影追い

 彼女の落としたカギを拾ったものの、後が続かない。

「いつも、会いますね」とか、「夜はこんな時間なのですか?」とか、さりげなくかけられる言葉のバリエーションはあるはずなのに、何も言えずに、短い謝礼とともにむけられた彼女の背に、俺は歯噛みをする。

  ちょうど入ってきた電車で、彼女の隣に座ったものの、結局、言葉がかけられない。

  俺は、ため息をつき、いつもの通り文庫本を取り出して開く。

  あまりにも情けなかった。思春期の高校生ではあるまいに、と思う。

  夢の俺が俺でないにしろ、朝の通勤電車で毎日顔を合わせているのは事実で、それは間違いなく『俺』である。顔認識くらいは、してもらっているはずだ。

  しかし、夢で見る限り、彼女はとてもまじめで、どっちかといえば引っ込み思案なほうだ。

  いくら顔なじみとはいえ、ほぼ何も知らない男に声をかけられて、会話がサクサク進むタイプではない。 夢ではいくらでも話せるのに、何を話したらいいかわからない。

  やがて。電車は、ゆっくりと次の停車駅のホームへと滑りこむ。

  乗り込んでくる乗客は僅かで、広い車内には、数えるほどの人間しかいなくなった。

 不意に。

  首筋がチリリとした。

  どこだ?

  俺は、あたりを見回す。

  何かが、いる。

  車内にはそれほどひとはいない。この気配は、おそらく『影追い』。珍しいものではないが、人の影を渡り歩き、使役されることもある闇の生物だ。

  ターゲットは誰だ?

『影追い』は、獲物の影にひそみ、時に、人を喰らう。それほど強いものではないが、ただ、襲う瞬間まで、姿や気配を消していてわかりにくい。

 また、使役されている場合は、使役している術者の『媒介』になることもあり、非常に厄介な奴である。

 そうこうするうちに、電車は、降車駅へとたどり着いた。

 俺は、車内に気配が残っていないのを確認して、ホームに降り立った。

 刺すような、妖気を突然感じ、俺は走った。

 改札を出て、俺は気配に向かって走る。

 闇がうずくまる。潮の香りだ。

 使役されている? 

 街灯と街灯の間の影に沈み込んでいくのは、彼女だった。

 本来なら、術者に術を返すべきだが、彼女は完全に闇に捕まってしまっている。余裕はなかった。


 臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前


 俺は、九字を斬り、影を焼いた。

 彼女の身体がぐらりと倒れかけたのを受け止める。

 思った以上に柔らかく、華奢であった。

「セイくん?」

 焦点の合わない目で、彼女はそう言った。

 俺を呼んだのだろうか? 胸がドキリとする。

「……怪我はない?」

「ありがとうございます……ご、ごめんなさい」

 覚醒した彼女は、慌てて俺から身を放そうとして、ガクンと体勢を崩して、俺の胸に倒れこんだ。

 顔が真っ赤で可愛い。シャンプーのいい香りがした。俺の胸が騒ぐ。

 しかし――影追いに襲われた以上、ここから先は仕事だ。

 もともと彼女の霊力が上がってきたことには、危惧を感じていた。霊力が高くて襲われた可能性があり、その場合、二度、三度と繰り返される危険が高い。

 被害者として報告しないことは、彼女にとって、危険である。

「……一回、座ろうか」

 俺は彼女をベンチに座らせて、隣に腰かけた。

 仕事だと思えば、いくらでも言葉は出てくる。ある意味情けない。

「……先ほどのは、いったい?」

「影追いだ」

「うそ、まさか、それって、本来、闇に普通に生息している魔物で、たまーにヒトに使役されたりしちゃったりとか」

「知っているのか?」

 驚いた。

 彼女の夢で俺がみたのは、『暗霧』だ。当然、夢の中で、『影追い』について、俺が教えたことはない。なぜ、闇の生物の名を、彼女が知っているのだろう。

「……えっと。知らないです。いや、そうなんじゃないかなー、なんてあの……夢で、見たので」

 俺は毎日彼女の夢に渡っていたわけではない。

 俺とは全く関係のないところで、見た夢——彼女自身の高い霊力がそれに関係しているとなれば。

「予知夢か……あるかもしれないな。かなり霊力が高いから。今までに、こういった魔物に襲われるような体験をしたことは?」

「ないです」

「……だな……今まで影を感じたことはなかったし」

 俺は、自分のうかつさに息を吐いた。これだけ霊力が高まったのだ。もっと彼女の安全に気を配るべきであった。

「その夢はどんな夢だ?」

 彼女は困ったような顔をした。まあ、普通に考えて、『バケモノに襲われた』夢の内容なんて、めったにひとに話すことはないだろう。

「えっと、夢だと、私、満員電車の中で、さっきの『影追い』に殺されそうになったところを、あなたに助けられました……あの、ひょっとして、セイってお名前だったりします?」

