二
昼に近づくにつれ激しくなる日光が、肌に痛いほど照りつけた。
庭のそこかしこが、失敗した写真のように白っぽく見えるほど、明るかった。僕の足から短くのびる影は、強い陽に隈取られて濃かった。
宿のなかから、ばたばたと軽快な足音がした。紗代ちゃんが、廊下から居間へ走りこんできて、そのままの勢いで縁側に座った。
「兄ちゃん、もう火ついた⁉ もうお肉食べれる⁉」
僕は首にかけたタオルで額の汗を拭い、
「気が早いな。まだだよ」
「もうっ、お腹すいたあ!」
紗代ちゃんは声高に嘆いて、縁側から地面のすぐ上へと垂らした細い脚を、ばたばたさせる。
「こら、紗代」
優子さんが、居間へ入ってきた。彼女は愚図る紗代ちゃんに、
「あんさん頑張ってくれてんねんから、ぶうぶう言いな」
と厳しく言う。
叱られた紗代ちゃんは、不満げにむすっとして、それでも堪えきれずに「お肉」と小さく呟いた。
可愛い拗ね方に僕は笑みをもらしながら、
「まあ、そう落ち込まなくてもいいよ。すぐだから」
「ほんま⁉」
紗代ちゃんの表情が、再びぱあっと華やぐ。
「うん、ほんとほんと」
僕はなだめるようにそう言いながら、バーベキューコンロの前にしゃがみ、ぱたぱたと団扇で風を送る。新聞紙についた火は、めらめらと揺れながら、しかしなかなか炭には移ってくれない。
「ごめんなあ」
優子さんが居間に佇んでこちらを眺めながら言った。
「うちが着火剤とかちゃんと買ってきとったらなあ」
「いやあ、ご心配なく。新聞だけでも、すぐですよ」
「手伝おうか?」
「いや、大丈夫です。優子さんは野菜切ったりしてくれてるんですから、これぐらいは僕にさせてください」
「ごめんなあ、楽させてもうて」
優子さんはそう言ってから、紗代ちゃんの頭を軽く叩いて、
「あんさんはこないして暑いなか頑張ってくれて、由梨花も母ちゃん手伝って色々用意してんのに、あんたはなにしてんねやー?」
彼女が恐ろしい声を作って言うと、紗代ちゃんは突然にばたんと縁側の上に横になり、苦しそうに目を閉じて、
「母ちゃん……うち、お腹すいて死にそうで、手伝いどころやないねん……」
「みんなお腹はへってるわ、あんただけちゃう」
「そんなん言うても……うちのぺこぺこ度は……とびっきりなのです……」
「都合のええことばっかり言うてあんたは」
優子さんがため息をつく。
それでも紗代ちゃんは態度を変えずに、
「だって、うちは子どもやから……子どもはお腹ぺこぺこな生き物やから……」
「由梨花はちゃんと働いてるけど?」
優子さんがそう問い詰めると、紗代ちゃんはうっと声を出し、
「由梨花は……でも……だって……うう……」
と答えに窮してから、苦し紛れに言った。
「う、うう……元気なさすぎて、答えることも、できひん……」
「ほんまにあんたって子は」
二人のやりとりに僕は思わず笑ってしまいながら、団扇を扇ぎ続ける。
優子さんが呆れたように言う。
「もうあかん、あんた、肉なしな」
「え⁉ それはあかん!」
紗代ちゃんが勢いよく身を起こす。
すると優子さんがニヤリと笑い、
「なんやあんた、元気あるやん」
「はっ! やられた!」
紗代ちゃんは立ち上がって、
「この卑怯者め!」
「誰がや」
優子さんが紗代ちゃんの頭をはたく。そしてすかさず紗代ちゃんの手を取り、
「ほれ、台所行くで」
と、彼女を引きずりながら歩き出す。
紗代ちゃんは身体をだらけさせて抵抗しながら、
「いーやーやー、肉食うまではなんもやる気起きんのにー」
「そんなに肉、肉言うんやったら、あんたには肉切るのと下ごしらえさしたるから」
「いーやーうちは食う専門がいいー」
紗代ちゃんはそう駄々をこねてずるずると引っ張られていたが、居間を出ようとするその時、突然大きな声を出した。
