第五章 運命の双生

運命の双生 Ⅰ


「おめでとうと祝ってやりたいが、今日はとてもそんな心境になれんのだよ」

 充満する紫煙の中、乱暴に葉巻を揉み消した柴田は新しいモンテクリストを口に銜えシガーマッチを擦った。しかし、湿気っているのか火が点かない。別のを試したが発火せず、柴田はむきになり三度も四度も繰り返した。

「行刑を揺るがすような大事件でも起きたのですか」

 二月二日の昼過ぎ、急に呼び出しを受けた直樹は初めに妻の懐妊の報告をしたのだが、所長は不機嫌そうに今にも噛み付きそうな面構えになっていた。葉巻好きな人間がマナーに反して揉み消すというのは余程苛ついている証拠である。

「これを見たまえ」

 と、投げ渡された封書には、普段全く目にしない「再審決定」の文字が印刷されていた。面喰って裏返せば石動の弁護団団長氏名印が力強く押してある。

 直樹は柴田の隣に控えていた村上へ急ぎ目を遣った。

「まさか、これは『再審事件確定通知書』では」

 再審が決定されるには新証拠が発見されたのと同意を持つ。請求していてもまた棄却されるだろうと軽んじていただけに驚きであった。

 村上は頬を緩めて説き明かした。

「新任された草柳弁護士が雇った探偵に捕まった胴元は福井地裁の取り調べを受けた。新たな証人の出現により平居裁判長は再審開始を決定した。団長は明日正式に面会に来るそうだ」

「よくぞ証言に応じましたね」

「怨念にも近いヨナさんの執念がそうさせたんだろう」

 すると柴田は思いきり苦々しく煙を吐いて葉巻を村上へ向けた。

「村上君、渾名は止めたまえ。住人と同じで下品に感じるぞ。本来再審は法的安定を目指す省にとって不名誉限りなく、あらゆる手段を講じて阻止せねばならんものだ。簡単に開始されたんでは司法の面目が立たん」

「お言葉ですが、所長、そのお考えは誤っていると存じます。拘置所に再審を妨害する権利はありませんし、却って法を犯す行為にもなりかねません。再審を拒んでいると世間に知れたら一層複雑な問題に発展するのは確実です」

 暴言を制した村上に、厄介事を忌み嫌う柴田は咳払いして誤魔化した。

「とにかく死刑囚を預かる我々としては心情安定が何よりだ。野呂のケースのように被害者女性が裁判に訴えるのは頭が痛い」

 難渋する状況に頭を掻く所長を見て直樹は朝刊の三十三ページに載っていた「永平寺事件の被害者、人権侵害で名古屋拘置所を告訴」という小さな記事を思い出した。

 朝倉瑤子は予告通り面会を拒絶する拘置所を相手取り裁判に訴えてきた。有沢逃亡事件、石動再審、瑤子の告訴。相次いで窮地に追い込まれた柴田が直樹に祝意を表せないのも無理なかった。

 間もなく直樹は所長室を退室し、通知の複写を携え九階へ向かった。

「ひゃっほう、先生、あんたは最高! 今まで鼻持ちならない高慢ちきと馬鹿にしてたのは撤回するよ」

 手紙を受け取った石動の喜びようといったら表現の仕様がなかった。

 突然房扉を太鼓のように叩き、大粒の涙を流したかと思えば千切れるくらい太い腕を振り回し、狂人の如く笑い出したのである。次に布団を壁に放り投げ、訳の分からない踊りを始めた。

 手酷くけなされながらも初めて先生扱いされた直樹は再審の影響力を初めて味わった。

 無罪を証明するには真犯人を挙げる必要はなく、有罪が疑わしいとされれば再審は開始される。それでも犯人が発見されたり、証人が名乗り出たりする方が有利なのは言うまでもない。ただ裁判所によっては真犯人の証言が虚偽だと主張し判決を覆さない場合もあるので楽観は出来ないが、石動は無罪判決と出獄を既に想像し、無邪気にはしゃいでいた。

