。相変わらず真剣に私のことを見ていてくれている。わめきも泣きもしない。心がこもっているのかどうかもわからない。

 違うんだ、この子は、エリと。

 自分にそう言い聞かせて、私は続きを話せた。

「ストレスによって肺病が再発した。原因は自ずとあなただとわかった。エリのことを忘れまいとして生み出したあなたが、エリにあまりにも似ていたから、記憶の中のエリが薄らいでいくことを心が受け付けなくなってしまった」

 胸の奥が絞られた気がした。

 口を微笑ませて、なるべく柔らかく伝えようと努力して、それでもぎこちなさをぬぐい去ることができなかった。

 少しだけ息を吐いて、私は続けた。

「だから私は菟田野にお願いをしたの。何度も何度も、わがままを言っている自分のことを謝った。菟田野は長い時間をかけて、首肯してくれた。

 その夜、私はあなたを生まれた部屋に連れて行ったわ。菟田野の研究所の地下にある、秘密の実験室」

 拍手が聞こえる。壇上では指揮者がお辞儀をしていた。

 踵を返してタクトを一振り。フルートが小鳥のさえずりのようにせわしなく鳴り響く。

 一瞬迷って、ナユタの真っ直ぐな瞳に気づいて、話を続けた。

「あなたの耳のカバーを開いて、プラグを通してプログラムを起動した。全てをリセットするコード。人間で言えばちょうど記憶喪失になるようなものよ。それも絶対に戻ってこない記憶。あなたは眠るように動かなくなったわ。また試験管の中に入って、培養液の中に入って、なるべくエリの面影が薄れるように髪を脱色した。瞳の色も変えた。そして私は、あなたとなるべく会わないように決めたの」

 それは自分で決めた枷。

「わかるでしょう、ナユタ。私がいかに自分勝手な人か」

 音楽が盛り上がっている。ティンパニの音が炸裂し、楽団がベルを上に持ち上げて音をかき鳴らす。始まりから苛烈だ。物静かでありながら、観客が熱狂しているのがわかる。

 私の心も熱く滾っていた。

 いよいよ言ってしまえる。その言葉がどれほど淋しいものであっても、抱えているものを空にするのは気持ちが良い。

 たとえどんなに酷い言葉でも。

「私はあなたを殺したのよ。自分の心が大切だから、忘れたくないものを忘れてしまった。そうしないと保たなかった。弱かった。そして今日まで隠してしまった。だからあなたにこれだけは言いたい」

 ごめんなさい。

 そして、私のことを忘れて、生きて。

 頭を下げて、目を閉じた。

 何も言葉は返ってこない。

 当然か、と思いつつ首を上げた。

 ナユタはまだまっすぐ私をみていた。

 あまりにもまっすぐで、力強くて、この場に不釣り合いに思えて、少し身じろぎした。

 そのすきにナユタが口を開いた。

「生きてます」

「え?」

「エリは死にました。私も一度死にました。それはおそらく事実なのでしょう。しかし今の私は、こうして生きています。だから何も謝ることはありません」

「でも……私は自分の都合であなたの命を」

「確かに消えました。でもそうしなければ、ハンナさんの命が危うかった。正しい判断だったと思います」

「判断って……」

 二の句が継げなかった。

 何も言いたくない、と思ってしまった。

 それくらい、ナユタの言葉は手触りがないように思えたからだ。

 ナユタは私から目をそらし、自分の耳に手を当てた。

「ここ」

 耳のカバー。

 ナユタのリセットコードを入れる場所。

「私、ここを触られるのが凄く嫌なんです。ちょっとでも触られると、反応せずにいられない。身体が勝手に動いて、触った人を襲ってしまうんです」

「それって、……記憶を消されるから?」

 思いついて口にして、ぞっとする。

 無くなっているはず記憶が、ナユタを苦しめているのだろうか。

 申し訳なさを喉まで詰まらせたら、ナユタは首を横に振った。

「違います。リセットされるのが嫌なのではありません。それはなんとなくわかるんです。いったい自分は何が嫌なのか、この言葉にしにくい感情が一体何なのか、私はずっと考えていました。長い間、この三ヶ月ほどでしょうか。ずっと、ずっと悩んでいました。それが、今日のハンナさんのお話しをきいて確信を持てました」

 ナユタは居住まいを正した。

 身体の正面がハンナに向いている。

 幼い体つきだが、エリよりはずっと背が高い。生きる身体を与えられて、彼女は確かに成長していた。

「悔しいんです」

 ナユタは初めて笑顔になった。

「私は、いえ、エリはあなたを赦していたんです。あなたが苦しんでいることをずっとわかっていたから。だから、そんなに泣かないでください」

 ナユタの指先が私の頬に触れる。

 自分の頬を伝う涙がそっと取り除かれていく。

 私は目を見開いていた。

 ナユタの姿をじっと見つめる。

 彼女はエリではない。

 エリに良く似た別の人。そして、エリのことをよく知っている人。

 自分で言い聞かせるよりもずっと強く、明確にそのことを理解できた。

「ナユタ」

 昔、菟田野に教えてもらった、この国の数字。一、十、百、千……と続いていき、那由多、次が不可思議。

 なるべく長く生きながらえてほしい。さりとて不可思議になる一歩手前で、踏みとどまってほしい。だから、ナユタ。エリの死を実感してから、すっかり忌み嫌ってしまっていたその名前を、私はやっと自然と口にできた。

 どうやって接すればいいかわからずにいた彼女を、腕の中に包み込んだ。

 冷たい皮膚ではあるものの、柔らかい銀の髪には確かな暖かみがある。

 鼓動が聞こえた気がした。

 遠くのティンパニの音であったかもしれない。それでも、構わなかった。

「私、ハンナさんのことずっと覚えています。覚えていないときのこともこれから覚えます。エリさんを救ったあなたのことも記憶します。だから、ハンナさんも忘れないでください」

 私がうなずくと、ナユタの掌が髪をなで下ろしてくれた。

 それ以上何も望まなかった。

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