紅蓮の教誨師 Ⅴ


 二〇〇四年、一月三十日。小雪が舞い散る中、岩巣山麓に広がる鳥原町がフロントガラス越しに見えると、直樹はベツレヘム病院の案内標識に従い慎重にハンドルを握った。

 今日は輪を掛けて風向きが悪かった。

 といっても俄に到来した雪雲でなく、朝の瑞樹は妙に荒れていた。

 嘉樹に関しての口論はもはや日常となっていたが、体調の乱れも多く、何かにつけ直ぐ横になり、食欲もないせいか昼も満足に食べていない様子であった。

 直樹はそれとなく検診を勧めておいたが心配の種は尽きなかった。飛び飛びで正月休みが取れたとはいえ、行刑施設は管理しているのが人間であり、長期休暇が期待出来ないため暮れは義父が瑞樹を受け取りにやってきた。

 渥美へ帰る時の瑞樹は晴れやかであった。だが、一週間後、白壁に戻ってきて間もなくまた塞いだ顔になった。特に官舎脇から西にそびえ建つ拘置所を時折恨めしげに見上げている姿を見掛けると直樹はのし掛かられたように心が重くなった。

「おっと、あそこだな」

 運転に集中し直せば、ワイパーが振り払う結晶の向こうに薄緑色の建物が姿を現した。

 五階建ての屋上には「ベツレヘム病院」の電光看板がうっすら光っており、直樹は駐車場に車を停めるとダッフルコートを羽織って外に出た。

 森林に辺りを包まれた病院は小さな外観の割に広い敷地内に建てられていた。

 背後に座する、微かに雪化粧を施した岩巣山より注ぎ落ちる小川のせせらぎが耳に心地よく、前庭には松や梅、桜がまばらに植えられ、ベンチには傘を差した老人がチワワと楽しげに戯れている。

 直樹は緩やかな手り付きスロープを登り、ゆっくり開いた自動扉から窓口を探した。

 ところがその時、回していた首がぎょっと止まった。

 何と患者とおぼしき六人の老人が窓辺で堂々と升酒を酌み交わしていたのである。

「あの、どなたかお探しですか」

 ここで更なる狼狽が付け加えられた。受付入口から声を掛けてきた小柄な女性に向くなり直樹の目は釘付けになった。青緑色のアンサンブルニットに黒のペグトップパンツを穿いた彼女は紛れもなく名私大病院の移植コーディネーターであった。

「佐和子さん!」

「あら、妹をご存知なんですか」

 彼女は目をみはっていたが、やがて「私は姉です」と笑顔を向けた。容貌、背格好から服装の趣味まで何から何まで同一である。佐和子の髪型が外撥ねのフレンチカールであるのに対し、姉は内巻きのエンドムーブなのが唯一の相違であった。

「お話は麻生先生から伺っております。私は吉住真宥子まゆこと申します」

 直樹が名乗ると真宥子は礼儀正しく頭を下げ、写真付名刺を手渡した。

「申し訳ございませんが植松は只今所用で外出しております。ご案内はホスピス・コーディネーターである私が承っておりますので先ずは中でお掛け下さい」

 ライトグリーンを基調にしたロビーのソファーへ導かれた直樹は程良く暖房の効いている広間でコートを脱ぎ、真宥子の差し向かいに座った。

 そして妙子が名私大で世話になっている手前もあり、直樹は佐和子の熱心な仕事振りや患者への思い遣りなどを一番に話した。真宥子は喜んで聞いていた。

 直樹は再度真宥子から渡された名刺を再び眺めて姉妹を比較した。

「しかし、吉住さんもコーディネーターですか。姉妹揃って職種も瓜二つなんですね」

「あ、出来れば私も名前で呼んで下さい。佐和子をご存知ならば私も同じ苗字で紛らわしくなりますので」と真宥子は笑んでから答えた。

「一卵性ですから、やはり生き方も似るんでしょう」

「双子?」

「はい。だから私の腎臓をあげたんです。世界中探してもこれほど安全なドナーはいないですからね。その代わり私が悪くなったら今度は頂戴っていつもつついてます。海外で一緒に学べたのも佐和子のお陰です。双子はいいですよ。考えや悩みは大抵察しますから」

