第21話 対なる試練

「アリサが開けた方がいいかな?」

 金庫の前でしゃがんでいる柴山は、後ろで立っているアリサの方を見上げた。

「いえ。柴山先輩にお願いします」

「爆発したら怖いもんな。ちょっと下がった方がいい。柴山が死んでも鈴木さんはちゃんと卒業できるように俺が面倒みるから」

「なに訳の分からないことを言っているんですか。それではいきますよ」

 柴山は金庫の扉をゆっくりと開ける。直方体の闇の中には、白い長方形と濃い緑の短いスティックが待ち構えていた。

「……USBメモリと手紙、でしょうか」

 柴山はその二つを机の上にゆっくり置いた。白い長方形とはA4サイズの紙を二つに折ったものであった。

「簡素ですけど手紙かもしれません。アリサ」

 柴山から折ったままの状態で手渡されたアリサは一歩下がって中に目を通す。

 慈道には、細かい数字の羅列のようなものが透けているのが見えた。直筆ではなくプリンターで印刷したものらしい。

「次の……試練だと思います。読んでみてください」

 アリサは慈道に託した。

「どれどれ」

 慈道のすぐ横で柴山も黙読し始める。

 紙にはこうあった。

 アリサへ。この手紙を読んでいるということは、RSAについての素養を学んでいるということだ。喜ばしい限りだ。次の試練は難しい。金庫の中にあるUSBメモリには暗号化されたファイルが1つだけある。これは公開鍵


   011 289 782 368 917 185 577 184 816

   061 136 876 353 581 054 185 495 904

   208 921 003 522 878 546 092 100 008

   748 940 947 923 505 318 314 363 544

   886 911 200 401 763 646 814 149 358

   846 051 951 031 019 917 546 405 553

   820 883 293 118 646 721 952 726 956

   079 780 271 759 017 172 795 707 422

   888 913 807 256 294 570 155 456 817

   288 295 000 719 365 346 931 224 763

   142 156 674 145 767 444 022 112 763

   801 524 330 774 010 639 710 291 588

   850 370 710 809 439 004 468 188 195

   645 153 350 864 382 163 862 110 011

   554 441 508 751 087 907 467 464 723

   556 995 877 696 435 933 681 447 393

   826 125 887 703 715 505 333 922 885

   663 729 792 671 985 440 300 032 173

   961 439 378 360 267 098 950 102 194

   476 094 127 551 680 782 422 933 535

   609 844 079 551 131 147 930 487 617

   411 749 334 772 861 842 663 921 405

   216 907 801 665 598 817 527 518 216

   035 212 514 754 535 886 712 122 319

   846 085 439 977 927 045 979 125 784

   009 637 011 736 151 347 397 553 455

   590 718 644 246 758 797 286 460 809


と F_4 で暗号化してある。この試練はある意味で、第一の試練と対をなしている。

私と同じDNAが流れているのであれば、これを復号できる可能性は 0 ではないといえるだろう。ただし、これを復号することの危険性も当然分かっているはずだ。もしこの試練に挑戦するならば、ゆるがない覚悟をもって挑んで欲しい。それでは、いつかまたどこかで。

「……第二の試練だな」

 慈道は難しそうに顔をしかめて、手紙をデスクトップPCのキーボードの上に置いた。PCのすぐ左には、アリサが大学に入学した時に撮ったと思われるツーショットがフォトフレームに入れて飾ってあった。

「ですね」

 柴山はそう言ってノートパソコンを手提げから取り出す。

「パソコンまで持ってきているとは用意周到な」

「当然、こんな展開も予想していました」

 柴山はキーボードの横にあるマウスを奥へ、その脇にあった吸い殻入りのガラスの灰皿を横にどかして自分の13インチのノートパソコンを置き、恐れ多くも井上正一のキャスター付きの椅子に座った。

「井上先生は煙草を吸っていたんだね」

「え?」

 アリサが慈道の方に首を向ける。

「だって、ほら」

 慈道は顎をしゃくって灰皿を示した。

「あ、そうなんですよ」

「でも結構な年齢だよな。健康的とは言えないが」

「いや、随分前にめているはずなんですけど……もしかしたら研究がヒートアップして、クールダウンするのにまた吸い始めたのかもしれません」

「それにお酒もやってた方なのかな。高そうな酒だ」

 今度はガウスの肖像画の下の方に首を向ける。そこには、一メートル程度の高さの横に長いガラス張りのラックがあり、その中にはウイスキーのボトルが規則正しく収納されていた。

「祖父はお酒好きだったのですが、健康を考えてこれもしばらく前に止めているんです。もしよろしかったら持っていっても構いませんよ。未開封のものもあると思いますので」

「本当に? 俺は基本的にビールしか飲まないけど、これを機に嗜んでみるか。家族の人は持っていかないのかな」

「家族でお酒好きの人あまりいないんですよね。母は飲めないこともありませんが、父は筋金入りの禁酒家なんです」

「禁酒家?」

「父は画家なんですが、よくその業界だと、酔っ払うとアイディアが湧いてくるなんて話があるらしいんですよ」

「確かに芸術家ってそういうイメージあるかもな」

「父はお酒によって生まれるインスピレーションは虚像だと批判して、素面しらふの状態で描きあげたものに、理性的な人間が生み出した文明としての価値がある、っていうんですよ。ただお酒が弱すぎるだけなんですけどね」

