紗代ちゃんに早く起こされることにも慣れ、酒を飲めば夜が明けぬうちに眠れることも増えた。

 しかし、眠りについてすぐ、顔のすぐ傍になにかの気配がして目が覚めた。

 薄ら開かれた朧げな視界。顔の傍にあったなにかがさっと遠のく。ふと目についた窓の外は、まだ青い。

 僕は目をこすりながら、辺りを見回す。

 すると、僕の傍らに、由梨花ちゃんが座っていた。

「うおっ、びっくりした」

 僕は咄嗟に驚きの声をもらし、戸惑いながら尋ねる。

「なにしてるの、こんなところで……」

「別に、どうしたってことも、ないんやけど……」

 由梨花ちゃんは言いにくそうに、

「トイレ行こ思って、兄ちゃんの部屋の前通って、なんの気なしに、寝顔のぞいてみたなっただけやねんけどな……」

 消え入るような声でそう呟く由梨花ちゃんの顔は、薄暗がりのなかで、薄らと桜のように色づいている。便所は、僕の部屋のある二階だけでなく、由梨花ちゃんの部屋のある一階にも、きちんとある。

 僕は、彼女の恥じらいが滲むようで、

「そ、そっか。僕の寝顔なんて見ても、つまらないのに」

 とだけたどたどしく言ったきり、黙り込んでしまった。なにを言うべきか分からなかった。

 気まずい沈黙を紛らわせるように、由梨花ちゃんが口を開いた。

「兄ちゃんの部屋だけ、この家のどこにもない匂いするなあ」

「そう? どこにもない匂い?」

「うん。今まで嗅いだことないような」

「お酒かな。毎日飲んでるから」

「ちゃうちゃう」

 由梨花ちゃんは首を横に振って、

「お酒はお母さんも飲むもん」

「そっか。まあ、なにはともあれ、ごめんね。家を汚しちゃうみたいだな」

 僕が言うと、由梨花ちゃんはまた首を横に振った。

 その動きの美しさが目についた。動きのすべてがさりげない、軽やかで淡い否定である。脆く折れてしまいそうなほっそりした首に、揺れる長い髪の影がやわらかく揺らめく。

「ううん、汚してへんよ。嫌な匂いちゃうもん」

 由梨花ちゃんはそう言ってから、きょとんとして、

「なんやろ。男の人の匂いなんかな」

「ああ、かもしれないね。それなら由梨花ちゃんの知らない匂いだ」

 由梨花ちゃんは、目を瞑って、空気を鼻から吸った。その小さな鼻の、夜空の星を磨いて作ったような清らかな白さに、視線が誘われた。

 由梨花ちゃんが、ぼうっと夢見るような曖昧な声音で呟いた。

「ふうん。男の人って、こんな匂いすんのかあ」

 この部屋に彼女が入ってきて、僕の顔をのぞいていたのは、男という見慣れぬものへの初々しい興味だったのだろうか。


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