外伝 鬼頭の章

夢渡り 1

 初めて彼女に会ったのは、いつだったのか。

 その日は、いつもより電車の中は、混雑していた。ほんの少しの揺れで、人がよろめく。

 不意に、腕に柔らかい感触がした。見下ろした視線のその先に、豊かな胸の谷間が目に入った。

「ご、ごめんなさい」

 女性がささやくように謝罪する。距離が近い。腕に押し付けられた感触とともに、彼女から甘い香りがただよってくる。

 それほど、大胆な服装をしているわけではない。どちらかと言えば地味なビジネススーツである。ただ、胸元のV字のカットが、豊かすぎる胸のせいで、必要以上に強調されてしまうのだ。顔のつくりや、化粧などはとても地味だったが、とてもきれいな瞳をしている。目が合って、思わず俺は慌てて顔をそむけた。

 電車の混み具合が増してきたのだろうか。

 彼女の豊満な胸はさらに俺の腕に押し付けられた。そんな状況でありながら、彼女の瞳は申し訳なさそうな光を帯びている。胸がドキリとした。

 見てはいけないとは思うものの、目に飛び込んでしまう谷間と、首筋から鎖骨にかけて、汗の浮いた白い肌のラインが艶めかしい。

 彼女の吐く息を肌に感じるたびに、背筋がぞわぞわした。

 俺は、理性を保つために、駅までの数分間、般若心経を唱え続ける羽目になった。



 夢の中だというのはすぐ分かった。

 しかも自分の夢じゃない。

 しまった、と思う。

 俺は昔から、時折、無意識に他人の夢に迷い込むことがあった。

 どんな人間の夢でも入れるわけではない。ある程度、相手との波長が合わないとだめだ。無意識に迷い込むときは、相手が俺の夢を見ていることが多く、『招かれる』ケースが多い。もっとも、そうとは限らず、俺自身が別の人間に入ってしまうこともある。

 現在は仕事として意識的に心霊治療の一環で入ることはあっても、無意識で入らないように寝る前に必ず結界を張って寝るようにしていたのだが、体調を崩していたせいで昨晩はそれを怠っていたようだ。

 他人の夢に迷い込むというのは、かなりリスクをともなうことであり、必要でなければ、するべきではない。

 理由は、第一に、夢であるから、この世界は夢を見ている人間がある意味で「神」であるゆえに、一般的な物理法則や常識が通用しないことがある。

 第二に、夢を見ている本人に許可なく、夢から勝手に出ていくことは、双方にリスキーな結果をもたらすことが多いため離脱に気を使わねばならない。

 第三に、夢を見ている本人から見た俺への『印象』に縛られることが多く、俺自身の意思で動けないことも稀にあるのだ。

 俺は、あたりを見回す。どこかで見たような場所。ああ、これは、F駅周辺だ、と思う。

 俺が立っているのは、待ち合わせのメッカである駅の広場だ。すでに日が暮れて、かなり遅い時間である。

「待ちました?」

 突然現れたのは、電車で一緒になる彼女であった。

 あれ以来、朝の通勤電車で、彼女とは必ず会うようになった。

 冬の装いになり、身体のラインはわかりにくくなったものの、抜群のプロポーションである彼女は車内でも目立つ。

 少しでも混みあっているときなど、わざとらしく彼女のそばに近づこうとする不埒な目をした男をみかけることも多い。

 もっとも、そういう輩を見るたびに、わざわざ彼女との間にさりげなく移動する俺も、似たようなものかもしれないが。

 それでも、俺は、彼女と言葉を交わしたことはない。たぶん、お互い顔は知っている、というだけの関係だ。

「いえ――」

 答えながら、俺はあたりを見回した。どうやら、この夢は、彼女の夢らしい。

 とはいえ、どういう経緯で、彼女と俺は待ち合わせすることになったのか、まったくわからない。

「お忙しいのに、ご無理言ってごめんなさい。どうしても、この前のお礼がしたくて」

 彼女はぺこりと頭を下げる。

「その……ちかんから助けていただいてほんとうにありがとうございました」

「いや……その」

 俺は口を濁しながら頷く。

「見て見ぬふりをする人が多いのに。しかも、相手はヤクザみたいな酔っ払いで。すごく怖かったので、助かりました」

 なんだかよくわからないが。

 どうやら、俺は『彼女をちかんから助けた』ということらしい。まあ、ちかんになりそうな男から結果としてガードみたいなことをしていたのは事実だが。

 ひょっとしたら、俺と違う誰かに、俺は入っているのかもしれない――そう思ったら、なんだか少し胸がちくりとした。

「大したお礼はできませんけど。ちょうど、美味しいカニ屋さんのお食事券をいただいたので……良ければ」

「喜んで」

 とりあえずカニは好きである。拒絶する理由もない。俺は頷いて、彼女といっしょに、カニ料理の専門店に入った。

 この店は、俺も入ったことがある。記憶と同じ店の間取りだ。あえていうなら、実際の店舗より照明が暗めで、まるで人里離れた旅館に来たような錯覚を抱かせる。

 夢だから当たり前だが、それなりに混みあっているように見えるのに、二人きりのような静けさだ。

 案内されたのは、奥の小さな座敷の部屋だった。

 彼女はロングブーツを履いていたので、座敷じゃない方が楽じゃないのか、と思ったが、これは彼女の夢であるから、彼女の希望なのだろう。

 ほぼ初対面の男女が向かい合わせで座るとなると、まるで見合いのようである。

「カニの鍋コースを頼んであるのですけど、飲み物はどうされますか?」

 コートを脱ぎながら、彼女はそう言った。

 彼女は白のニットのミニのワンピースだった。露出はしていないが、豊満な胸とくびれた腰のラインを美しく描いている。スパッツをはいてはいるものの、太ももの半分の丈しかないミニスカートは扇情的だ。