「あ! そうや!」
「なに? どうしたん」
優子さんが驚いたように素早く振り返り、紗代ちゃんの手を離す。
その隙に紗代ちゃんは猛然と走り出し、跳ぶように居間を横切り、また縁側へと戻ってきた。
そして、優子さんが「あ!」と声をあげ迫りくるのをよそに、
「うち、ここで兄ちゃんの応援しとくわ」
「はあ?」
優子さんは、一瞬ぽかんと口を開けたが、しかしすぐに目に怒りを取り戻した。そしてまたなにか言おうとその時、
「お母さあん、これどうやって切ったらええのお?」
と、由梨花ちゃんの声が台所の方からした。
紗代ちゃんはチャンスとばかりに、
「ほら、由梨花呼んでる、行ったげな」
と優子さんに急かすように言う。
「ほんまに、あんたなあ」
優子さんは、あまりの紗代ちゃんの奔放さが、かえって可笑しいのか、小さく笑った。
「ほな、ちゃんとあんさんの応援するんやで」
彼女は笑いの滲んだ声でそう言い残し、居間を出て行った。
それを見送ってから、紗代ちゃんは僕の方を振り返り、
「ふん、逃げ切ったぜ」
とピースしてみせた。
そしてすぐ、縁側にすくっと立ち上がり、
「さてと。ほんなら、今からうちは兄ちゃんの応援団です」
「へえ、どんな応援してくれるのかな」
「ううんとなあ」
紗代ちゃんは、顎に指をやって少し考え、
「よしっ」
と、なにか思いついた輝きを、ふっと目に浮かべた。
僕は、手を動かしたまま、なにをするのかと紗代ちゃんの方を眺める。
彼女は、手を叩いてゆっくり拍子をとりながら、かごめかごめの調べで、歌い始めた。
「おーにーく、おーにーく、いつ食べれーるの、おーにーく、はやく食べられへんかったら、うちもあんたも死んじゃうよ、死にたくないのはだあれ」
応援というより、脅迫だった。
思わず苦笑が浮かぶ。
「応援されてる気がしないなあ」
「むう」
紗代ちゃんは、眼差しに力強く怒りを光らせて、こちらを睨みつける。そして、ぷいとそっぽを向いて、
「ふん、ほんなら知らんもん。もう勝手にしいや」
と言い放ち、腰を下ろしてしまった。
応援は彼女の仕事であったはずなのに。そう思って可笑しくなりながらも、僕はなんとか笑いを堪えて、弱々しく呟く。
「いやあ、でも、ないとやっぱり、淋しいな」
「え? さびしい?」
紗代ちゃんはすぐさま、他所へ向けていた目を、こちらへ戻す。
「うちに応援してもらわな、さびしいって?」
「うん、やる気がちょっとね」
「ふふん」
紗代ちゃんは自慢げに鼻を鳴らした。
「そうやろ? もう、最初っから素直になったらええのに」
彼女はそう言いながら、素早く立ち上がる。短い髪が、立ち上がる動作とともに、ふわりと揺れた。子ども心の、清潔な軽やかさのように、感じられた。
紗代ちゃんは、薄い胸をいっぱいに張って、また瑞々しい声を聞かせてくれた。
『応援のようなもの』を受けながら僕は団扇を扇ぎ続けて、紗代ちゃんも歌うのに飽きが見えてきた頃、ようやく炎が炭からのぼった。
「よし」
一人呟いて、紗代ちゃんにも教えようようと顔を上げると、ちょうど、優子さんと由梨花ちゃんが肉やら野菜やら握り飯を運んできた。
僕は、高揚で彼女たちへ手を軽くあげさえして、言った。
「ちょうど良かった、たった今、やっと炭に火がつきました」
面倒そうに脱力していた紗代ちゃんの面持ちが、一気に瑞々しさを取り戻す。
「やっとや! やっとや!」
彼女はそう言ってから、後ろの優子さんと由梨花ちゃんを振り返って、
「うちの応援のおかげです」
と、誇らしげに胸を叩いて見せた。
「えらいねえ、あんたもいっぱい食べてええからなあ」
そう言って紗代ちゃんの頭を軽く撫でる優子さんの顔も、コンロのなかで揺らめく炎を見るなり、あどけなく綻んだ。
「よしっ、お肉お肉♪」