「──そんなものですか。行き違いもあると思うのですが」

 双子の関係が全て良好だと思うのは世間の誤解である。直樹は自分達と比べて、咄嗟に目を伏せた。真宥子は確かにと肯定して答えた。

「行き違いというより、似すぎていて異性の好みまで一緒になる癖はありました。高校の時は喧嘩にまでなって大変でした。でも結局、最後はお互い身を引き仲直りしましたけど」

「よく諦めがつきましたね」

 不思議な眼差しで直樹は真宥子を正視した。真宥子も不思議そうに見返した。

「当然です。恋人なんて別れてしまえば所詮赤の他人ですけど、佐和子は永遠の妹ですもの。あの子が幸せになってくれれば私も嬉しい。佐和子も同じ気持ちで私の幸福を願ってくれています。それは双子ならではの特性かもしれません」

「羨ましい」

「え?」

「あ、いや、それより、あれは」

 直樹は窓際の酒盛りグループに目を向けた。

「ああ、あの方々は酒仙会の皆さんですよ。週三回ラウンジで格安バーを開いているんです。今日はとても珍しい天気ですから雪見酒と洒落込んでいらっしゃるんでしょうね」

「バーとは、ホスピスといえどもここは病院でしょう。そんな無茶が許されるんですか」

「あら、当院では喫茶室もカラオケルームも完備していますよ。マッサージ室も大浴場もありますし、そんな希有な光景ではありません」

「いや、私が言いたいのは末期癌患者にアルコールなんて」

「直樹さん、この施設は苦しみに悶える癌病棟とは違います」

 親しげに直樹を名前で呼んだ真宥子は微笑を保ったまま、「場所を変えましょう」と幅広エレベーターに乗り、三階の応接室へ入ってソファーの着座を勧めた。

「ホスピスはラテン語で『温かいもてなし』を意味します。ですから私達はその精神に則り可能な限りの奉仕をさせて頂いています」

 煎茶と共に病院のパンフレットが差し出されると、直樹は手に取って捲った。

 百床あるベッドは三分の二が特別個室、各部屋には電動リクライニングベッド、専用車椅子、チェスト、電動リクライニングチェアー、冷暖房、冷凍冷蔵庫、テーブルセット、入浴場、洗浄機付洋式トイレ、加湿器、電話、テレビ、オーディオが常備され、三階には宿泊室も備わり、しつけられたペットであれば一緒に室内で過ごせる等、まるで高級ホテルのスイートであった。

 お茶を一飲みすると直樹は充分な医師やナースの数に目を通しながら残った疑問をぶつけた。

「パンフには載っていませんが、この病院での治療方針はどうなっているんですか」

「──治療、ですか」

 真宥子は一瞬躊躇ったが、柔和な顔で言明した。

「一般病院では疼痛とうつう(うずくような痛み)緩和も癌治療の一環として使用されますが、ホスピスにおいては、いわゆる抗癌剤を用いた治療は一切致しません。ご希望により輸血や点滴は行いますが主な手段はロキソニンやリン酸コデイン、モルヒネによる痛みの緩和です。ここはクオリティー・オブ・ライフ(人生の質)を高める為の施設で、延命行為は却って生命の尊厳を阻害します」

 直樹の顔は即座にかげった。どれだけ美しくカモフラージュされていてもやはりこの建物は安楽死を誘う収容所なのである。

 一方、真宥子は直樹に失望を見て取り、静かに話を続けた。

「例えば、貴方の余命は三ヶ月です、と突然宣告されたら直樹さんはその時間をどうお使いになられますか。最期まで癌と闘うのも一つの決断ですが、痛みを取り、残りの人生を悔いのないよう過ごすのもまた選択肢の一つです。消えゆく生命は儚いけれど充実して生きた人生は光り輝くものです。ホスピスは決して入院を強要しません。ご本人の意志で入って頂きます。故に予め知りたいと願う患者さんへは病名や症状を隠さない約束をホスピス医は告げます」

「それはつまり癌告知ですか」

「少々異なります。稀に聞きたくない方もお見えになりますから、ご自身がお尋ねになられた時お話し致します。しかし大体の方はホスピスの名称で察しは付けていらっしゃいますので後に患者さんが告知・非告知のトラブルで身をやつされる事はありません」

