絵を描く女(ひと)

御手紙 葉

絵を描く女(ひと)

 私は海岸線を歩きながら、彼女のことを考え続けていた。彼女は黒髪が綺麗な若い女性で、私の古くからの友人だったが、最近大学を辞めて、美術大学に入り直したということだった。私はそれに関して、心から賛成の意を伝えたいと思っていた。何故なら、彼女はずっと昔から絵を描き続けていて、その才能は疑いようもなかったからだ。

 彼女は何か話す度にいつも将来の夢と現実を、嘆きながら話していて、普通の社会人に進むのかどうか、悩み続けていた。史学部に通う私は、あまり何も考えずに大学生活を過ごしていたが、趣味である読書と小説執筆を第一に考えるべきだ、と彼女はよく語ったのだった。

「だって、そうじゃないかしら? ぼんやりと過ごしていたって駄目よ、自分にできることを突き詰めてやらないと――時間はどんどん過ぎていくわよ?」

 全くその通り、だった。だが、私には今一つ実感が湧かずに、話半分に聞く程度だったのだけれど。しかし、彼女が一大決心をしたことによって、再び考える機会が訪れたのだった。私には一体、何ができるのだろう? 何がしたいのだろう? そんなことを考えていると、今まで気付かなかった選択肢が、自分の前に次々と現れてきたような気がした。

 海岸線はゆるやかに弧を描くようでもあり、水がとても澄んでいた。気持ちの良い青空が広がって、私はただひたすら、思考の深くへと沈んだ。そうして物思いに耽りながら、歩き続けていたが、ふと喉が渇いたことに気付いた。

 駐車場の近くへと戻ってきていたので、私はそこから切り上げることを決めて、砂浜を道路へと向かって歩き出した。あまり人は混んでいなかったが、レジャーシートを広げて寛ぐ人など、なかなか活気があったのだ。

 食堂に行くと、数台の自販機が並んでいる、その店先が目に付いた。私はそこでコーラを買って飲みながら、食堂のテラスで数人の若者が談笑しており、カレーライスを食べている様子をぼんやりと眺めた。

 心から、その時間を満喫しているようだった。私はどうなのだろう? 毎日を何となく生きて、目標もなく、無為に過ごしていないだろうか?

 できることを、精一杯やること……彼女にそう言われたからそうしようと思ったのではなく、ただ私は本を読んで小説を書くことが好きだったので、それを一番にやろうと思ったのだ。

 マウンテンバイクへと跨ると、海岸を後にした。物語の構想が大きな歯車のように回り続けていたが、何が書きたいだろう? と考えていると、彼女の姿がふと浮かんできた。美大に通う一人の女性について書いたら面白いかもしれない。そう思うと、私は自然と口元が綻び、どこか口笛を吹いてしまうのだった。


 *


 次の休日に喫茶店のテラスで落ち合った、私と彼女は老舗の看板メニューである、ホットケーキを食べながらたわいのない会話を続けた。絵を本格的に描き始めて、とても毎日が充実していること。小説を熱心に書いて、膨大な原稿を大量生産していること。そんなことを報告し合っていると、彼女がふとテーブルの一点を見つめながら、どこか固い表情で言ったのだった。

「あのさ……少し、考えたんだけど」

「何かな?」

「今度一緒に、美術館巡りでもどうかな? いつも喫茶店で話すだけじゃ、つまらないでしょう?」

 そっと私を見遣った彼女は少しだけ引き攣った笑みを浮かべて、そう言った。言いにくいことを話し出す時に、彼女が顔を引き攣らせることを私はよく知っていた。どうしたんだろう、と思いながらも、私はそのままうなずいて了承した。

「いいな、それも……だけどそれじゃ、まるで、デートみたいだな」

 私がそう言った瞬間に彼女がぷっと噴き出して、私の脛を蹴り飛ばした。痛みが足元を突き抜けて、私は情けない声を上げながら、彼女を怖々と見つめ返した。

「私があなたに気がないのは、何年も前から、知ってることでしょう? ただ最近は話すだけだから、久しぶりにどこかへ出掛けたいって思ったのよ。ただ、それだけよ……変な勘違い、しないでね」

 彼女はそう言って、嬉しそうに微笑みながら、ブレンドコーヒーに口を付けた。私は何故彼女がそんな顔をするのか、全く理解できなかったが、久しぶりに彼女と美術館を回れると思うと、それはそれで嬉しかったのだ。

 その時の彼女はとても上機嫌で、私の分の飲食代を出してくれたのだ。女性に奢られるのは気が引けたが、彼女については当てはまらなかった。彼女は私にとって、それだけ心を許す親友だったのだ。


 そうして私は体の右半分が切り離されることになる。彼女が一週間後、事故で亡くなったからだ。


 *


 私が体の右半分、と表現していたのは、彼女がいつも利き腕のように、私を引っ張ってくれたからだ。彼女は広大な海原を航海する上で、大きな灯台となってくれた。彼女を失った今、――私にはどうしたらいいか、全くわからない。

 葬儀が終わり、すぐに月日は流れていき、私は大学三年生になった。それでも私は、彼女についての小説を書き続けている。棺桶に一緒に入れてやることさえ、しなかった。私にとってその作品は、自分の執筆の中核となるものだったのだ。

 文字数は百八十万文字に達していた。何故物語を終えることなく長引かせているのか、私にも理解はできていなかった。彼女との約束である気がしたのだ。パソコンに向かってタイプし続けることは憂鬱で哀しい作業ではなく、むしろ清々しい気持ちになれるような、どこか満ち足りたものだったのだ。

 彼女が書くことを楽しいと思わせてくれたのだ。だから私は、彼女からの最後のプレゼントだと思って、一生懸命に文字を綴ることだろう。それがいつか本となって、未来へと羽ばたくことを、私は心から願っているのだ。

 ここに、その作品を掲載しよう、と思う。この記事を読んでいる貴方はきっと、私の想いを汲み取って、昇華させてくれるに違いないと思うからだ。


 絵を描く女(ひと) 葉山周治


 *


 彼女は第一に、絵描きだった。

 ...

 ......

 .........


 (了)


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