【短編4,016文字】ティッシュを食べる

江戸川台ルーペ

朝起き、夜眠るまでの営みを

 富士山が私を追いかけてくる。

 富士山は新幹線と同じ速さで走っているのだろうか?

 そんな子供じみた考えを思い出して、私は少し微笑んだ。


 私の祖母はティッシュペーパーを食べた。

 あの鼻をかんだり、口を拭いたりするティッシュだ。

「スコッティがね、甘くて美味しいのよ。エリエールは駄目ね。苦味が強すぎて」


「でも、あんたはまだ食べちゃ駄目だよ」

 祖母はまだ小学六年生の私にキツくそう言い含めた。

「子供の胃に、ティッシュペーパーはそぐわない」

 、という言い方を祖母はした。その言葉は、父の大き過ぎるシャツをふざけて着た時の感覚を思い出させた。

 祖母は私の目の前でティッシュをザッと音を立てて一枚引き抜くと、おもむろに口の中に丸めて突っ込んだ。そして目を閉じると、いかにも美味そうにモクモクと咀嚼した。

「おいしい?」

 と私が聞くと、祖母はモクモクと口を動かしながら

「すごくおいしい」

 と答えた。実際、祖母はこの上なく美味しそうにティッシュを食べた。

「味付けはしないの?」

 と私は祖母に質問した。

「例えば、お砂糖をまぶしたり、バター醤油にしてみたり」

 素朴な疑問だった。

「考えたこともなかった」

 祖母は唖然とした顔をして私に言った。

「あんたは、もしかしたら天才かもしれない」


 祖母はティッシュを食べる習慣を私以外に明かさなかったので、父と母と妹がいない、二人きりの日にその実験は行われた。ティッシュペーパーをひとつの食材として捉え、手を振るう……加工する。それはやはり、料理というよりは実験と呼ぶ方が相応しかった。


 1 ティッシュペーパーの味噌汁

 シンプルに味噌汁にティッシュ・ペーパーを具材として投入する。祖母は朝ごはんの残りの味噌汁を一煮立ちさせた。

「良い匂い」

 祖母がそううっとりとした声で言うと、味噌汁をよそってテーブルの席につき、ティッシュペーパーを三枚程その中に投入してから両手の平を合わせて「いただきます」と言った。味噌汁に浮かんでいるティッシュ・ペーパーは、うまくすればワンタンのように見えなくも無かったが、ほとんど味噌汁に同化しており、箸はそのティッシュペーパーを破り崩さないように、注意深く椀の中をさまよわなければならなかった。

「おいしい?」

 私は祖母に前のめりになって感想を求めた。

「うーん、味噌がティッシュと喧嘩してる」

 こんな筈じゃなかったのに、といういかにも納得し難い雰囲気が祖母から発せられていた。普段はそんな風に自分の感情を露わにしない性格だが、ことティッシュ・ペーパーについては別なのだ。


 2 ティッシュ・ペーパーの照り焼き

「焼くの?」

 と私は率直に祖母に聞いた。だって、紙は燃えてしまうものだから。

「あたしの好物はね、ブリの照り焼きなの。あれはね、魚が美味しいんじゃなくて、照りの部分が美味しいのよ。つまり、砂糖と醤油とみりん。これさえあれば、世界から戦争はなくなる」

 ふうーん、と私はあどけなく頷いた。

 それから、今私と祖母がついている食卓に、ターバンを頭に巻いた初老の眼鏡を掛けたアラブ人男性(議長と呼ばれていた)と、同じく眼鏡を掛けたトップリと太った黒人(牧師と呼ばれていた)が突如として現れ、大きな皿に盛られた大きなブリの照り焼きを、仲睦まじくつっつく様子を思い描いた。確かにそれは平和な光景だった。その二人を背にして、祖母は照り焼きのタレをささっとフライパンで作り、煮立っている中にティッシュペーパーを五枚ほど投入した。あっという間にティッシュペーパーはその汁を吸い取った。

「あらあら、まあまあ」

 祖母は感嘆の声をあげた。ティッシュは、こぼれた水分を吸い上げる為に存在しているのだ。祖母はすっかり汁気を吸い取ったティッシュペーパーを菜箸で、まるでこれからホットケーキを焼く為に油を引いているかのような手付きでフライパン内全てを綺麗に拭き回すと、ポンと皿の上に取り出した。それは餃子の皮に特殊加工を施した、前衛的な芸術作品を思わせた。我々は(私と祖母と議長と牧師のことだ)そのほんのりと湯気をくゆらせる不思議な物体をしばらく無言で眺めた。匂いは香ばしいタレそのものだ。だが、それはさっきまで確かにティッシュ・ペーパーであった筈の物なのだ。

「おばあちゃん、これ、食べるの?」

 私は知らぬ間に怯えた声を発していた。

「世の中にね、不味い照り焼きなんかありはしないのよ」

 祖母は覚悟を決めたように箸でそれを二つに割ると、小さい方を箸で捉え、その下に手を添えて口に運んだ。祖母は出汁巻卵を食べる京都の人のように、とても上品な箸使いをした。

