第24話 昭和二十年八月二十二日火曜日 丙

 帝都で空を仰ぐ場所に暮らせるのは大金持ちか貧乏人だけだった。

 大金持ちは街塔区の最上階に邸を持つ。彼らの空は澄んでいる。

 貧乏人は塔から外れた第一階層に住み、ボール紙とブリキでできた家に住む。彼らの空は灰と煤で靄がかかっている。

 その日の午後は雨が降った。

 一階の雨はあたると肌がひりつくほどの有毒物質を含んでいるが、街塔区の最上階の雨は普通の雨に過ぎない。あとのものは雨など関係なく街塔区内のトンネル通りで生きていく。

 普通の雨が最も経済的に恵まれたものにのみ許された贅沢品なのだ。それを考えると帝都は物の価値観までが歪んでしまったのかも知れない。

 ゴロンゴロンと遠くで雷が鳴っている。青山の第二十三階層に青いダットサン・クーペが入ってきたのは、午後三時半ごろ。ダットサンのクーペは邸宅街をそのまま以前教えられた住所の玄関まで車を走らせた。洋風の鉄柵がどこまでも続いていく。ようやく見つけた玄関にはインターフォンとボタンがあった。有川が車を降りて、ブザーを鳴らした。

「どちらさまですか?」

「高階雅美さんはご在宅ですか? 有川が会いに来たとお伝えください」

「少々お待ちください」

 有川は無害な雨にあたるという贅沢を楽しみながら頭の中で数を数えた。 一、二、三……七十七、七十八、七十九。

「お待たせしました、有川さま。ただいま門をお開けします」

 鉄製の門がガラガラと開いた。

 ダットサンはそのまま高階邸の車まわしまで走り、そこで止まった。この家は高階婦人のものであり、両親とは住まいを別にしていた。この家はかつて、高階婦人が結婚していたころの邸だった。

 有川と篠宮がやってくるとすぐに女中がやってきた。

「奥様の御部屋までご案内します」

 ピアノで弾かれた賛美歌が聞こえた。

「高階婦人が弾かれているのですか?」

「はい、奥様が弾いておられます」

 唄うもののいない賛美歌が終わるころ、二人は部屋に着いた。

「奥様」女中は言った。「お客さまをお連れしました」

 高階婦人はちょうどピアノから立ち上がるところだった。

「ああ、有川さん」高階婦人は言った。「響子さんは今、バイオリンのお稽古で出かけていて……」

「いえ、いいんです。御用はむしろあなたに関することなんです」

「私に関すること?」

「はい」

 有川は女中がいなくなったことを確認してから篠宮をちらりと見やった。篠宮は小さくうなずいた。

「高階雅美さん」有川は言った。「あなたは昭和二十年八月十五日、神宮寺弘氏を鮫ヶ淵で殺害し、遺体を燃やしましたね」

 高階婦人は目をつむった。午後三時半、無害な雨が窓にぶつかり伝い落ちる。ゴロンゴロンと雷が聞こえる。そして、その音が遠ざかっていくに従って、ゆっくりと瞼が開いていった。そして、

「はい」

 と、ただ一言答えた。


 六月の終りごろのことでした。あの人と愛を交わした後のこと、あの人はいよいよ私と結婚できると言ったのです。私は今すぐにでも結婚したいと言いました。でも、あの人は私の資産と神宮寺の資産が同等のもとで結婚したいと言っていました。

 ここまで言えば、お分かりでしょう。あの人が原子爆弾を売るのは私と結婚したいというただ一つの目的のために行われたのです。原子爆弾を売れれば、高階の資産に匹敵する資産が持てると言うのです。私はあなたが満足なら私は自分の資産を全て放棄しても構わない、あなたの名義にしてもいいと言いました。でも、私が資産を放棄したり名義変えしたくらいでは彼のプライドは満たされるどころか、より激しく傷つくのです。あの人はいいました。絶対にそんなことをしないでくれ。僕は必ず君にふさわしい男になって、求婚するんだ、と。でも、私たちは十分幸せでした。あの人と響子さん、それに私。三人でとても幸福に暮らしていたのです。でも、あの人はどうしても高階の資産に匹敵する資産を独力で築き上げてから結婚したがりました。彼は言いました。新型爆弾はおそらくモスクワとバトンルージュに落とされる。僕も君も誰一人モスクワやバトンルージュに知り合いはいないだろう、と。そういって、あの人は私を抱きかかえ、僕と君、響子の三人で幸せになろうと耳元でささやきました。私は恐ろしさに身もすくむ思いをしました。モスクワやバトンルージュの人々が私の幸せのために死んでいく。私の愛するあの人はそのことが分かっていない、いや分かっていてわざと麻痺させている。そんなあの人を見ていると、私はこの人を止められるのは私しかいないと思うようになりました。でも、あの人の決意は固くなかなか翻意してくれそうにはありませんでした。この話題が持ち上がる度に、あの人は言うのです。これは私と響子のためなのだ、と。もうすぐ全てがうまくいくんだ、と。

