2章:街娘–1

【1.】

「やぁ。おはよう」

 翌日。城内の食堂で食事を摂っていたゼトの向かい側から、そう声がした。明らかに自分に向けられたそれと、目の前に立つ気配に視線を上げると、宝石のような青い瞳とぶつかった。

「あぁ。おはようございます、パーシバル殿」

 パンをちぎりかけていた手を止めて会釈をすると、「あぁ、僕、そう言うのは別に気にしないよ」とやんわりと止められる。

 それから少しだけ周りを見渡した後、第一魔導部隊長の青年は、ゼトの向かいの席を指差して一言。

「ここ、いいかな」

「どうぞ。誰の為の席でもありませんので」

「ありがとう。では、失礼するよ」

 ゼトが頷くと、パーシバルはにこりと柔和に笑んで、彼の前に腰を下ろす。

 一つとして棘のないそれに、けれどゼトは同じように返さず、代わりに、食べかけの食事が乗ったままの食器類を横に移動させて応じた。

「それで。何か、私に御用ですか」

「えーと、今日君、非番?」

「えぇ……まぁ。……何故?」

「僕は結構、これくらいの時間にここに来た事があるけれど、そんな時にここで食事を摂ってるのは、往々にして、非番で時間に余裕があるか、怠け者さんか、お寝坊さんのどれかなんだ。きみは怠け者には見えないし、寝坊したならもっと慌てて食べているだろうし。そもそも、君は寝坊なんてしないだろうから」

「…………」

 思わず尋ねた言葉に屈託なくさらりと返されたゼトは、不覚にも黙り込んでしまった。

 それは、パーシバルが頻繁に日が昇りきったこの時間に食堂に現れている事実を知って驚愕したからではなく、かと言ってこちらの意図から外れた返答であったからでもなく、ある図星を突かれたためである。

 と言うのも、ゼトがこの時間にパンを摘んでいたのは寝過ごしたからで、初めからこの時間に起きようと思って寝床にいた就いた訳ではなかったからだ。頭の中の予定ではもっと早い時間に目を覚ましているつもりだったのだが、見事に失敗したために今に至っていた。

「あ、僕がこの時間に結構来るのは、ちゃんと理由があるんだよ」

 だがパーシバルは、前者だと思ったらしい。何とも言えない表情になったゼトを見て、ハッとしたように付け加えて言う。

「昨日は研究の調子が良くてね、キリのいいところまでと思って没頭してしまったんだ。そしたら、この時間になってしまうんだよ。だから決して、怠けている訳じゃなくて……」

「えぇ。……パーシバル殿が研究熱心なことは、存じております」

「あぁ、そうなのかい? 僕を見たまま固まるから、誤解を与えてしまったのかと思ったよ」

「申し訳ありません。恥ずかしながら……パーシバル殿の観察眼の高さと、私自身にそのような評価を頂いていることに、驚いてしまったのです」

「観察眼、と言うよりは、経験則だけどね」

「……これは、失礼を」

「いや、いいんだ。揚げ足を取るようなことをしてごめんよ。でも、思った通り、君は真面目で、志高い人みたいだね」

 まるで先程の鏡写しのようにハッとしたゼトは、反射的に頭を下げようとして、またしてもパーシバルに制止をかけられた。パーシバルは気を悪くした風でもなく、むしろどこか満足そうに笑んでいる。

(……真面目、か)

 邪も魔もないそれを見ながら、ゼトは僅かに目を伏せた。

 果たして、本当にそうだろうか。

 脳裏で、そんな声が聞こえるような気がする。

「そうあれるようには……努めておりますが」

 耳鳴りのように反響するそれを押し遣るように、ゼトはそんな風に言った。

 それはまるで己に言い聞かせるかのような含みを持っていたが、しかしパーシバルがそれに気付いた様子はない。目の前の青年は、騎士団長の発言を受けて、今度こそ満足したように頷いた。

「うん。そう言う気持ちも大切だものね。さて、本題に入りたいのだけれど、もし、この後特に予定がなければ、僕に付き合ってくれたりしないだろうか」

 合間に、コホンと一つ咳払いを挟んで––––––童顔とも言える面立ちには似合わないな、とぼんやり思った––––––出された問に、ゼトは逡巡して秤を数えてから、結局、首を縦に振ることにした。