 不憫さを湛えた顔を真宥子は壁に向けた。目線の先には小型のブロンズ製十字架が掛かっていた。

「どなたでも人生の終末は穏やかに締め括りたいと願うのではないでしょうか。死期を知らないまま苦しみの内に亡くなるのは余りにも残酷です」

 直樹は荒々しく傷口へ塩を擦り込められた気がした。妙子の事情を交えているのだろうが、背後で執行を当日まで知らされない九階住人達が透けて見えた。

 だが、あんな自分勝手な連中に苦しみなどあるものか、と思いを瞬時に打ち消した。

「では、そろそろ施設の中をご案内致しましょう」

 真宥子は応接室を出ると五階の病棟から回り始めた。

 成程、パンフレットには虚飾も無く、換気に開けられた扉の僅かな隙間からは大家族がベッドを取り囲み雑談に興じたり、ボランティアが一緒に碁や将棋を指し、抹茶を点てているのが判る。

 また、廊下に良い香りが漂うと真宥子が早速教えてくれた。

「これは白檀びゃくだんです。アロマか香道の先生がいてらっしゃるんですね」

「はあ、有りとあらゆる関係者が出入りしているんですね」

「ホスピスは御家族とボランティアの御協力無くしては成り立ちません。この空間は善意の集合体です。ある種、天国に一番近い施設なのかもしれません」

「そうは仰っても使用する薬がモルヒネとは禁断症状で苦しむ方もお見えでしょう。あれはアヘンアルカロイド系の麻薬ですから」

 直樹は任務上多くの覚醒剤・麻薬中毒患者と接してきた。麻薬禍に巻き込まれる無知な少年少女は特に悲惨であるが、そんな杞憂を余所に真宥子は口に手を当てて笑い始めた。

「随分と誤解なされてますね。ホスピスは世界保健機関が打ち立てた方式で疼痛緩和を施しています。モルヒネは確かにアヘンを精製した麻薬ですが、専門医の指導下で服用して頂ければ依存症が生じる危険はありません。重要視されるのは便秘や吐き気といった副作用です。でもそれは下剤や制吐薬の併用で解消されますし、ホスピスにとってのモルヒネは食欲の無かった患者さんが元気に召し上がったり、好きなお酒をたしなめるような日常生活を取り戻す事にあります」

 一階のロビーに差し掛かって真宥子は依然雪見酒に興じる患者達を打ち見た。

「残った人生を好きに生きるのはその人の権利です。自分の死後の家族や仕事の心配等、いわゆる『社会的苦痛ソーシャル・ペイン』に苦しむケースもあります。そのため、やり残した事業を指示する社長さんや、お子さんの養育について御主人と計画を立てるお母さんなどもお見えになります。ホスピスは消極的な死を迎える場所ではありません。心置きなく旅立つ前の積極的な準備期間を作る聖域なのです。例えば、ほら、こうすると天国へ誘う音色が聞こえてきませんか」

 真宥子は右耳に手を当てた。

「──この旋律は『アヴェ・マリア』」

 直樹は何処かの部屋から微かに漏れ聞こえてきたバイオリンの音源に耳を澄ました。最初はただのBGMに感じたが、間違いなくグノーの名曲を生で演奏しているようである。

 真宥子は廊下の壁に表示してある案内板を指さした。

「実はこの西に礼拝堂チャペルが建っていて、その集音マイクから各病室へスピーカー接続してあるんです。ベッドから起き上がれない患者さんが説教や音楽を聴けるように。今は精神的助言パストラルケアの時間ですのでチャプレンがお弾きになっているんでしょう」

「チャプレン?」

「宗教主任、ホスピス付の神父や僧侶の方々です。多くの患者さんは宗教にも救いを求めますから。この曲は神父様が演奏していらっしゃいます」

「神父がバイオリンを奏でるのですか。粋ですね」

「いいえ、これはバイオリンではありません。ビオラでもチェロでもありませんけれど」

「いや、そんなはずはないでしょう。どう聞いてもこの音は弦楽器の類です」

「ではチャペルへ参りましょう。百聞は一見にしかずです」

 真宥子は静かな手招きで礼拝堂へ誘った。

 チャペルはラウンジから二十メートルの長い廊下の先にあり、木製引き違い戸を除けば荘厳なカテドラルを本格的に真似ていた。

 直樹は床に埋められた誘導光に従い、教会独特の長椅子に腰を下ろした。

 多数の患者が聞き惚れている室内は遮光カーテンが引かれ、間接照明だけが正面のマリア像をやんわり照らしていた。そのため、緑っぽいストラを白いアルバの上から垂らしている演奏者の顔は遠目でいて、また俯いているため確認出来なかったが、弾いているのが電子鍵盤楽器エレクトリック キーボードであるのは一目瞭然であった。