 私があの人を殺すことで原子爆弾の開発を止めようと決心したのは、昭和二十年八月十五日、まさにあの日の朝でした。あの日、私は夢を見ました。地上のあらゆるものが炎と熱によって薙ぎ倒されました。何万もの人々が火傷で爛れた皮膚をボトボトと垂らしながら、黒く焼け焦げた街の中で苦痛のうめき声をあげ、救いを求めて歩いていました。彼らは目が見えていませんでした。一歩歩くごとに足の裏の皮が一枚、また一枚と剥がれていき、最後は骨が地面にあたって、焼け爛れた人々は苦痛に対してただ力のない苦悶をしながら、今度は膝で動き、そして膝の骨があらわになって擦れるようになると、最後には手で這って、自分たちを救ってくれる人を探して、彷徨っていました。

 あの人たちを救えるのは私だけ。

 目を覚ました私は何の躊躇もなく、書き物机に飛びつきました。そして、あの人宛てに、響子さんの将来に関わる重大な事実が分かってしまったから、誰にも告げずに鮫ヶ淵のこの物置まで八月十五日の午後六時に来てくれるよう地図を書いて頼みました。以前の炊き出しのとき私はその物置部屋の前を通りかかったことがあったのです。内容は全て紙一枚にまとめました。そうすれば、あの人は手紙を持参します。会社に紙を置いたままにさせないために考えたことです。響子さんと鮫ヶ淵という場所の不釣合いにきっと彼は驚き、誰にも告げずにあの物置小屋にやってくる。そう確信していました。その後、私は自分の狡猾さに驚きました。私はあの人を罠にかけて殺そうというのです。私はメッセンジャーボーイを雇って、手紙を会社にいるあの人のもとに正午までに届けるよう頼みました。

 でも、その手紙を出した後で、私はとんでもない間違いを犯していることに気づきました。その日は鮫ヶ淵の炊き出しで私は現場に付きっ切りになってしまうのです。それに気づくと私は安堵とも焦りとも取れる奇妙な陶酔状態に陥りました。あの人が新型爆弾を売るかどうか、大勢の人間がその爆弾で死ぬか否かという岐路において、私はとんだ失態をおかしたのです。結局、私に殺人など無理なのだと思っていましたが、そう思いながら私は露店で売られているナイフを買っていました。不可能だと思う私の中ではまだできると思っている私がいるのです。

 レインコートは青山の下の階で買って、ずっと隠し持っていました。鮫ヶ淵に行くときも丸めて、紙で包んで外側から分からないようにしました。救世軍婦人会に参加された他の方々も似たような包みを持っていました。ひどく暑くなり汗をかくから手ぬぐいやタオルのようなものをたくさん持っていこうと考えていたようです。そのためか、私が紙で隠し包んだレインコートを持ち込むことも怪しまれることはありませんでした。

 返り血を浴びないためのレインコートを買い求めたときから、私はほとんど願うように自分に言い聞かせてました。自分に殺人なんて出来るわけがない。こんな恐ろしいことできっこない。そうに決まっている。もし、それをしたら頭が真っ白になる。きっとそうなると思ってました。私は血まみれのナイフを手にしたまま、ただ立ち尽くし、警察に逮捕されるのだ、と。でも、実際は違いました。物置部屋の入口に背を向けて立っていたあの人の背中に、私はナイフを構えて、精いっぱいの力でぶつかりました。あの人がうつ伏せに倒れた後、私の頭の中には行うべき様々な作業が浮かんできました。彼を仰向けにし、彼の持ち物を探り、マイクロフィルムを探そうとしました。でも、どこにあるのか見当がつきませんでした。そもそも私はマイクロフィルムがどのくらいの大きさでどんなふうなものなのかも知りませんでした。マイクロと言うくらいだからとても小さいのだろうと、思っていましたし、フィルムと名がつく以上は何かの映写機を使うのでしょう。もし、マイクロフィルムが背広の内側に縫い込まれたりしていたら、少し目には気づきません。時間がありませんでした。私は血まみれのレインコートを彼の亡骸にかぶせて、ナイフをすぐそば吹き抜けの橋から池に捨てると、第二給食所に戻りました。鮫ヶ淵中の住人が集まって、給食所は目のまわるような忙しさでした。けれど、私はすんなり戻ってきました。たったいま愛する人を刺したにも関わらず、豚汁をすくう私の手はちっとも震えませんでした。それどころか食事をよそっている最中にも次々と考えが浮かんできました。マイクロフィルムが見つからないなら、焼いてしまえ。ガソリンを手に入れろ、全て焼いてしまえ、と頭の中を考えが巡っていました。私の中にこんな狡猾さと冷酷さがあったことを私はあの日初めて知りました。私は空のどんぶりを手に豚汁を注いでもらおうと待っている老人にたずねました。次回は活動が夜遅くになっても大丈夫なように電球つきの小さな発電機を持ってこようと思っています。この町でもガソリンは手に入りますか? 老人は、大きく頭を二度縦に振り、ガソリンを売っている店を六つも七つも教えてくれました。そのうち一つは私があの人を殺した場所から三分と離れていない場所でした。その店がいわゆる故買屋で盗品を扱っていることは私も見当がついていました。私は豚汁をもらいにくる人たちが減ったのを機に第一給食所に行ってくる、と言い残して、故買屋に向かいました。件の故買屋はさび付いたトタン板に横三十センチ縦六十センチの小さな窓が開いているだけの場所でした。人の顔は見えませんでした。私は自分のものとは思えないほど落ち着いた声でガソリンを下さいといって、五十銭を払いました。すると、穴から注ぎ口付きのガソリン缶が出てきて、気づいていたら私の手から缶がぶら下がっていました。缶のなかでガソリンがタプンタプンと音を立ててました。あの人が横たわる部屋に戻った私はレインコートを剥いで、虚しく空を眺めるあの人にガソリンをかけました。そして、彼をレインコートで覆い、またガソリンをかけました。そして、マイクロフィルムに関するものが隠されていそうな彼の持ち物全てにガソリンをかけました。私はこのとき暴発を避けるために彼の銃から弾を抜くことを忘れませんでした。鍵束と銃から抜いた弾はポケットに入れました。鍵束は火をつけるくらいで損なわれることはないから、家に持ち帰り工具でへし曲げることにしました。でも、弾はなぜポケットに入れたままにしたのか、自分でも分かりませんでした。