 デザインはシンプル、露出もしていない。一見、清楚なよそおいでありながら、それでいて男を誘う服装である。

 夢とはいえ――否、彼女の夢であるからこそ、アルコールを飲んではまずいな、と思った。自分がどういった役回りか、予想がつかないからだ。

「特には」

 答えながら彼女の表情を探る。

 こんな服装をしているというのは、俺を誘っているのであろうか。

「お仕事は何をなさっているのですか?」

 あっという間に運ばれてきた鍋の具をよそいながら、彼女は俺に聞いた。表情にくったくはない。

 色気で男を篭絡しようとしているわけではなさそうである。

「退魔士です」

 一瞬、迷ったが、どうせ夢だと思い、俺は正直に答えた。この答えが彼女の意に染まぬのであれば、言葉にならないはずだが、あっさりそれは声になる。

「たいまし?」

 彼女は首をかしげた。どうやら、意味が分からなかったらしい。まあ、それはそうだろうな、と思う。

「魔を退ける仕事をしています」

「え? 陰陽師みたいな?」

「まあ……そうです」

「本当にいるのですね……そんなひと」

 心配になるくらい、あっさりと彼女は頷いた。

 鍋から立ち上る湯気を見ながら、くすりと哀しげに笑った。

「今日はお付き合いいただいて、本当にうれしいです。券をもらってから……ずっとお誘いしたくて」

 すぅっと手を伸ばして、シメのぞうすいをつくりはじめる。

 彼女との距離が、急に遠ざかったように感じられた。

「私、前から、あなたが好きでした……あ、いいんですよ。気を使わなくて。これで、最後にしますから」

「え?」

 俺は焦った。どうやら、俺が退魔士といったことを、『拒絶』と受け取ったらしい。

「俺、本当に……」

「大丈夫。無理なの、わかっていましたから」

 ぞうすいをよそおって、彼女は泣き笑いを浮かべた。彼女の夢なのに、これは『失恋』の夢なのだと悟る。最初から、彼女はこのデートで告白して、失恋する予定だったのだ。

 違うと言いたいのに、言葉が出ない。

 彼女の涙に潤んだ瞳に男の姿が浮かんでいる。その姿が『俺』なのか、確信が持てない。

「今日はありがとうございました」

 何がありがとうなのか。彼女は、『誰』と思い出を作ろうとしているのだろう。思いが渦巻く。

 遠くで、ベルが鳴る音がして――俺は、強制的に夢から追い出された。

 朝の光の中、胸が張り裂けそうに痛かった。



 いつものように電車に乗る。いつものように、彼女がいる。

 ふと気が付くと、彼女は夢と同じコートで、ロングブーツを履いていた。瞳はなんだか物憂げである。

 ――今日は週末。

 ひょっとしたら、あのコートの下は、夢と同じワンピースなのかもしれない――そう思った。

 だれと会うのか。疑問が渦巻く。

 駅に着き、電車を降りてホームを歩く彼女を見送る。彼女は、俺に話しかけようとはしない。

 やはり、あれは俺でない誰かで。彼女は俺でない誰かと、あの店でデートをするのかもしれない。

 俺でない誰かは――彼女を拒絶するのだろうか。夢と同じように、彼女は失恋するのだろうか。

 夜が近づくにつれ、俺は落ち着かなくなった。

「あ、鬼頭、例の術具の鑑定、終わったか?」

 ノックとともに入ってきたのは、法衣をまとった坊主姿の田野倉だ。

 俺の仕事は主に、犯罪に使われた術具の鑑定と、術具の制作だ。退魔法も一通りできるが、防魔調査室という職場の中では、後方支援組である。

 前線で戦えなくもないが、夢渡りもできるため、心霊被害者のアフターケアを任されることも多いため、後方に配属されている。

「すまん。データはできている。ちょっと待て」

 俺はパソコンのファイルを開き、印刷を始めた。

「いつになく、仕事がゆっくりだが、体調はまだ悪いのかよ?」

「……すまんな」

 俺はあいまいに答えて、窓の外を見た。

 暮れていく風景が胸を締め付ける。

 まいったな、と俺は思う。

 話をしたこともない。名前も知らない――それでも。彼女がほかの男と会っているかもしれないと思ったら、胸がジクジク傷む。

「なあ、田野倉」

 俺は、プリンターに張り付いている坊主に声をかける。

「お前、付き合った女に『退魔士』って名乗ったことあるか?」

「――ある」

 田野倉はにやりと笑った。

「おれは、坊主だからねー。当然だと思われるし」

 確かに、四六時中、法衣をまとった変人である。言ったところで不思議に思われないのかもしれない。

「なーんか面白そうだけど……今日は、聞かずにいてやるよ。何があったか、そのうち教えろ」

 田野倉は資料をまとめると、俺の肩をポンとたたいた。

「今度ね……」

 俺は呟く。そもそも、夢の中の出来事だ。何もありはしない。

「夢なら――やり直せるのだろうか」

 夢の中の俺が、間違いなく俺であるのなら――。

 俺は、その夜、彼女の夢に渡ることを決意した。

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