「いかがです、主任代理、リテンである貴方のご感想は」

 担当台から様態を覗いていた鮫島が自分の側を横切ろうとする直樹に目を細くした。

 直樹は歩みを止めて振り返った。

「皮肉は止せ。俺は確かに疑ってはいたが石動は限りなく白に近い灰色だったんだ」

「はは、変われば変わるものですな」

「ふん、変わっちゃいない。後の住人は正犯ばかりだからな」

「教授は?」

「再審を拒否されている者は皆揃って黒だ。新たな証拠が見付からない限り俺は司法の味方だよ。ところで、今日は二時前に上がりなんだってな」

 ハミルトンで直樹は早い時間を確かめた。

「女房が急に産気付きましてね、今晩当たり五番目が産まれそうなんですよ」

「また多産だな。男と女は何人ずつだ」

「全て娘です。名古屋では破産ですよ。親が昔気質ですからいずれ土地屋敷を売らないと」

「ハハ、何だ、もう嫁入りを考えているのか。心配しなくてもその頃には派手な披露宴や家具運びの風習は今以上に廃れているだろうよ」

 鮫島は五ヶ月目にしてやっと普通の会話を交わしてきた直樹に名前で聞き返した。

「東さんの所はどうなんです」

「どうせ村上部長から漏れるから今の内に伝えておくが、うちは一人目が最近三ヶ月と判明したばかりだ」

「ほう、最近はお目出度が続きますね。ヨナさんは再審が開始されるし、去年はここでの執行が無かったし、このまま廃止されればもっと結構なんですがね」

「それは偶然名拘が当たらなかっただけだ、吉事でもない」

 直樹が一月七日に定期転房した嘉樹の九〇五房を睨むと、鮫島はやれやれとこめかみを掻き、代務の相馬と入れ替わりに帰宅へのエレベーターに乗っていった。

 そして夕方、月曜会議は勝鬨かちどきが上がり、いつの間にか「石動君を祝う会」になっていた。

 小松決定に誰もが色めき立ち、今度は自分の番との希望に溢れた。

 直樹と書記の代務を余所に、壇上で礼と裁判への抱負を述べる石動を羨望の眼差しで見つめているのは上告を棄却されている者ばかりで、目指すのは無論無罪放免か、もしくは無期刑への減刑である。

 ところで虚言無く無実であろうと世の一部に推測されているのは、石動以外は坂巻しかいないのであるが、その当人はいつも会に現れない野呂と共に珍しく欠席していた。

 前半の夜勤に当たっていた直樹は会議の後、坂巻の房へ様子を窺いに出向いた。

「どうした、今日だけアーベントに出ないとは具合でも悪くなったのか」

 布団の上で膝を抱えている暗い影に話し掛ければ老人の鼻息が小さく鳴った。

「先生にしては随分遠回しな嫌味ですね。私は開始決定が妬ましくて出席を見合わせたのではありません」

「では何故だ。同じ境遇のお前ならてっきり喜んでやると思っていたんだが」

「残念ながらそんな楽天的な感情など持てませんよ」と坂巻は天井に首を向けた。

「誰もが再審の、真の怖さを判っていない。私は八回請求して全部棄却されています。比べてヨナさんはたった三度」

「おい、坂巻らしくないな。再審は回数の問題じゃないだろう。焦点は証拠の新規性にある」

 直樹の反論に坂巻も一旦認めたが、最後には否定した。

「その通りです。確かに警察の職権乱用を訴える上申書と心情の手紙を福井地裁に毎月送っていたヨナさんの不断の努力と、証人の発見が裁判長に再審開始を決定させたのは道理です。しかし、最近の司法がすんなり再審の門を開くでしょうか」

「妨害が入るというのか」

 そうすると坂巻は、金曜日に笑う者はHe who laughs on Friday日曜日に泣くwill weep on Sunday、と英語を口にした。

「ヨナさんの悲嘆を予想する私が会議に出席したら皆の明るさを消してしまいますからね。法務省のお偉方や世の識者の中には非常救済手続きである再審があるから司法は民主的だと仰る方もみえますが、余りにも無知です。針の穴を通るより難しいと喩えられるように再審開始の壁は高く厚い。現代の再審は命綱でも誤判の回復装置でもないのです。どれ程多くの冤罪死刑囚がすがったわらを断ち切られ、聳え立つ障壁の前で嘆き悲しんだでしょう。クラウド・ナイン最年長者の私は誰よりもその血涙を知っています」

 亀山事件からはや四十三年、その月日がどれだけの浪費か直樹の胸には重みであった。

 死刑廃止には仮釈放のない絶対的終身刑を代替案とする他、三十年という懲役の限定を唱える者もおり、その存念は刑法第三十二条にある「死刑における刑の時効は三十年」とする根拠から来ている。

