偽典・フランダースの犬

躯螺都幽冥牢彦(くらつ・ゆめろうひこ)

偽典・フランダースの犬

 ネロは雪深いアントワープの郊外を、手にした銃と、鞄にありったけ詰め込んだ銃弾、そしてわずかな食糧をかじりながら、歩み続けていた。

 その銃と銃弾、身に着けているコートや手袋は全て、今はもう友人ですらないアロアの家の使用人達を脅して奪ったものだ。

 相棒のパトラッシュはもういない。正確には先ほど別れた。

 どう別れたのかは思い出せない。連なる不幸、そしてクリスマスを迎える日の豪雪が、彼から半ば、正気を奪っていた。


 しかし、祖父の仇である―と、今のネロは思い込んでいた―アロアの父、バース・コジェは、自分を追って来るだろう。

 放火犯の疑いをかけられ、アロアとの仲を永遠に引き裂かれ、更には思い出深い小屋からも家賃滞納で追い出された身だ。

 奴の財布を届けてやったくらいで、自分の立場が変わる訳がない。

 子供でなければ殺したいほどに憎んでいた相手を、金持ちが早々簡単に許すはずがない。

 そんな自分の息の根を止めるには、この吹雪は絶好のチャンスのはずだ。

 ネロは状況をそう読んでいた。


(追い付いて来い、コジェ)

 その財布の中身が彼の全財産であったという事を知らぬまま、歩みを進めるネロ。

 向かう先はアントワープ大聖堂である。




「ネロは見つかったか」

「いえ、まだです」

 駆り出せる使用人と村人を総動員して、コジェはネロの行方を追っていた。

 完全に破産だと思われた自分を救った人物がネロだという事に、彼は衝撃を受けていた。

(あの貧乏な薄汚い、ミルク売りのネロが!)

 混乱する思考の中、ネロの捜索から一度戻った娘は自分をただただ、見つめている。

 そこに籠るのは

(どうしてネロを信じなかったのか)

という抗議と、彼女がそれまで見せた事のない、微かな憎悪の光であった。

「外はひどい吹雪よ。いくらコートと手袋を持って行ったからって、絶対に凍えてしまうわ」

「うむ……何としてもネロを見つけねばならん」

「でも、ネロは何で銃なんかを」

 ぽつりと漏れた娘の疑問に、苦労人故に、そして娘を溺愛したが故に、暗愚であったコジェの脳髄が活性化する。


 たった一人の友達・アロアと引き裂かれたネロ。

 自分達から放火犯の容疑をかけられたネロ。それは使用人であるハンスの過失であると判明した。今になってだ。

 祖父を失い、描いた絵は落選。

 だが、こちらも今頃になって、彼の才能を見出し、扶養したいというヘンドリックなる人物が名乗り出た。

 そして……自分と家族、アロアを救ってくれた財布の事。


 重なる不運の果て、遂に運命が好転した事を知らないネロの思考も体力も既に限界のはずだ。

 これまでとそれを照らし合わせたコジェの脳裏に、ある可能性が導き出された。


「……まさか、ネロは私と決着をつけたい、とでも」


「決着ですって!?」

 アロアの憎悪は父の言葉に、一旦は鳴りを潜めた。

(確かにネロの周りは敵だらけ。けれど、もうそうではなくなった事をネロは知らない。

 だから、銃を持ち出したの?)

 銃の使い道をアロアは思い付かなかった。自殺に使うのではとも考えたが、すぐにその恐ろしい考えを彼女は打ち消した。

 そんな事は絶対にあって欲しくない!

 そもそも、あの優しいネロが、よりによって銃を手にするなんて、信じられなかった。

 が、まさか父と撃ち合いをするつもりなのか?

 もしそのどちらかの銃弾が当たりでもしたら?


 その時、それまでずっと、慌ただしく動く村人達には目もくれず、部屋の隅で伏せの姿勢にあったパトラッシュが耳を動かした。

 目をしばたたかせ、それから大きくいなないたのだ。

「そうだ、パトラッシュならネロを見つけられかもしれないわ! ネロとずっと一緒にいたお友達なんですもの!!」

「そうかもしれん。頼めるだろうか、パトラッシュ」

 老犬は彼らをちらりと見やると、わん、と一声発し、豪雪の中へ飛び出して行った。


 コジェが使用人達に犬ぞりの手配をして出発した頃には、雪がパトラッシュの足跡を掻き消していたが、他の犬が鳴く方向へそりを走らせた先にあったのはアントワープ大聖堂であった。