「なるほどな。俺も一回ベロベロに酔っ払って数学をやってたら未解決問題が証明できたと勘違いしたことあるな。翌朝計算用紙を見たらでたらめな数式で埋め尽くされてたわ」

 慈道は懐かしむように語る。

「ご歓談中のところ申し訳ございませんが、これを見てください」

 柴山が椅子を横に引いてくるっと周り、ノートパソコンの画面に注意を向けた。

「確かにファイルが一つだけあります。ファイル名は“nmopf”ですって。拡張子がありませんが」

「ぬもぷふ?」

「そして、なんとこのファイル、10MBもありますよ」

「それってどんなもん?」

「写真1枚が約1MBですけど……テキストファイルは普通こんなになりませんよ。ちなみに先輩の修士論文は50KBですから、単純計算でも200倍ですね」

「ファイルの中身は見られるの?」

「ええ。テキストエディタで開いたらアラビア数字の羅列でした。所々改行されています。一行一行を秘密鍵 d で復号して繋げればちゃんとした文になる……と私は勝手に思ってます」

「こいつを復号することが第二の試練か……健二君がやってくるか、量子コンピューターが実用化されるのを待とうぜ」

「ええ、諦めちゃうんですか?」

「さっきのメッセージにあった公開鍵を思いだせ。数えてみたら 729 桁だったぞ。いや、最高位が 0 だったから 728 桁だな。今の所 N は 600 桁ほどあればセキュアだと言われているが、それを上回る桁数だ。理化学研究所のスパコン『けい』を借りてもきっと終わらんぞ」

「ちょっと意味深なメッセージもありましたよね。第一の試練と対をなす、でしたっけ」

「よく分らんが、第一の試練は公開鍵が分らなかったのに対し、今回は公開鍵が本当に公開されている。その違いじゃないかな」

「うーん、なるほどー」

「復号した結果を使えれば、この暗号を復号できるのに……なんつう循環論法だ」

 慈道は頭を無造作に掻いた。

「それにしても、今回の新しいメッセージと、俺の修論の200倍のデータを見るに、いよいよ信憑性が湧いてきたな。柴山、まさかそのデータ、お前のパソコンにコピーしようなんて考えてないよな」

「……やっぱりだめですか?」

「万が一のことを考えてこのデータは俺たちだけの、それもこの金庫内だけの話にした方がいい」

 柴山は悔しそうにUSBメモリを取り出して、金庫の中に入れた。

「アリサ。その手紙、写真撮ってもいい?」

「ああ、それは是非」

 柴山は自分のノートパソコンを閉まった。そして、キーボードの上にある手紙を手にとり、ノートパソコンを敷いた場所に置き、折り目を直して平たくしてから、スマートフォンで撮影した。

「この728桁の整数が素因数分解できればいいんですよね」

 柴山は自分自身を励ますように言った。

「やれやれ。柴山の酔狂な癖にも困ったものだ」

「やっぱり慈道さんでも難しそうですか?」

 アリサが控えめな態度で言う。

「一般的には後の試練の方が難しいだろうからな。よくよく考えれば、第一の試練はほとんど柴山が解決したようなものだし。俺にはもう手に負えないかもしれないよ」

「やっぱり難しいですよねえ」

「ちなみに、このパソコンに手がかりはないの?」

 井上昭一のデスクトップPCである。

「はい。ログインパスワードも分かりませんし、データも暗号化されているだろうから中身を見るのは無理だと言われました」

「刑事ドラマだと簡単に中身を見ているが、やっぱり難しいのか……」

 慈道はあたりをきょろきょろと見回した。

「例えばあのガウスの額縁の裏に仕掛けがあったりとか……」

「見てみます?」

 慈道と柴山は手当たり次第、書斎をくまなく探したが、手掛かりらしきものは見つからなかった。素因数分解に関する研究メモくらい見つかってもよかったのだが、それすらまったく見つからず、大体がデジタル化されているのであろうという見解である。

「こりゃ参った。ガチでアルゴリズムを発見するしかないのかねえ」

 慈道は耳に小指を突っ込んでほじりながら言った。

「でも、今日は第一の試練を突破しただけでも大きな進歩ですよ。今日はもう止めにして、飲みにでも行きませんか?」

 相変わらず柴山の言動は前向きで明るい。能天気といってもよい。

「それは構わないが、鈴木さんはお酒いける?」

「全然大丈夫ですよ」

「そう。せっかくだから世田谷の居酒屋にでも覗いて行くか」

「賛成!」

 切り替えの早い三人は駅前の居酒屋を目指し、井上の旧邸を後にした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る