 現在の無期懲役の判決では、長く懲役に服していてもいずれ仮釈放で戻ってくる。

 国民はその者がどれだけ老化しようが、かつて世を混乱させた有害な虎が野に放たれれば枕を高くして眠れないし、出所受刑者の四割が五年以内に再び受刑している再犯のデータがある。いくら法務省が出所後の更正施設を提案しても更正そのものが確実に信頼出来る訳ではない。仮釈放になるのは模範囚であるものの、それも仮釈放を目的とする演技だと疑う。善人に化けて一般社会に出たらまた同じ罪を犯すのではないかとの不安が消えない。だから死刑を望む声の一つとなる。

 絶対的終身刑は恐怖を軽減するが、残酷だと哀れむ者が三十年の期限を掲げている。

 坂巻から離れた直樹は何気なくふらりと野呂の房へ立ち寄った。

 相変わらずもう一人の年寄りは無関心のまま壁と向かい合っていた。

 いつもの垢染みたスウェットシャツに小豆色のカーディガンを羽織り、背を丸めた野呂とだけは一言も喋っていない。

 直樹に恐怖しているのではないし、今更会話能力の有無も問わない。

 一般に死刑囚は世間と没交渉の毎日であり、政治経済には全く興味を持たないといわれるが、融通の利く坂巻は持ち前の臨機応変さで時代の変化に即応していった。それに比べ野呂は新聞も読まなければラジオも聴かず、時間に従い飯を食いただ眠る。足が不自由なため風呂に入るには掃夫の手が要った。運動は無理だから屋上にも出ない。

 遙か昔に控訴せず刑死を待つだけの生きた屍。野呂こそ、特別処遇が施される前の死刑囚の標本であった。

「俺は朝倉さんとこの近くで会った」

 僅かな返答を期待し、直樹はゆっくり語り掛けた。

 その途端、一度も向けられなかった野呂の皺顔が少しずつ回され、力尽くで開いた薄目には微かな光が映った。

「──瑤子、さんと? いつ」

 初めて聞いた老人の声は嗄れていたが、今までの精気のない野呂とは思えない程明確に直樹の耳へ届いた。

「去年のクリスマス前だ」

「元気、でしたか。何をしてましたか」

「お前と同じ質問をしていた。今は──会長だ。死刑の廃止を訴えている団体の」

 直樹は途中で口籠もった。瑤子は憎しみ故に生き延びろと願っていたからである。

 案の定、野呂は理解に苦しみ、「何故」と訊いてきた。ここで真実を暴露すれば心は乱れてしまうかもしれないが、口にした以上もはや真意を言い換えてでも答えるしかなかった。

「どうも未だお前に死んで欲しくないらしい。助命嘆願しているならな」

「それは、違います──恨み言です。苦しみ続けろとの。あの人は今も私を憎悪している。なのにどうしてこんな年になってまで生かされているんでしょう。私は大勢を殺害した卑しい畜生です。お願いです、もういい加減一思いに首を括って下さい」

 野呂は老躯を腕で這わせながら扉まで近寄ると頭を下げた。

 直樹は驚きの息を止めた。他の住人が解放を夢見て再審活動をしている最中、唯一自分の犯した罪を悔い、地下行きを待ち望んでいたとは全く思いも掛けなかった。

「いいや、そんな結論には賛成しない。おいそれと死に急ぐもんじゃないよ」

 やっと言葉にしつつ直樹は妙な自家撞着ジレンマに陥った。七十二の高齢だからか、処刑の懇願に混乱しているだけなのか。思考を整理しようにも何故か執行を肯定出来なかった。野呂が命を奪った被害者の半分は七歳にも満たない、罪無い幼子達である。死刑に躊躇う必要も無いはずである。

(俺は深みにはまっている。担当が狂う原因は、もしかして月曜会議でなくこの階そのものじゃないのか)

 直樹はあらゆる感情を剥ぎ取ってしまうクラウド・ナインの得体の知れない空気に怖気立ち、死刑存置を堅持していた前任達が潰れた実情を今になってじわりと肌で感じた。


 それから三週間が経過した二月二十七日、直樹は手足かじかむ九階専用待機室で、軽い昼食を済ませ、身分帳と共に保管してある接見表に目を通していた。

 石動再審開始決定を受けクラウド・ナイン関係者は、雪の降り積もる悪天候にも拘わらず積極的に動き出した。弁護士達は自分の依頼者と面会や通信を増やし、住人も上告や再審請求に多忙を極めたため、多少エアコンの調子が悪くとも廊下の電気ストーブで乗り切っていた。