彼女は躍り出しそうに言ってから、
「あ、ほんまにごめんなあ。しんどい仕事、あんさんにばっかしてもうて」
と、思い出したように謝罪を付け加えた。それほどに、はしゃいでいた。紗代ちゃんが、母のいつにない陽気に、けらけらと笑って、
「お肉お肉♪」
と真似て言う。
由梨花ちゃんがくすくすと笑いながら、陽ざしの強い縁側には出てこずに、居間に腰を下ろした。太陽のもとから見ると陰翳の濃い居間で、煙のように仄めく由梨花ちゃんの肌は、陽をいっぱいに浴びて眩い光を散らす紗代ちゃんの褐色の肌と見比べると、それぞれ美しい陰陽だ。どちらにも少女らしいひたむきな生命力がある。
「兄ちゃん、兄ちゃん」
紗代ちゃんが唐突に、庭へ下りた。
「居間でゆっくりしててええで、肉焼くんはな、うちがやったるわ」
「いいよそんなの。どうしたの、急に奉仕精神に目覚めて」
優子さんが材料を盛った皿を、居間の机に並べながら口を挟む。
「あんた、自分で焼いて真っ先に食いたいだけやろ」
「ああ、そういうことか」
僕は納得して笑った。優子さんと由梨花ちゃんも、朗らかな笑い声をあげる。
紗代ちゃんは言い訳せず、それがどうしたと言わんばかりに堂々と笑みを浮かべて、バーベキューコンロの脇に掛けていたトングを手に取る。
「じゃ、お言葉にあまえて」
僕は紗代ちゃんの頭にポンと手をやってから、居間へあがり、だらんと寝転んだ。
僕の頭のすぐ上の辺りに座っていた由梨花ちゃんが、僕の顔を覗き込んできた。労わるような微笑みを湛えた彼女の顔が、上下反対に、真上へ現れる。息がかかるような距離ではないが、長い黒髪が僕の耳の辺りまで垂れてくすぐったい。
「お疲れさま、兄ちゃん」
「ああ、由梨花ちゃんも、お疲れさま」
彼女の顔を近くに見て、糸が切れるように急に疲れが湧出するのを感じながら、力の抜けた声で僕は言った。すると彼女はきょとんとして、
「え? うちなんでお疲れ?」
「野菜切ったり、色々してくれたんでしょ?」
「ああ。そんなん」
由梨花ちゃんは、自分に相応しくない感謝を持て余すように、つつましく目を逸らした。
「火おこしとかに比べたら、なんも疲れへん」
「そんなことないよ」
僕は、そっと伏せられた由梨花ちゃんの睫毛が、目の辺りに薄くおとす影を眺めながら、この子と紗代ちゃんは、なんと似ていない双子だろうと、やや可笑しかった。紗代ちゃんは、僕を応援したというだけのことで、胸を張ったのだ。
しかし、似ていなくともやはり双子だと思わせるものが、二人にはあった。それはやはり、色彩は違えど、美しさであった。
ぼんやり二人の美しさに思いを巡らせていると、由梨花ちゃんはその顔つきをよほどの疲れと見て取ったのか、気遣うように言った。
「どうしたん、熱中症にでもなった?」
「いや、大丈夫。ちょっとぼうっとしてただけ」
「そっか、よかった」
由梨花ちゃんは心の底から安堵するようにほっと息をついて、
「あ、そうや」
と思いつきの目をした。
「ビール取ってこうか? よう冷やしてるねん」
「ああ、いいね」
こんな日光のもとで飲む冷えたビールなど、格別だろう。
僕はその爽快な味を想像してうっとりしながら、身体を起こした。
すると由梨花ちゃんが、すぐに僕の肩に手をかけて、やさしくまた寝かした。
「兄ちゃんは休んどいてくれてええよ」
「いや、いいよ。しんどいわけじゃない。自分で取りに行くぐらい何ともない」
「あかん、休んでて?」
彼女の口ぶりは、思いがけず女らしかった。僕は、ままごとにも似た大人気取りかと微笑ましく思って、
「よし、それなら頼もう」
と、まるで彼女の男であるように答えた。
由梨花ちゃんは、満足げに小さな歯を見せて笑い、どこか恥ずかしそうに頷いた。