 鍵盤楽器はもちろん、管楽器、打楽器、弦楽器を網羅するキーボードは音の組み合わせが何百通りとプログラムされており、バイオリンの音も簡単に組み込める。

 それでも腕が悪ければ台無しになる。クラシックにうるさい直樹の耳には彼が熟練した奏者だと告げていた。神父はプロ顔負けの腕前で『ペール・ギュント』から『月光』、『メヌエット』、『白鳥の湖』、『家路』に至るまで世界に名だたる名曲を暗譜で弾きこなしていた。

 そして直樹達が入場してから三十分が経過し、神父はラストの『夜想曲第二番』を弾き終えた。その途端咳一つ無い会堂からは一斉に大きな拍手が湧いた。

 直樹も同じく力強い拍手を送った。

「直樹さん、よろしければ神父様を御紹介致しましょうか。今日は演奏会でしたが、いつものバイブルアワーでは素晴らしい説教をして下さるんですよ」

 真宥子は壇上で患者に群がられる神父に腕を向けた。

 信仰は別としてこれほど見事なキーボーディストならば是非とも会ってみたかった。

 直樹達は、上部のカーテンが開かれ、入口の扉に向かって帰っていく患者と反対に、逆光に立つ神父へ近付いていった。

 と、その時、

「神父様、私は安藤ウメと申します。お話を聞いて下さい」

 突如、杖を突いた老婆が両掌を固く握り絨毯に膝を折った。

 立ち止まった直樹と真宥子に構わず、震える体でウメは聖職者へ顔を上げた。

「告白ですか、お悩みですか」

 神父は穏やかに訊いた。

「悩みです。どうかお教え下さい。私は戦後の生活に追われ生きるので精一杯でした。他の方みたいに世間へご奉仕をした訳でもありません。こんな平々凡々に生きてきた私でも天国へ行けるのでしょうか。善が足りぬと煉獄れんごくで火の責め苦にあうのではありませんか」

霊的痛みスピリチュアル・ペイン──」

 真宥子は真顔で微言した。死期の迫った人間が死後を案ずるのは現実社会の問題だけではなく、あの世へ向かう自分が神仏からどう扱われるか、ウメのように己の人生が酔生夢死すいせいむしでなかったか、或いはそれが善であったか悪であったかにさいなまされる人間も少なくなく、「霊的痛み」と呼称されるその現象は非科学的でありながらも、後悔の念が精神的にも、また肉体的にも苦痛を与えていた。

 神父はひざまずく老女の白髪に手を差し伸べた。

「安藤さん、お子さんはお見えですか」

「五人あります。息子三人に娘二人です」

「お孫さんは」

「かれこれ十五人です。曾孫も入れると全員で十七人です」

「ならば大した奉仕ではありませんか」

 次いで神父はキーボードに置いていた聖書を取るとウメの目の前に下げた。

「安藤さん、貴女は葡萄の実です。熟した果実はやがて地に落ちますが、その種は新たな命を紡いでいく。貴女のお陰で二十二人の子孫が世界に誕生した。そんな大変な数を育んできた貴女は女性として最大の事業を成し遂げたのです。煉獄など以ての外。胸を張って天国の扉を押し開けばよろしいのです。イエズス様もマリア様も大いに祝福して下さるでしょう」

「あ、ありがとう、ございます。ありがとうございます」

 礼を述べながらウメは多量の涙を流した。真宥子もハンカチで目尻を押さえていた。

 ただ、直樹一人だけが聞き覚えのある声に一驚し、老婆の涙を拭き取る神父へ声を掛けた。

「ジョゼフ先生──」

「おや、直樹さん」


「ホスピスで直樹さんにお会いするとは意外でした」

 夕闇が近付いていた頃、直樹は中区丸の内を東西に走る外堀通りと桜通大津の中間に位置するインマヌエル教会の会衆席に座り、私服に着替えたジョゼフと語らっていた。

「私の台詞ですよ。まさか行刑の教誨師チャプレンがホスピスの病院勤務の神父チャプレンまで務めているとは」

 小型の天主堂は門灯が出入口に一本点いているだけで、キリスト像を微かに照らす説教壇の小さな間接照明の他は薄闇に包まれていた。メシアの苦悶に満ちた人生を表したステンドグラスの向こう側には、残照が雪の止んだ寒空を映し、蛍光灯以外の光といえば祭壇の左側に点灯する常夜灯のみで、赤光に照らされた七角形の聖櫃せいひつが妖しく浮かび上がり、半円形の天上に繋がる壁へ淡い影を投げかけていた。