 そんな中、再審とは無縁の人間が面会に訪れた。

 扶桑會の大親分、幸三である。

 直樹は面会の立ち会いを免除されていたのでこうして書類の文字を追い、透明なアクリル板で二分された面会室の模様を頭の中で再現していた。

 竹之内幸三は川口組会系暴力団扶桑會の二代目である。幸三は絹代という正妻の他、坂木優子と香坂晴美の妾を二人囲っていた。ところが絹代は子供が産めず、幸三は晴美の長男である克彦を認知し三代目として育てた。しかし、絹代は妾の子だと嫌い克彦を後継と認めなかった。

 頑なな妻に困った幸三であったがやがて難問は解決した。絹代の連れてきた少年に一度で惚れ込んでしまったのである。

 その少年こそが嘉樹であった。嘉樹は正式な嫡男となり、成人するにつれ商才を開花させ、組資金の基盤を支える『グリーンライム』初代社長に就任した。

 生来、人間関係を上手く束ねる能力に秀でた嘉樹は、組事務所で燻っていた才ある若者を引っ張り込み、瞬く間に営業圏を拡大していった。また数ヶ国語をもマスターしており貿易事業も展開、間も無く、投機の成功も絡んで右肩上がりに成長した会社は莫大な富を産み、扶桑會を東海で一、二を争う大組織へ変貌させた。

 最近では大物政治家との癒着ですっかり紙面を賑わせた幸三だが、五年前は己の養子が殺人事件で逮捕され、格闘家のような大柄な和服姿をテレビに写していた。その幸三も、目立つ存在の為か、もしくは拘置所を嫌悪しているのか逮捕当時は足繁く通っていたけれど最近は金の振り込みや差し入れの手配は部下に任せ、自分は月に一度顔を出せば良い方になっていた。

 それでも幸三は死刑囚である嘉樹を離縁しなかった。

「なあ、嘉樹。まあええがや。そろそろ底を割ってくれ。橋爪を西向かして(殺して)まったのは克彦なんやろう。おめえがあんな二百万ぽっちの金や宝石なんぞくすねるいわれはあらせん。井崎顧問弁護士せんせいは非常上告でどうぞこうぞ再審に持ってけるって言っとるに」

 面会では規律及び秩序を害するおそれが無いよう事件に触れぬよう予め職員から注意を受けていたが、幸三は堂々と切り出した。

 念のため増員された二人の立ち会い看守は声を高くして「面会人、止めなさい」と叱り付けた。しかし、幸三が沈黙したままでいる訳がない。

「牢番の三下は黙ってろ。ガタガタぬかしやがると三河湾に沈めたるぞ」

 看守達は凄味の利いた怒鳴り声に一瞬肝を冷やしたが、相手はアクリル板の向こうで手が出せない。また、規則違反者には面会即時打ち切りの厳罰が待っている。

 二人の職員は退室させようと嘉樹を両脇から掴んだが、嘉樹はスルリとその手を容易にすり抜けた。

「親父さん、そんな乱暴な口はいけません。この方々は立派な国家公務員です」

 幸三は微笑されて戸惑った。嘉樹は「もう少しだけ」と係に頭を下げ面談を続けた。

「代を継いだのは克彦さんです。御自身の血を分けた実子を信じずにどうします」

「けど、前のムショ暮らしも本当は──」

「三代目は今回何も関与していません。誓って真実です」

「なら八木かいや。あいつはクーデター騒ぎでおめえを憎んでいた一番の男だでな。おめえがいなくなるとさいが筆頭若衆の立場は安泰。ほいで誰かと組んで罪を着せたんやろ」

「いいえ、八木こそ全く有り得ません。彼は任侠にあつい男です。私は民間のくせに国で保護されている銀行ってのが大嫌いでしてね。だから実父も橋爪も腹癒せに殺したんです」

「ほうやけどな」

「会社運営のノウハウは平岡に叩き込んでおきました。平岡なら才覚もあるし、私がいなくなっても充分にまかないがつきます。後、私の絶縁状あかじは配って頂けましたか」

「戯けた事を。おめえは扶桑會の幹部だけでねえ、わしの嫡子だがや」

「ならば親子の縁も切って下さい。この前、三代目が親父さんの筆跡を真似て送ってきた信書では本部の介入を漏らしていました。戸籍が繋がっていては代紋を汚したと最終的なお咎めがあるのは必至です。これ以上のご温情は組の顔にかかわります」

