花と月
一
夜が深まり、退屈しながら酒を飲んで眠気を待っていると、部屋の戸が弱く叩かれた。
みんな眠ったと思っていたので、些かの驚きを抱きながら、
「はあい」
と声を出すと、戸が少しだけ開いた。
顔をのぞかせたのは、由梨花ちゃんである。
「ああ」
僕は、訪れたのが彼女であったのにまた驚いて、おかしな声を出してしまった。彼女の身体を見てしまってから三日、ずっと彼女は僕を見るなり肌を染めて物も言わなかった。
「どうしたの」
さっき出た奇異な声を打ち消すように、努めてやさしく僕は言った。
すると、いくらか強張っていた由梨花ちゃんの顔も、ふっとやわらいで、
「ちょっと、寝られへんくて」
と言いながら、部屋へ入ってきた。
由梨花ちゃんはそのまま、他愛ない話を始めそうに見えたが、座りながら突然、また顔を強張らせた。
落ち着きのない表情の移ろいに、僕が戸惑っていると、彼女は正座をして、むっと黙り込んでしまった。
「ど、どうしたの?」
恐る恐る尋ねる。
しかし由梨花ちゃんは、なにか言おうとして小さく口は開くものの、また俯いてしまう。言葉を呟くかわりのように、肌がみるみる染まっていく。
どうしようもなく、僕ももうなにも聞かずに黙って、酒を飲みながら彼女の言葉を待った。
半合ほど飲んだ頃、ようやく由梨花ちゃんは言った。
「兄ちゃん。聞きたいことあんねんけど、ええ?」
「うん」
「あんな、変なこと聞くけど、笑わんとってな」
「え? うん」
「あんな、兄ちゃん、うちのこと嫌いなってへん?」
「嫌いに?」
思いがけない言葉に僕は、
「僕が由梨花ちゃんを、嫌いに?」
と聞き返す。
由梨花ちゃんは、僕と目が合うと再び俯いたが、すぐにまっすぐ見つめ返して頷いた。目が少し潤み、膝の上に置いてある両手の指先がきゅっと結ばれている。
「まさか。嫌うような理由がない」
僕が半ばぽかんとしながら言うと、由梨花ちゃんは抗議するような強さで、
「でも、でも、うち、最近ずっと兄ちゃん避けてるみたいになってたし」
「そんなことで嫌いにならないよ。だって、僕が見ちゃったのが、悪いんだし」
言い終えてすぐに、無神経な言葉だったと気がついた。口がすべったのは、酩酊のせいもあり、否定する思いの強さからでもあった。
由梨花ちゃんは、上げた目をまた伏せてしまった。しかしそれでも、首を横に振って言う。
「ううん。兄ちゃん悪くない。だって、知らずに開けたんやもん」
「まあ、そうなんだけど」
僕が謝っているのは、見たことそれ自体ではなく、うっとり心を揺らしたことだ。
それなのに悪くないと言うのは、服の奥の身体を見つめた僕の視線を、由梨花ちゃんは忘れているのだろうか。
強いて罪を懺悔するような気も起きず、忘れたなら忘れたままでいてもらおうと都合の良いことを考えて、僕は言った。
「でも、まあ、謝らせてよ。たまたまとはいえ、本当に悪かったね」
由梨花ちゃんは、ようやく打ち解けた表情になって、こちらをまっすぐ見ながら答える。
「うちこそ、ごめんなさい。兄ちゃん悪ないのに、恥ずかしいて、口もきかんで」
「いや、全然。それでいいよ」
由梨花ちゃんの顔に、僕の言葉を不思議がる様子が、一瞬よぎった。
いらぬことを言ったと僕はすぐに後悔したが、しかし、真意を説明するわけにもいかなかった。「明るくはにかむこともできずに、じっと恥じらう心は美しい」などと、どんな目をして言えば良いのか。
僕は話を打ち切るように、酒を呷った。由梨花ちゃんも、しこりから解放された清々しさか、もうすっきりした顔で、なにも追及してこなかった。
それから、杯が三度ほど乾くまでの間、僕たちは互いになにも言わなかった。
僕は、話せばなにかぼろが出そうで初めは黙っていたのであったが、次第に静寂の快さに目覚めた。なにを言う気も起らなかった。
やわらかい静けさだった。
酒と由梨花ちゃんが溶け合い醸す香りの、涙が出そうなほどほっとするあまさのせいだろうか。それとも、彼女の小さくほっそりした手に、爪の先まで桃色が儚く残っているのが、なんともうららかであるからか。
由梨花ちゃんは、ふと思い出したように、畳へおっとり泳がせていた視線をこちらへ据えた。
「そうそう、兄ちゃん。一つ聞いてもいい?」
「うん。どうしたの、いきなり」
僕が言うと、由梨花ちゃんは口元に温かいゆるみを浮かべた。
「うちのこと、綺麗と思った?」
身体のことを言っているのだと、すぐに気づいた。
あまりに意外で、大胆な問いかけに、僕は縛られたようにかたくなった。
彼女の眼差しは、躊躇いがちに、僕の目の奥を覗こうとするようだった。
小ぶりで色の濃い唇は、どこか媚びるように微笑んで、昏い誘惑が仄めいていた。
それでいて、白へ移ろいつつあった肌は、再び静かに燃えはじめていた。
初心な恋が匂うようで、僕は驚いた。
驚きは電気信号のように連想を引き起こした。僕は思った。彼女は自分の身体を見つめた恍惚に耽る眼を、微塵も忘れていないのだろう。もしかすると、夜の闇にそれを幻視さえしたかもしれない。それでも僕を責めなかったのは、視線に漲る熱を、悦ぶからであろう。
僕は、自分の考えの結末に、雷に打たれるような驚愕を感じた。
はっとして醒めた目に、由梨花ちゃんの姿が映った。
僕は、ただ見つめた。
少女であるせいか、視線の一つにも、無防備に心が滲んでいた。
見つめるほど、自分の爛れた考えが、信じられてきた。
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