私はあの人に火をつけました。黄色いレインコートの上を橙の炎が走り、ゴムの焼ける悪臭とともにあの人が焼けていきました。火のついたあの人を後に残して、炊き出しの場に戻る私はこれが平和のための炎なのだと思うようにしました。これで多くの人の命が救われる。浄化のための炎なのだと思うようにしたのです。しかし、そんな偽善に自分を浸らせることは不可能でした。炎で浄化する。そんなふうに納得できるのは狂人だけです。

全てが済んで、給食所に何食わぬ顔で戻れたとき私はまるで自分のことが生まれながらのテロリストのように思えました。

間もなく火事は知れて、鮫ヶ淵の人々があっという間に火を消しました。そして、どうやら誰かが焼け死んだらしいという噂が走りました。その日の炊き出しは中止となり、私たちは警察の方の先導で鮫ヶ淵を後にしました。

多くの人々の命を助けたという気持ちは湧きませんでした。ただ偽善とこれまで自分でも知らなかった狡猾さ。あの人を殺して残ったのは、その二つだけでした。

 私は当時身を寄せていたあの人の家へ戻りました。響子さんは、今日は叔父さまはいつ帰られるのかしら、最近お忙しいから中々会えなくて寂しいわ、と言って、食事の支度にかかっていました。

 私は家に帰ると、工具箱からペンチを取り出して、あの人から奪った鍵を全部へし曲げて使えないようにしました。これでマイクロフィルムがどこかの金庫に入っていたとしても手に入れることはできなくなりました。

 十五日の夜、あの人が帰らず、そして、十六日にも出社していないことがわかると、響子さんは顔を蒼くして、叔父さまに何かあったのでは心配しました。そして、二人で警察に失踪届けを出しました。響子さんは心の芯が強い子でしたが、あのときは叔父さまに何かあったら、とひどく心配しました。私はその手に自分の手を重ねてさすりながら、大丈夫よ、きっと大丈夫よ、と言いました。響子さんは私の肩に頭を預けて、きっと無事ですよね、おばさま、と言いました。私は何度も大丈夫だと言いました。

 私は卑劣な女でした。そうやって、ただ一人遺された響子さんに母性的な愛情を注ぐことで自分の罪を償おうとしたのです。

 でも、そこで偽善に溺れかけるたびに私は六発の弾丸を引き出しから出して、それらを手のひらにのせて、ぎゅっと握りしめるのです。そうやって自分のしたことを、自分の本性を思い出すのです。

 監察医務院で焼けたあの人を見たとき、私は泣きました。立てなくなりました。私は初めてあの人が死んでしまったと実感したのです。でも、響子さんは泣きませんでした。毅然とした態度を見せていたのです。私は思いました。もうじき、きっとこの子も同じようにあの人の死を実感するときが来る。打ちひしがれるときが来る。そのとき、私はあの子を助けてあげたい、守ってあげたいと強く思いました。

 でも、私にそんな資格はないのです!

 あの人の命を奪い、あの子を一人にしてしまった私にその資格はないのです。でも、私が愛情を注がなければ、あの子は本当に一人になります。

 では、どうするべきだったのでしょう?

 あの人を殺さなかったら?

 モスクワやバトンルージュの人々が何十万人と焼け死に、その上に幸福な家族を築くことが赦されるものなのでしょうか?

 もう私には何が正しくて何が間違っているのかも分かりません。


 「あの爆弾はどうなりますか?」全てを告白した後、高階婦人が訊ねた。

 「あなたが危惧しているような使われ方はされません」有川が答えた。「出来ないように釘を刺しておきました」

 「そうですか」

 ほお、と高階婦人は憑き物が落ちたように息をついた。

「もうじき響子さんが帰ってきます」篠宮が言った。「僕らから話しますか?」

「いえ」高階婦人は言った。「私が自分で話します」

 玄関から響子・ポクロフスカヤの、ただいまもどりました、という声が聞こえてきた。

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