「放っとけ。親子関係を本部にあれこれ指示される事はあらせん。それと、おめえの刑が確定してから絹代がでら塞ぎ込んじまってよ。あいつは今も嘉樹がお気に入りだで」

「姐さんにまで御心配をお掛けして誠に申し訳ございません。ところで祥子はあの条件で離婚に同意するでしょうか」

「ああ、おめえの言う通り、店の一軒とマンションをあてがったら決着は付きそうや。金の切れ目が縁の切れ目とは情の薄い女だわ。どうせ一度も面会には来てせんやろ」

「良き夫ではありませんでしたから。それより今度お見えになる際は税理士と共に相続の書類をお持ち下さい。私の財産は残らず親父さんに譲渡致します。後、姐さんには、一日でも早く克彦さんを正式な養子へ迎えるようお伝え下さい。これが私の遺言です」

「嘉樹──」

「あ、いや、たった一つ、用宗もちむねの別荘だけは私名義のまま親父さんが預かって頂けませんか」

「用宗といえば静岡のか。別に構わせんが、何でや」

「あそこは風光明媚で気に入っているんです。死んだら骨はあの海に撒いて下さい。そうすればのんびり静養出来ますから」

 嘉樹は今回初めて『遺言』の言葉を使った。罪は肯定していたがなかなか覚悟の念は出なかった。これは心情安定を示す貴重な証拠となる。

 直樹は「馬鹿が」と呟き、書類を閉じた。


「先生の奥さんはもう四ヶ月目でしたか」

 有沢が昼食後の皿下げに同行していた直樹へ訊いてきた。鮫島の五番目の娘が出産したのと同時に瑞樹妊娠の噂は住人のみならず掃夫にまで伝わっていた。

「少し下腹が張ってきた。悪阻つわりが酷くて大変だ」

「でも出産は女だけの特権です。子供を案じる気持ちが男親より強いのは分娩の苦しみを乗り越えてきたからなんでしょうね」

「正しく女性は偉大だと思う。ところが、その産みの母親を粗末にする奴もいる」

 直樹は嘉樹の房を疎ましく通り過ぎた。

「そういえば有沢、最近野呂はどうだ。変わってないか」

「際立って別に──いえ、待って下さい。そうですね、食事を残さなくなりました。ああ、回覧の新聞も希望するようになりました。確かに違います。本当にどうしたんでしょう」

「うん、悪い傾向じゃない。釘が利いたかな」

 執行を諦め、懸命に生きようと考え直したのだろう。あの初めて会話を交えた日の翌月曜、珍しくアーベントに出席した野呂は会議そこのけで嘉樹とひそひそ話し込んでおり、何の内容かは知らないが閉会する頃には消え入りそうであった顔に生気が蘇った気がした。

 嘉樹は住人達に説いたのと同じく「諦めるな」と諭したのかもしれない。どちらにせよ、上の空で死人の暮らしをされるよりは精神衛生上良かった。

「おや、また間宮さんはおかずを食べていませんね」

 有沢は手付かずで丸々残ったロースカツを回収容器へ放り込んだ。

 間宮は人食嗜好を覚えてから獣肉は受け付けない極端な偏食家になっていた。直樹は房扉を爪先で二回軽く蹴った。

「間宮。少しくらい箸を付けろ。豚肉はビタミンBが豊富なんだぞ」

「魚以外は要らない。大体、医大生だった僕に栄養学の講釈をしないでよ」

「ならば五等食に戻すぞ。いいのか」

「いいよ。じゃあ、代わりに弁当を頼むから」

 間宮はひょいと視察孔から顔を覗かせ不気味に舌なめずりした。

「聞いたよ、奥さん四ヶ月なんだってね。胎児ってどんな味がするんだろう」

 ぞぞっと全身に鳥肌が立った。瑞樹の腹を切り裂き、中の赤子を血塗れに喰らう口を想像した直樹は掌を視察孔に叩き付けた。

「下らん冗談は止めろ。お前の股間にぶら下がってる物ちょん切って野良犬にでも喰わすぞ」

「うひゃあ、それは勘弁」

 性的機能を喪失するのは思い至らないのか、瞬く間に間宮は顔を蒼白にさせ布団を被った。直樹は、少しは喰われ死んだ人間の気持ちを味わってみろ、と胴震いする身勝手さに死刑存置の決意を再び硬くした。


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