 ジョゼフは薬缶やかんを乗せた石油ストーブの火力を上げた。

「ホスピスは常勤でなく非常勤の協力チャプレンです。主なのは宗教教誨の方です」

「とはいえ両方とも無給か薄給でしょう。聖職も大変ですね」

「ははは、職と分類されれば教職、もしくは奉仕職なんでしょうが、私はこれを亡き伯父から受け継いだ使命だと自負しています」

「そういえば先生は日本へ帰化なさったんでしたね」

 ジョゼフによれば、ユダヤ人は「ユダヤ人の母親から産まれた者、或いはユダヤ教に改宗した者」を指す。自爆テロで二親を失ったジョゼフは遠縁の、イスラエルでは数少ないカトリック神父であった伯父のアブラムに引き取られ洗礼を受けた。そして布教のためジョゼフを連れ来日したのだが不慮の事故で死亡し、身寄りの無くなったジョゼフはアブラムを支援していた藤倉徹の養子となり日本国籍を取得した。

「ではキリスト教に改宗した時点で先生は狭義でのユダヤ人ではなくなったんですね。イスラエル人であるけれどユダヤ人でない」

「そうです。伯父のアブラムは最初サドカイ派のラビでしたが律法トーラー口伝律法タルムードを捨てカトリックになりました。だから彼は死してもなお侮られ、私もキリスト教に改宗したユダヤ人メシアニック・ジューとなっています」

「ホームシックは感じませんか」

「私が来日したのは十歳です。日本国民となってから三十年以上。ここが私の故郷です。それにイスラエルではバチカンとの約束で布教活動が禁じられています。私には帰る場所もありません。地の塩、世の光を目指す私にとって本当の故郷は天国です。今はむしろ地獄かもしれませんが」

 薬缶が沸騰を始めるとジョゼフはカップ紅茶に熱湯を注ぎ直樹に勧めた。

「その昔、札幌農学校のクラーク博士に教えを受けたキリスト教者の内村鑑三はJESUSジーザス(イエス・キリスト)とJAPANジャパンの二Jに生涯を捧げると誓ったそうですが、私はそこにJAILジェイル(監獄)を足して三つのJに人生を捧げています。私は神父の仮面で何人も地下へ送ってきました。恐らく他の教誨師の方々よりずっと多く執行に関わってきたはずです。私は名古屋拘置所に類同して白く塗った墓、外側は美しく立派だが内側は死と偽善と不法に満ちている」

「何故卑下ひげするんです。大体死刑執行は先生の責任ではありません。むしろ逆に被害者の応報感情を満たしている。貴方は間接的に被害者の魂を救っているんじゃありませんか。それに教誨制度がどうであれ執行は誰かがやらねばならない。これは日本の法律です。イエス様には関係ない。責任を追及するなら法務省が全てを負うべきでしょう」

 ジョゼフは感情の熱が高まる直樹を物柔らかに黙視して、英語で唄を口ずさみ始めた。

 This is the house that jack built.

(これはジャックが建てた家)

 This is the malt that lay in the house that Jack built.

(これはジャックが建てた家にあった麦芽)

 This is the rat, that ate the malt that lay in the house that Jack built.

(これはジャックが建てた家にあった麦芽を食べたねずみ)

「それは積み重ね唄ですか、マザーグースの」

 直樹が英語に堪能だと聞いていたジョゼフは小さく頷いた。

「私は教誨師として死刑に関与する事実を人のせいにはしません。あれは法務大臣の、刑事局長の、矯正局長の、施設所長の、処遇部長の、刑務官の責任だと誰もが次から次へ言い逃れします。でも私は否定しません。死刑廃止団体から死神扱いされても甘んじて非難を受けます」