「……えぇ、構いませんが。今の所、特に先約はありませんので」

「本当かい? 良かった。断られたら、どうしようかと思ったよ」

 ほっとするように短く息を吐くパーシバル。それを認めながら、ゼトは押し退けていた食器からパンを回収すると、革袋の中に放り込んだ。

「あ、別にここで食べてもいいのに。それくらい、待てるよ」

「いいえ。時は金なり、と言うでしょう」

「だけど、僕が急に誘った訳だし、それって、君の時間に割り込んでる訳だし」

「では、言葉を変えましょう。善は急げ、と言います。私が、そう判断したのです」

「うーん……。それじゃあ、その嬉しいお言葉に甘えることにしようかな」

「えぇ。ただ……」

「うん?」

「私の食事ではなく、身支度をお待ち頂ければ……と」

「はは、それはそうだ。もちろん、いいとも」

 ほんの少しだけきょとんとしたパーシバルが、合点がいったと愉しげに頷いたのを見計らい、ゼトは残っていたミルクを喉に流し込む。それから手早く食器をまとめると、返却口に持って行った。

 食器を並べ終えて戻ってくると、パーシバルもタイミングを合わせて立ち上がる。しかしそこで、彼は何かに気付いたようにぱちりと瞬きをして、それからゼトの目を見て言った。

「ゼトくん。もし間違ってたら申し訳ないのだけれど、一つ、いいかい?」

「如何しましたか?」

「『誓いの剣』を身に付けるのを、忘れてない?」

「!」

 瞬間、それまでどこか眠そうな雰囲気を醸し出していたゼトの眦が見開かれる。見る間に焦りが滲んで行くその表情は、今にも「しまった」という文字が浮かび上がりそうなほどだ。

 今度こそ本当に図星を突かれて言葉も出なくなる騎士団長に––––––見ていてこちらが気の毒になった––––––魔導騎士隊長は、努めて相手を刺激しないような語調で、なるべく早く言葉を繋いだ。

「あぁ、やっぱり? だけど、気にすることないよ。君はまだ騎士団長一年目だし、『歳渡りの儀』は初めてなんだし、慣れてない事もまだ多いだろう? 僕だって、初めての頃はよく忘れていて、その度に指摘されたものだよ」

「……申し訳ありません。直ちに、取りに参ります」

「うん。身支度のついでに、行っておいで。食堂の外で待ってるから」

 パーシバルの気遣いに気が付いたからなのか、応えたゼトの声もまた抑えられたものだった。だが気持ちを殺しきることはできなかったらしく、やや歩を早めた彼の表情は、苦虫を噛み潰したようなそれに変わっている。

(……もしかして、僕が考えてる以上だったりするのかな)

 食堂を出るなり更に足早になって遠退いていく騎士団長の背中を見送りながら、エルフの青年は肩を竦めて一つ息を吐いた。

 さて一方で、魔導騎士隊長と別れて廊下を歩む騎士団長の顔は、未だ険しいままだった。

 彼の頭の中には、先程パーシバルに言われた言葉が繰り返されている。パーシバルは基本的に、人を責めるよりはフォローに回ろうとする人物だ。それは前々から話には聞いていたし、彼自身も認知していた。同時に、心根の優しさから来るものだと言うことも。だから先程の言葉が、取り繕ったものでも、己の体裁のために口にされたものでもないことも分かっていた。

 それでも込み上げて来る黒い靄のような感情に、ゼトは言い様のない遣る瀬無さを感じて止まらなかった。

(私としたことが……持ち直したと、思ったのに…………)

『初めてなのだし、まだ自分の立場に慣れていないのだから』

 パーシバルはそうフォローをしてくれたが、しかし、ゼトは素直に受け取ることができなかった。

 確かに、騎士団長になってまだ一年目だ。しかし、『歳渡りの儀』も『誓いの剣』の扱い方も、話をしたのは昨日の今日である。翌日でいきなり忘れてしまうなど、責任ある立場の者がして良い事だろうか。

(否……)