 彼女の言葉に俺は小躍りしそうになった。セイは、俺かもしれない。

 もっとも、夢の内容なんて、ふつうは忘れてしまうものだ。そうだとしても、過大な期待は禁物である。

「おしいな。俺の名前は、鬼頭誠治。退魔士だ」

「退魔士、さん? まさか本当に『退魔士』なんて職業の人がいるとは思わなかったです」

 きっと、夢ですら半信半疑であったのだろう。俺は苦笑した。

「とりあえず、家まで送ろう。君は?」

「中島優樹菜です」

「優樹菜さん、か……」

 はじめて。現実に彼女の名を呼ぶ。

「毎日会っているから、はじめましても変だけど」といいながら、俺は胸ポケットから、名刺を取りだす。

「何かあったらコッチに連絡して。一度、アレに目をつけられるとたびたび狙われる可能性がある」

「宮内庁防魔調査室?」

 彼女は、俺の渡した名刺を凝視した。

 夢ではそこまでの情報はなかったのだろうか。どこまで、彼女は『わかっている』のだろう。

「あ、一応、俺、国家公務員だから」

「そんな組織、聞いたこともないですが」

「うん。トップシークレットだからね。化け物とか退魔士を表面化させると、たぶん、呪術犯罪はさらに増えるからね」

 俺は答えながら、どうやら、彼女の夢は『バケモノに襲われる』というところだけのようだ、と納得する。

「……そんな大事なこと、ペラペラ私に話して大丈夫なのですか?」

「うん。ふつーは話さないけど。影追いはしつこいから、『自衛』してもらわないとまずいから」

 正確には、もし、彼女が『自衛』できないのなら、俺と彼女は完全に仕事の関係になり、彼女との接触のすべてを抹消しなければならない。

 それは、嫌だった。まして、俺は後方担当者だから、彼女の担当には、別の人間が当たる可能性が高い。

「自衛?!」

「大丈夫。優樹菜さんは、霊力高いから」

 びっくりして目を見開く彼女に、俺は自分の願望を隠して、うそぶく。

「俺の仕事は、実戦より、もともとは術具と呪符の研究だから、そういう面でも力になれると思う」

「はあ」

「どうする? 家まで送ったほうがいい?」

 彼女のマンションまで送り届けたところで、そういうと、彼女は、丁寧にそれを断った。

 俺に気を使っているのかもしれないが、それ以上に警戒されたのかもしれない。

「知らない人間でもない」

「……それを言ったら、鬼頭さん、知人の範囲が広すぎじゃないでしょうか」

 気を使うなと言った言葉を、彼女は否定する。やはり、夢は、夢なのだろうなあと思い、苦く思った。

「ちょっと腕だして」

 俺は思いついて、術具を取り出した。単純に『自衛』といっても、修行もしていない彼女が『自衛』できるわけがない。

 しかし、俺の気は、彼女の気と相性がよく、しかも夢渡りでかなりなじんでいる。遠隔的に、彼女を守ることは可能だ。

 俺は、彼女の腕に、気を練りこんである紐を結びつける。

「ミサンガですか?」

「似たようなものかな。何かあったら、これを切り落として。わかったね」

「はい」

 彼女はそう言って頷く。

 その時、俺はまだ、彼女の目覚め始めた『力』のことを理解してはいなかった。


 仕事として接触してしまった俺は、彼女の連絡先を手に入れたものの、どうすることもできなかった。

 職場に彼女の被害申請を出し、『影追い』の術者に狙われている可能性を示唆するとともに、彼女が「霊力」を保有していることを記載する。

 霊力保有者の場合、単純な保護対象ではなく、『修行』させ『自衛』させるという選択肢もあるからだ。

 そもそも、自衛手段のない霊的に襲われることが多い人間は、ことのほか多く、この世界は慢性で人材不足なのである。

 それにしても。

 あの時、自分の連絡先も教えておいてもよかったのだ。それをしなかったのは、彼女から「連絡がこない」ということが怖かったからだ。自分でも臆病にもほどがある、と思う。

 ——そして、夕刻。彼女が、再び影追いに襲われた。



「大丈夫? 怪我はない?」

 霊波を追い、ようやく優樹菜の居場所を探し当てる。

 車のヘッドライトに照らされた道路の隅で、彼女がびしょ濡れですわりこんでいた。

「はい」

 頷いた彼女の髪からしずくがしたたる。

 濡れた服はぴったりと肌に張り付いていて、薄暗いにもかかわらず、下着のラインが透けていた。

 豊満な双丘。くびれた腰。パンティラインがわかるほど張り付いたヒップライン。

 そのすべてが、夢で見ていたよりも、美しくて艶めかしいラインを描いている。

 水のしずくが、しずかに肌を滑っていくようすが、なんとも淫猥だ。

「……びしょ濡れだ。とりあえず、車に乗って」

 俺はそう言って、助手席の扉を開けた。

「シートが濡れてしまいます。歩いて帰れますから」

 彼女は、遠慮がちにそう言った。絶対、状況を分かっていない。

「気にしなくていい。えっと。そんな恰好で歩いたらダメだから」

 思わず強い口調でそう言うと、彼女はようやく自分の格好に気が付いたようだった。

「す、すみません」

 彼女は顔を赤らめ、豊かな胸をカバンで押し隠した。そのしぐさがあまりにもうぶで、セクシーすぎる身体にはアンバランスで、ゾクリとする。

「いや……別に謝る理由はないケド」

 俺は、思わず彼女から目をそらし、般若心経を頭の中でそらんじる。

 誰も見てはいないけれど、仕事である以上、距離は置かなければならない。

 それに——彼女がここまで無防備なのは、霊的な事件でショック状態だからなのだ。けっして、俺に心を許していてそうしているわけじゃない——そう思うと。

 高鳴る胸が、すーぅっと冷えて、泣きたくなる自分がいた。

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