 祖母はじっと目を閉じて、しばらく音も立てずに咀嚼をすると、やにわに殺気立って立ち上がり、トイレに篭ってしばらく出てこなかった。

「死んだおじいちゃんがね、トイレで手招きしていたよ」

 幾分やつれて戻ってきた祖母が呟いた。

 議長がアラビア語で以下のように語った。

「في محاولة لمناقشة قضية فلسطين」

 それを聞いた牧師が議長を大声で罵った。

「ファック・ユー、ガッデム・サノバビッチ」

 世界の平和は再び脅かされた。


 3 あるべき姿として

 そろそろティッシュ・ペーパーは素材のままが一番美味しいという結論に達しようとした時、祖母が大きなくしゃみを二連発し、そのままティッシュ・ペーパーで鼻をズバッズバッとかんだ。

「やだおばあちゃん、花粉症?」

 私は笑いながら祖母に言った。祖母は江戸っ子のように、簡潔に鼻をかむ。私は祖母のハナカミが好きだった。

「……おばあちゃん?」

 祖母は自分でかんだ鼻水がたっぷり含まれているティッシュ・ペーパーを凝視していた。私はその据わった祖母の両眼を目の当たりにして、彼女が何を考えているのかを瞬時に理解した。その、あるべき姿としてのティッシュ・ペーパーは、果たしてどのような味がするのだろう? そうした命題について、祖母は深く思慮を巡らしているのだ。

「おばあちゃんやめて」

 私は祖母を悪戯に刺激しないよう、噛んで含めるように言った。デトロイトのうらぶれた個人商店で、人質のブロンド美女に銃を突きつけている黒人に解放を促す、定年間際の警部補のような、出来るだけ落ち着いた低いトーンで。

「お願い。それはダメ」


 祖母はハっと息を飲んで、目に正気を取り戻した。

「あぶないあぶない」

「人って普通の日常を生きるってだけで、奇跡だね」

 私はしみじみと言った。



 ◇◆◇◆◇◆◇◆



 その五年後、私が花の女子高生生活を満喫していると、祖母は六月の朝に一人で死んだ。くも膜下出血がその死因だった。祖母は大阪で一人で暮らしていたので、私は早退して家族と共に向かった。そこで私は、こだま新幹線の車窓から、晴天の下でくっきりと浮かび尽くす富士山と白銀の雲を眺めながら、祖母との不思議な、混乱に満ちた実験を思い出していたのだ。あれは一体、何だったのだろう。そして、富士山は私をいつまで追いかけるのだろう。


 荼毘に付され、その小さな骨壷入った祖母を、私は静かに仏壇に納めた。父、母、妹は祖母の家に訪れる人たちの対応に追われ、仏壇がある広い部屋に、私は偶然ひとりきりに(あるいは祖母と二人きりに)なれたのだった。私は仏壇の前に正座をすると、目を瞑り、両手を合わせて深く拝んだ。親族が死んだのは初めてだったので、私は少し大人になったような気持ちになった。死者に対して礼節を重んじる事は同時に、1秒前までの私自身を弔う事でもあった。私はそれを初めて知った。


 おばあちゃん、あなたが死ぬのは、そぐわない


 私は小さく口に出して言った。それは今まで思った事も、考えた事もない言葉だったが、自然と口からこぼれた。

 そうして小学生の頃、祖母に

「そぐわない」

 という言葉を使われて以来、それが喉に刺さった魚の骨のように自分の胸の一部をじくり、じくりと痛めていた事に気が付いた。私は朝起き、夜眠る。その間の営みは、「私という人間は現実にそぐわないのではないか」という、明け方に目覚めた時の孤独のような、淡い紫色に覆われていた。その滲んだ色合いは、どこかの庭先に揺れる紫陽花あじさいを思い出させた。雨の匂いさえも漂ってくる。それは祖母が残していった物なのかも知れない。


 私は陽のあたる部屋で、ひとりで涙をこぼした。考えてみれば、祖母が死んで涙を流したのはこれが初めてだった。どうやって泣けばいいのか分からなかったのだ。誰か知らない人から、わざとらしいと後ろ指を指されそうな気がして。でも今は私はひとりだ。


 それから手元に置いてあるボックスからティッシュ・ペーパーを一枚ざっと取ると、目元を抑えるように涙を吸い取った。それはいつもいつも、いつの間にか私の手元にある。世界中のあらゆる風景にうまく溶け込む、スコッティのティッシュ・ボックス。必要な時にだけ、魔法のように目に留まる。


 私はふと思い付いて、自分の涙を拭ったティッシュ・ペーパーを丸めて、それを口の中に押し込んだ。そして私は涙を流しながら、それをしばらくモクモクと咀嚼した。


「おねえちゃあん! こっちでちょっと手伝ってよー! 忙しいんだからさー!」


 妹の遠い声が私を呼んだ。


「今行くー!」


 私はまだティッシュを口に残したまま大きな声で答えて、立ち上がった。私は祖母が死んで、初めてティッシュを食べた。それまで一枚もティッシュなんか食べた事はなかった。食べようとも思わなかった。祖母が死んで、ふと思い出したのだ。祖母がティッシュを好んで食べていた風景を。

「おばあちゃん、涙味のティッシュ、食べた事ないでしょう?」

 私は部屋を出る前に振り返って、祖母に向かって微笑んだ。

「意外とイケてる」

 それから出来るだけゆっくりと、後ろ手で仏壇の部屋のドアを閉めた。



 日当たりが良いだけが取り柄の部屋の中で、置き去りにされた埃が仏壇の周りをキラキラと舞っていた。


「あるよ」

 誰も居ない部屋で誰かが言った。

「あなたが産まれた時に」



(終わり)
















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