「ならば先生は死刑に反対なんですか」

「教皇聖下せいか(ローマ教皇)が死刑廃止を訴えておられますから、そのご意志に添うカトリック教徒は私を含め皆大抵そうだと認識しています。特に日本の団体は」

 ストーブの火を調節したジョゼフは祭壇の上に取り付けてある磔刑のキリストに十字を切った。

「私が九階で『クリムゾン』と呼ばれているのはご存知ですか」

「首の後ろにある疵の色が由来になったと」

「違います。これまで私はこの世の誰もが『原罪の子son of the original sin』、または『罪の子son of the crime』であると説いてきました。それがいつの間にかcrimeクライム sonソンへと変わり、やがて繋ぎ合わさりcrimsonクリムゾンになりました。ストラの赤は血の色。私はおびただしい血に染まったこの手で刑場へ誘導しました。教誨とは本来罪人を更正させ世に送り返す仕事です。けれども死刑囚は改心すれば安心立命の境地に入ったと見なされ地下へ送られます。彼らは社会から疎外され余分な肩書きが無くなった分、純粋に神に近付き易いのです。悔い改め無垢に返った人間を殺す。これ程の矛盾があるでしょうか」

 がたがたと窓が震え鳴った。ジョゼフはぎゅっと唇を噛んだ。

「ですから私はホスピスでの信仰の世話フォローアップも務めています。病で苦しむ患者さんの精神的苦痛を取り除くのは私にとって魂の償いです。死刑囚舎房では堕天使ルシフェルに、ホスピスでは聖ミカエルとなり天へ導きます。全く正反対の立場ですがお互い最後に宣告する言葉は同じです」

 問いを投げ掛けるような瞳を直樹は見返した。ジョゼフは徐に立ち上がり、右手の親指で直樹の額に十字を書きながら厳しい顔で告げた。

Mementoメメント moriモリ

「──え?」

 唐突なラテン語に目を見開く直樹へジョセフは言い換えた。

Rememberリメンバー youユー mustマスト  dieダイ(あなたも必ずいつか死ぬ存在である事を忘れないように)」


「消極的な死、積極的な旅路、そしてメメント・モリ、か」

 今日一日でやたら不帰の概念が絡み付いた。

 健康で安全な国民にとって生々しい死に直面する職業は限られている。警察、医師、僧侶、そして拘置所(刑務所)職員である。

 偶然にも直樹は等しく接触があり、官舎に向かいながら人の命について思いを巡らせた。

 仏教は輪廻を説き、キリスト教は復活を口にする。神仏とは哲学の寄せ集めで道念の方便だと信じて止まない直樹は教誨師の教旨をいつも冷静に捉えていた。

 また、富や名誉を崇拝する若者にとって教義は過去の遺物であり、馴染薄い死には興味がない。

 日本の宗教家はこの荒んだ世相を廃頽はいたいしたと嘆くが、その一端が自分達の堕落である事実を知ろうとしない。仏陀ブッダの説いた真理は在家僧によって葬式仏教へと変貌し、キリスト教も結婚式の飾り物化している現実から目を背けている。

 もちろんジョゼフのような敬虔な人間もいる。

 直樹は知らぬ内に神父の深い懐へ引き擦られている己の影に気付いていた。

 終焉へ誘う教誨師、刑場へ導く刑務官、同等の使命に臨む者同士の連係した感情かもしれない。クリムゾンには「深紅」と「血腥い」の両義があり、聖職者に付けられる名ではないのだが、血腥さを自覚している部分に些か反感を覚えつつ、直樹は何処かで共感も芽生えさせていた。