 意識が甘かった。と、そう言わざるを得ない。

(これでは駄目だ……これでは……)

「あら、騎士団長様じゃない。おはようございます」

 思考の沼地に片足を突っ込みかけていたゼトは、突然外側から投げられた声に、引き戻される。既視感を感じながら声の方向に顔を向けると、鮮やかに彩られた唇が目に入ってきた。

「あぁ……おはようございます、クララ殿」

「随分と怖い顔をしているけれど、何かあったのかしら?」

「失礼、致しました。少し……痛恨の失敗を……」

 直後に合わさった視線の先で、形の良い柳眉が下がり湿潤な瞳が心配そうな光を見せる。それが何とも居心地が悪く–––––視界の隅に映る、普段の彼女は身に付けない銀色の輝きが、彼を余計にそうさせた––––––ゼトは眉間に指を添えながら言葉を濁す。

「まぁ! それは堪えるわね……。でも、気にすることはないわ。誰にだってミスはあるもの」

「ありがとうございます。ですが……」

「それに、貴方はまだ一年目。就任してから半年経ったとは言え、扱いとしては新人よ。隊長職の延長線上と言っても、何から何まで同じではないわ。まだまだ、不慣れな事もあるでしょう?」

「……」

 続けようとしていた言葉を、クララに遮られる。言い聞かせるような、ともすれば嘆願にも聞こえる女の湿り気を帯びた声に、彼は開きかけていた口を閉ざした。目元に被る彼自身の指で、その表情はクララからは影になって見えないが、傍から見る分にはそれは、己の言葉を反芻しているか、或いはそれについて思案しているように推し量れた。

「初めから、何から何まで完璧にしなければならないと言う訳ではないわ。難しいと思ったら、言ってくれれば私達がフォローするもの。そんなに怖い顔をしてまで、一人で気負う必要はないのよ」

 彼女もそう判断したらしい。殊更に優しく彩られて声音が、ゼトの耳朶を叩く。

 またしても暫く口を閉ざしていたゼトは、しかし、やがてふっと肩の力を抜いた。

「……申し訳ない。どうやら、騎士団長としての概念や責任を、深く考えすぎて囚われていたようです。ご厚情、痛み入ります。今のクララ殿のお言葉で、少し身が軽くなった気がします」

「そう。良かったわ。貴方が怖い顔をするのは、似合わないもの」

「それは……どういう……」

「もっと頼って欲しいって事よ。だって貴方、いつも自分の身体を張ってばかりなんだもの。私だって騎士団の一員よ。覚悟の上にここにいるわ」

「……えぇ。以降、肝に銘じましょう」

 ゼトは観念したように、胸元に手を添える。

 眉間に刻まれていた溝は消え、元の静かな眼差しに戻っている。クララはそれを見て、満足そうに頷いた。

「うん。そうしてくれると嬉しいわ。引き止めて悪かったわね」

「いいえ。クララ殿のお気遣い、私も嬉しく思います。それでは、受けた身で失礼ですが、これで」

「えぇ。またゆっくり話しましょうね」

「機会があれば。是非」

 ゼトが姿勢を正してしっかりと礼をすると、獣騎士隊長は満足そうに手を振った。それにもう一度会釈をして礼を示してから、騎士団長はその場を立ち去った。

 先程よりも早足で––––––人を待たせているにも拘らず、時間を割いてしまったからだろう––––––自室まで戻ると、彼は脇目も振らずに鍵を回す。

 部屋に足を踏み入れると、昨晩寝る前に外した銀の剣が、そのまま同じ位置にあった。

「……」

 その光景に先ほど飲み下したはずの嫌なものがふつふつと返ってくるのを感じつつ、手早く腰に固定する。弛みなくしっかりと帯剣できたことを確認すると、外套と必要最低限の小物を引っ張り出して身に付け、ゼトは部屋を出た。

「フォローする、か」

 思い出したように呟かれた一言は、差し込んだ鍵が回る音に重なって消える。『誓いの剣』の重みを感じながら踵を返す彼の横顔には、しかし今度は、一つの波紋もない。ただ、この国の誰よりも深い青の瞳が、普段よりも色濃く見えた。


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