彼女は立ち上がり、優子さんもビールが欲しいことを尋ねて確認してから、台所へ立って行った。
彼女が持ってきてくれた瓶ビールを、優子さんと酌み交わしていると、肉が焼き上がった。紗代ちゃんが小さな手を両方使って、たどたどしくトングで肉を小皿へ取り分けてくれた。
僕がその一つの皿を取って、さて食べようとした、その時だった。突然紗代ちゃんが大きな声で待ったをかけた。
彼女は鋭い歯をにいっとのぞかせて、
「兄ちゃんの一口目は、うちが食べさしたげる」
「は? いらないよ、そんなの」
僕はいきなりそんなことを言われた理由が分からず、反射的に拒絶すると、紗代ちゃんはタンッタンッと身軽に庭から居間へ駆けあがってきて、
「あかん、食べさしたげんの。兄ちゃんずっ働いてくれててんもん。それぐらいしたるやんか」
「いや、いいって。応援してくれたので十分だよ」
「あかんの」
紗代ちゃんは聞き分けのない頑固さでそう言い、僕の手から、箸を取り上げる。
「ほら、早よ口開けて。出来たてのうちに、冷めてしまわへんうちに」
僕は由梨花ちゃんが傷つきはしないか心配になりながらも、しかしそこまで言うなら強いて拒むのも面倒だと、もうなされるがままにしようという気になって口を開いた。
紗代ちゃんが僕の皿から箸で肉を取り、
「はい、あーん」
と近づけてくる。
ふと、優子さんの存在が頭を過って、周りへ目をやる。
机の向こうで優子さんは、子どもの戯れを見守る眼差しだ。視界の隅に見えた由梨花ちゃんは、もどかしそうにじっとこちらを見つめながら、しかしなにも言えないでいる。
由梨花ちゃんと目が合い、彼女ははっとして、俯いてしまった。その項垂れた細長い首が、手折られた華のようで、ふっと惹きつけられた。
その瞬間だった。
鼻先に、飛び上がるような熱が触れた。
「あつっ!」
凄まじく身をのけぞらせると、目の前で、紗代ちゃんがげらげら笑った。すぐに、焼きたての肉を鼻に押し当てられたのだと気がついた。
「やりやがったな、この」
僕が鼻に掌を当てて声をあげると、紗代ちゃんは丸い目を力いっぱい見開いて、ますます笑いに狂った。
「あはははは! い、一回やってみたかってん、これ」
笑いに声を震わせ、可笑しさを抑えられないというように畳を叩きながら、彼女は言った。
そして突然、また別のところからも笑いが弾けたので、見ると優子さんが、手を叩いて蓮葉に笑っている。
「ご、ごめん、ほんまは怒らなあかんのやろうけど、あんまりええ反応するもんやから」
「僕がおかしいみたいに言わないでください……」
優子さんの笑い声が、さらに大きくなる。
さらに、くすくすと堪えた笑いが聞こえる。由梨花ちゃんだった。彼女もまた笑いを我慢できずに、俯いたまま、身体を震わせている。見つめる僕に気づいたのか、そっと上目でこちらを見やる。真っ赤になった顔に、秘めようとする笑いが、滲んでいる。
優子さんと紗代ちゃんの遠慮のない笑い声と、由梨花ちゃんの囁きのような笑いが、僕の耳に森のさざめきのような巨大さで響いてくる。
「ぷっ」
そしてつい、僕も思わず、噴き出してしまった。そうなると、堰を切ったように、理由のない可笑しさがこみ上げて、自分でもどうかしてしまったのかと疑われるほど、笑い転げた。三人の笑い声が、どんどん僕をくすぐって、どんどん笑ってしまうのだ。
僕が笑うのを見て、三人はまた勢いづいて笑う。それに僕もまた笑ってしまう。僕たちは互いに、つり合い、つられ合い、ほとんどなにが可笑しいのかも分かっていないような軽やかさで、笑い続けた。
ようやく笑いがおさまって、さて食べようという頃には、もう肉は少し硬くなっていた。
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