9)備考


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 ここで備考として、他の幹部隊士の紹介をする。




松原忠司まつばらちゅうじ、新撰組四番隊組長兼柔術師範。


 播磨国小野藩の藩士の子として生まれる。脱藩し、その後は大坂で関口流柔術の道場を開いていたといわれる。


 新撰組の前身である壬生浪士組に入隊。八月十八日の政変では警備を担当したが、その時の風貌は坊主頭に白い鉢巻きを巻き、更に脇には大薙刀を携えるという異様なものであり、そこから「今弁慶」の異名をとる。


 池田屋事件では土方隊に属し戦功を挙げた。


 温厚な人柄で知られ、壬生界隈には「親切者は山南と松原」という言葉が伝わる。


 31歳で死去。新撰組の記録では「病死」とされているが、その死については諸説あり。





武田観柳斎たけだかんりゅうさいは、新撰組五番隊組長、及び文学師範。

 甲斐武田氏に因んでこの名前を称した。


 出雲国母里藩の藩士の子として生まれる。医学生であったと伝わるが、後に脱藩。江戸へ行き、甲州流軍学(長沼流)を修める。


 軍学者として近藤勇に重用され、副長助勤を経て最終的に五番隊組長や文学師範、軍事方といった地位に就き、甲州流軍学による訓練を担当した。


 池田屋事件や禁門の変で活躍する等、軍才を背景に存在感を示す。

 しかし新撰組で洋式の訓練が採用されるようになると、武田は隊内での影響力を失い、その頃から伊東甲子太郎や薩摩藩との接触を企てる等、不穏な行動を示し始める。


 巧みな弁舌で近藤らに媚びへつらう等、武田に対して嫌悪を示す隊士も少なくなかったとされる。

 また、「隊士は家臣として局長を慕っている」等と近藤に吹き込んでいたという話も残っている。


 京都郊外の鴨川銭取橋にて暗殺。





谷三十郎たにさんじゅうろうは、新撰組七番隊組長。


 備中松山藩士・谷三治郎の嫡男として生まれる。幼少期より父から武術を学ぶ。


 新撰組加盟の時期は不明だが、元治元年には副長助勤、慶応元年には七番隊組長・槍術師範を務める。


 池田屋事件では近藤の組に属し、活躍した。

 大坂焼き討ち計画を未然に防ぎ(ぜんざい屋事件)、大坂の豪商・加賀屋四郎兵衛に対する献金要請の際は交渉役を務める等、功績を残している。

 弟周平は近藤の養子となっていて、この事を鼻にかけていた事から、隊内で嫌われていたとされる。


 京都東山の祇園社(八坂神社)石段下にて「頓死」する。





鈴木三樹三郎すずきみきさぶろうは、新撰組九番隊組長、御陵衛士、明治時代の警察官僚。伊東甲子太郎の実弟。


 常陸志筑藩士・鈴木専右衛門忠明の次男として生まれる。


 尊王攘夷運動に奔走すべく脱藩した三樹三郎は、兄の伊東甲子太郎の元に身を寄せる。桜田門外の変の後、江戸を離れ数年もの間常陸国多賀郡にて隠棲する。

 その後旧知である藤堂平助の隊士募集の求めに応じ、伊東らと共に京都に赴き新撰組に加盟する。目付を務めた後、九番隊組長となる。

 しかし後に降格。学問や弁舌に優れていたものの、丁寧な性格が災いしたと伝えられる。


 伊東が新撰組を離脱した際は一緒に行動し、御陵衛士(高台寺党)に属す。

 暗殺された伊東の遺体収容時、迎撃する新撰組との乱闘を切り抜けて、薩摩藩邸に保護される。(油小路事件)

 鳥羽伏見の戦いでは、薩摩藩の中村半次郎の指揮下(薩摩藩一番隊)に入って伏見奉行所の新撰組と戦う。


 その後新政府軍に加わり、戊辰戦争では北越や会津における戦線を戦った。

 明治以降、主に司法・警察関係に奉職し、山形県鶴岡警察署長の地位にまでなった。



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