第三章 新撰組の主な活躍

1 八月十八日の政変


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 八月十八日の政変とは、会津藩・薩摩藩を中心とした公武合体派が長州を主とする尊王攘夷派と急進派公卿を京都から追放した事件。

 文久三年に起きた事から、文久の政変、堺町門の変とも呼ばれる。



 壬生浪士組(新撰組)は清河派らと別れた後、京都守護職の会津藩主・松平容保の庇護の元、京都の壬生村の八木邸や前川邸及びその周辺の邸宅を屯所として、36名余りの集団となっていた。


 しかしその扱いは低く、同じ配下の京都見廻組が幕臣(旗本、御家人)の正規組織に対して、壬生浪士組は浪士(町人、農民含む)で「会津藩預り」という非正規組織であった。


 任務は、京都で活動する不逞浪士や倒幕志士の捜索・捕縛、担当地域の巡察・警備、反乱の鎮圧などであった。



 そんな中、文久三年(1863年)は、壬生浪士組にとって転機の年となる。


 京都には各地から尊攘派志士が集結し、「天誅」と称して反対派に対する暗殺・脅迫行為が繰り返されていた。朝廷内においても三条実美ら急進派が朝議を左右するようになった。


 このような情勢の元、五月十日を攘夷決行の日とすることを将軍徳川家茂に約束させるに至った。


 五月十日、長州藩は下関海峡でアメリカ商船を砲撃して攘夷を実行に移すが他藩はこれに続かず、傍観を決め込むのみであった。

 また、攘夷実行を約束した家茂も、翌月には京を離れてしまっていた。


 この長州藩の窮状を打開しようと、天皇による攘夷親征の実行が尊攘急進派によって企てられた。


 一方、当の孝明天皇は、熱心な攘夷主義者ではあったものの、急進派の横暴を快く思っておらず、攘夷の実施についても幕府や諸藩が行うべきものと考えていた。


 その頃会津藩と薩摩藩を中心とした公武合体派は、中川宮朝彦親王を擁して朝廷における尊攘派を一掃する計画を画策していた。


 そしてついに八月十五日、松平容保の了解のもと、 薩摩と会津が中川宮及び天皇を説得、翌日に天皇から密命が下った。


 この計画に会津藩は兵1500名を動員し、政変の中心となった。


 そして松平容保は壬生浪士組にも出陣するように命令したのである。



 近藤、芹沢は、壬生浪士組を引き連れ禁中へと出陣した。

 赤地に「誠」の字を白く染め抜いた隊旗を持って、彼らは初めてのお役目に臨んだのである。


 彼らが到着した時には、長州藩と会津・薩摩の藩士たちが睨み合っていた。


 膠着状態が続いて数時間後、会津・薩摩藩が踏み込んだ瞬間、前々から長州と関わりがあるのではないかと疑われていた、壬生浪士組の一員だった楠小十郎と松永主計の二人が急に逃げ出した為、楠は原田が生捕り、松永は井上源三郎が一太刀浴びせたがそのまま逃走した。


 この時の出来事について永倉新八は、「楠小十郎が長州間者である事は始めから知っていた。こちらでは敢えて楠を押さえておいて、逆に行動を監視して長州の動きを知ろうとしていた。」と語っている。


 この事から、誰が同志で誰が裏切り者であるかという事を見極める能力が、当時から既に鋭かったといえる。

 その後生捕りにした楠や炙り出された他の長州間者を暗殺した。


 結果的に長州藩は京都から引き揚げる事となり、壬生浪士組はそれに貢献したという事で将軍から恩賞を得る事になった。


 更に容保公より「新撰組」を拝命し、壬生浪士組改め、新撰組となった。

 因みにこの新撰組という名は、武家伝奏から賜ったという説と、会津藩主本陣の警備部隊名をもらったという説がある。(後者が有力)



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