 人の気配を感じ、吠える犬達。

「あそこにネロが?」

「犬達の様子を見るがいい。恐らくは、間違いない」

 大聖堂の扉が開き、姿を見せたのはネロであった。足元にはパトラッシュの姿。

 ネロの手にはコジェが所有している銃。

「ネロ!」

 そりから降りて駆け出そうとした娘の肩に手が置かれた。

「待ちなさい、アロア。

 私が行こう。ネロをここまで追い詰めたのは、この私だ」

 そう告げてそりから降りるコジェの手には、猟銃があった。

「お父様!」

「私は、自らの行いが引き起こしたネロの無念に向き合わなければならない。

 私に何かあったら、アロア、お前は自分のしたい様にしなさい」

「コジェの旦那!」

「旦那! あぶねえです!!」

 使用人や村人の声が飛び交う。

 大の虫を活かす為に小の虫を殺す。それを骨の髄まで叩き込まれた連中だ。コジェが撃たれたら、その銃口をネロに向け、容赦なく引き金を引くだろう。

 そう、アロアは思った。

 しかし、足がすくんで、少女は踏み出す事が出来ない。

 少女は自分の弱さを呪い、そして、それでも呼びかけた。

「お父様! ネロ!!」


「コジェ……!」

 激しい疲労で最早半死人の如き血の気の引いた顔でネロが見やる、その吹雪の中を歩いて来るのは間違いなくコジェであった。

 後ろから周囲を固めているのは村人だろう。あの底意地の悪い、自分達を小屋から追い出した、コジェの腰巾着であるハンスもいるに違いない。

 アロアの声が聞こえた気がしたが、恐らく気のせいだ。

 コジェがこんなひどい吹雪の中を、連れて来る訳がない。


(アロア……)


 ぼやけたネロの脳裏に、笑顔のアロアが浮かび、消えて行った。


「ネロ! 私だ、コジェだ!!

 話がある! 聞いてくれ!!」

「僕に今更、何の話があると言うんだ! 貴様にとっては、僕は重罪人でしかないだろう!!

 そして貴様も銃を持っている。決着をつけよう!」

「違うんだ、ネロ! 君が届けてくれた財布には私の全財産が入っていた! 君のおかげなんだ!!」

「それが今更何になる! 貴様はこれまで通りの暮らしをし、生きて行くだけじゃないか!!

 風車小屋と穀物倉庫の火事の犯人の事は何も解決していない! 僕は火をつけた犯人のままなんだ!!」

「それは……」

「ネロ! あれは俺の過失なんだ!!」

 ハンスの叫び声だった。

「すまなかった! 俺はお前のせいにして、ずっと黙っていた!!

 お前に家も返す! あの家にずっと、」

 いていい、とハンスが言いかけた時。

「全部今更だ!」

と、ネロの声がそれを掻き消した。

 そして、彼は手にした銃を構える。


 距離は50メートルといった所か。

 銃を手にしたのはこれが初めてだ。これまでの人生で人が撃っているのを見た事はあれど、最も自分から遠い存在だった。

 そしてこの吹雪が目標を捉えにくくする。

 しかし、今の自分とアロアとの距離に比べれば―




……目と鼻の先だ。




 決心したネロの銃口がコジェにぴたりと合った瞬間―


 村人達の銃が一斉に火を吹いた。


「やめてーっ!」

「誰が撃てと言った! よせえええっ!!」

 父娘の声を銃声が打ち消し、銃弾がネロの命の灯を削ぐ様に撃ち込まれ続ける。

 ネロの手からは銃が吹き飛び、帽子を被った脳天が砕け散り、彼をかばう様にその身体に飛び付いたパトラッシュをも赤く染め上げる。

 銃撃を浴びた反動で奇妙なステップを踏んでから、少年は愛犬と共に、仰向けに倒れて行った。


 残響が、吹雪の彼方へ消えて行く。

「ネロ……ネロ!」

 アロアの声に反応したのは、パトラッシュであった。

 激しく身体を震わせながら起き上がった老犬は少年の服の端をくわえると、彼を引きずり、血まみれのドアの前に立つ。

 すると、如何なる神の御業か、ドアは彼らを招き入れるかの様に中から開いたのである。

 コジェとアロアはネロとパトラッシュとの永遠の別れを察し、駆け出したが、それを、振り返ったパトラッシュの、射すくめる様な眼差しが貫いた。

『もう付いて来るな』

とでも言うかの様な、死にかけの老犬の眼差しが。


 二人は動けなくなり、立ち尽くしたまま、ネロとパトラッシュを招き入れた扉が再びひとりでに閉まるのを見送るだけだった。


 更に、身動きが取れる様になってから、全員で取り付いても、翌朝までその扉は開く事はなかったのである。




 ネロにはそもそも、引き金を引く力など、残ってはいなかった。

 その銃の撃ち方すらも知らなかった。

 恨み連なる相手に銃口を向ければどうなるかは察しがついたし、そこから先はどうなろうが、どうでも良かったのだ。

 ただ、その状況を引き出し、たった一度でいいから、不運に挑みたかった。


 ルーベンスの絵画の前まで、そんなネロを引きずって行くと、パトラッシュも寄り添う様に身を預け……その瞼がゆっくりと閉じていく。

 絵画は、ただただ、そこにあるだけだ。

 コジェ達を迎え撃つべく侵入したネロの気持ちを、先程、ほんのただ一時、癒しただけであった。


 そこへ、声がかかった。


「子羊だった者達よ。黒山羊になる気はないか?」


 少年と老犬に舞い降りかけていた天使は、その声に、光の中へと逃げる様に去って行く。

 ズタズタに破壊されたネロとパトラッシュの身体を見下ろしている影は、絶望に黙り込んでいる魂二つをその手でつまみ上げると、自身も現れ出た闇の中へ消えて行った。


 それもそのはず、例えこの期に及んで誰が現れたとしても、疲れ切ったネロには、もう語るべき事など、何もなかったのだ。

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偽典・フランダースの犬 躯螺都幽冥牢彦(くらつ・ゆめろうひこ) @routa6969

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