 そしてそうこう思案している内に官舎に着いた。

「すまん、瑞樹。色々あって遅くなった」

 部屋の扉を開けると時計は既に夜の八時を回っていた。

「色々って何」

 台所で洗い物をしている瑞樹は背中を向けたままでいた。

「ホスピスで教誨師の先生と偶然出会って丸の内の教会で話し込んでいたんだ」

「──何て教会なの」

「インマヌエル教会。だから、その、連絡もせず悪かった」

 直樹は何時までも冷ややかな態度を崩さない瑞樹に謝った。それでも瑞樹は未だ機嫌が収まっていないのか、シンクの皿に視線を集めながら淡々と応じた。

「へえ、救世主教会ね」

「本当だぞ」

「疑ってるんじゃないわよ。いいわ、今度結樹と三人で行ってみましょう」

「ユウキ?」

 聞き覚えのない名であった。ひょっとして早稲田時代の親友だろうか、と直樹は顎に手を当てて考え込んだ。すると、ここで漸く瑞樹は向き直った。

「結樹は七ヶ月後に産まれてくる赤ちゃんよ」

 直樹は一瞬何の暗示なのか理解出来なかった。だが、エプロンの腹を指し示す妻の喜色満面に直ぐ事態を察知した。

「赤ちゃんって、まさか──」

「そう、私達の。どうしても気持ち悪さが取れなかったから、検査を受けたら『三ヶ月です』って報告されたわ。吐き気は前触れだったのね」

 瑞樹は棚に隠していたエコー写真を渡した。白黒写真の中心部に小さな人型の膨らみがあった。結婚してから十二年目に差し掛かっていた直樹は思い掛けない授かり物に瑞樹を力一杯抱き締めた。

「よくやった、瑞樹、本当に」

「ち、ちょっと、直。お腹には子供がいるのよ。そんなに強くしたら危ないでしょ」

「あ、ああ」

 直樹は反射的に飛び退き、次いでゆっくりひざまずいて妻の下腹部をさすった。

「渥美のご両親には連絡したか」

「もちろん。二人とも凄く嬉しがってた。やっと孫の顔が拝めるって」

「そうだな。一々口に出す人達じゃなかったけど随分歯痒はがゆかっただろう──お袋も正気ならどれだけ喜んでくれたか」

 直樹の顔は硬化した。行員で常務の父、節度ある温厚な母、最良の妻と可愛い子。その団欒の構図が一人の悪魔によって粉々に破壊されてしまったのである。改めて直樹は嘉樹を地下へ送る決意を強めながら、沸き立った憎悪を気取られないよう元の笑面に戻した。

「で、これからどうする。実家で静養するか」

「ううん、官舎にいる。貴方は仕事とお見舞いを掛け持ちしているのに私だけ家でくつろげないわ。それにいつまでも直を外食させておけないし」

「瑞樹、でもな」

「お願い。私は結樹に、あなたを産むまで頑張ったのよって誇りたいの」

 長年連れ添った夫婦は頑固さも似通ってくる。立ち上がった直樹は程無く諦めた。

「判った。でも辛かったりしたら絶対無理するなよ。しかし命名とは気が早くないか」

「性別は未だ判らないけど直樹と瑞樹の間に産まれる子、樹と樹を結ぶ、結樹。直が帰ってくるまで一生懸命考えたんだけど気に入らない?」

「東結樹か。うん、良い名前だ」

「でしょう。何たって四本椰子になる子なんだから」

 直樹は途端閉口し、片手で額を擦った。

「瑞樹、胎教に悪いからもう蒸し返したくない。一体お前は俺に何を望んでいるんだ」

 すると瑞樹は夫の手を力一杯握って懇願した。

「私は嘉と和解してほしい。ううん、関係の修復が無理でも人並みに接してあげてほしいの。邪慳に当たっているのは想像が付くもの」

「は、俺は未だ奴を殴っても蹴ってもいない。何もしない。それがせめてもの恩情だ」

 怒りを閉じ込めた夫の冷笑に瑞樹は手を離して俯いた。

 直樹は沈痛な面持ちを見取って緩やかに妻の前髪に触れた。

「──九階の担当は誰でも死刑執行には直接関わらない不文律があるらしい」

 はっと瑞樹は面を起こした。

「つまり俺は執行官には選ばれない。病気のお袋がいるし、お前が身重になったと判れば尚以て選任から外される。だから安心して出産に専念すればいい」

「本当に信じていいの」

「ああ」

 直樹はこれで確信を持った。瑞樹はもしや嘉樹を刑場へ連れて行き、直接首を括るのではないかと絶えず胸を痛めていたのである。

「執行は所内においてさえ全て機密保持を強制される。死刑囚とじかに接する正担当には悟られないよう特に内密にするそうだ。当日の執行呼び出しも首席の要務で、囚人が翌日房から消えていたら合図となると副担当は話していたよ」

「じゃあ、嘉とは最後の挨拶も交わせないのね」

「そういう結論になるな。まあ、それで納得してくれ。俺達にはもっと大事な希望が出来た。長かったが、これからがやっと東家の繁栄だ」

 随喜に笑む直樹であったが瑞樹は漠然とした不安を感じ、祈るように下腹へ手を当てた。



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