第三章 The Dreamer

3-1

 菟田野博士へ。

 お元気ですか。お手紙を出すのが少し、久しぶりになってしまいましたね。

 最近、竜水さんが頑張っています。沙雪さんに紹介されたお仕事がよほど気に入ったらしく、自分から率先して作品の構想を練っています。竜水さんはもうずっとまともな仕事にありつけず、貧しい生活をしていたので、この度の機会を失いたくはないのでしょうね。

 沙雪さんと会った日から、竜水さんは随分と明るくなりました。私ともよく話してくれるようになりました。私がアトリエに入ろうとしても慌てず、やんわりと断るようになりました。アトリエの中はやはり散らかっていたし、絵の具汚れまみれでしたが、やんわりに免じて掃除は竜水さんのいないときにだけにしてあげています。

 竜水さんは油絵というものを描きます。鉱物由来の顔料を植物油で引き延ばして作る特別な絵の具による絵です。壁画の時代から人類に伝わっている古典的な表現技法です。絵の具の色はその場その場で好みのものを混ぜ合わせて作ります。人がつくるものですから、彩度も明度も描く度に変わります。むしろ変わって当たり前なのです。やり直しなんてもちろん効かず、訂正するくらいならキャンバスを破って丸めて床にぽいっと捨ててしまう。床はすぐに汚れてしまいます。

 竜水さんの絵には、自然がよく描かれます。都会があまり好きではないというご自分の嗜好が影響しているのでしょう。このアトリエの裏手に広がる鎮守の森と、その緑は良く似ています。キャンバスは一枚の画面であるのに、その緑は深く、広く感じます。

 この世界には絵を見て感動する人がいます。そのような趣旨の随想録をいくつか読みました。自分の人生に重ね合わせる者もいれば、世情に思いを馳せる者、まったく違う世界を想起する者、ポジティブなイメージを携えて活力とする者、逆にネガティブなイメージを受けて身に沁みる者もいます。不思議な話です。絵は、絵です。それなのに、キャンバスの中にだけ広がる絵の具の混ざり合いが、多くの人の目にとまり、人口に膾炙し、受け継がれていく。人ってとっても不思議です。

 菟田野博士、感動ってどういうものなのでしょう。私はまだ完全にはわかっておりません。もう少しでわかるのでしょうか。もう少し経って、私が大人になり、大脳が十分に発達したときには、その意味もわかり、絵を評価することもできるようになるのでしょうか。私はまだまだ未熟です。早く成長して、心を持ちたいです。そうすれば、竜水さんをもっと支えることができます。お掃除したり料理したりするだけじゃなくて、沙雪さんみたいに、もっと根本的なところで支えになってあげられたら良いと思います。沙雪さんと竜水さんは、お金の工面やアトリエの提供と言った現実的な支援もそうですが、もっと目に見えない部分でも支え合っているようにお見受けします。理屈では上手く説明できません。ご姉弟だからなのでしょうか。

 私はもっといろいろなことを知らなくてはなりません。竜水さんが何を欲しているか、何をすれば喜ぶか。そのようなあれこれを考えているのが、今はとても楽しいです。

 今日は竜水さんが外出されているので、竜水さんの目を気にせず、長いお手紙を書くことが出来ました。十分に近況は報告できたと思います。このようにして、私は生きています。ご安心ください。

 ハンナさんはいかがお過ごしですか。もう病室から出ることはできましたか。ハンナさんがいつも菟田野博士の側に寄り添ってくれていることを心より願います。

 それでは。

 EK-00 Name ナユタ

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