第20話 女王

 井上昭一の孫娘であるアリサに残した43桁の数字を復号した結果、同じく43桁の整数


   7352955804260888321651758519707200440789038


が返ってきた。“すずき”と“ありさ”を文字コードに変換したものが復号の秘密鍵であった経緯から、この整数もある文章を文字コード化したものとみるのが妥当であろう。

「こいつを文字に直せるのか」

 暗号理論など数学的な知識はともかく、コンピューターに関する実践的な知識には乏しい慈道が、柴山に尋ねる。

「おそらく。まずは16進法に変換します」

 柴山は「2進数、8進数、10進数、16進数相互変換ツール」(https://hogehoge.tk/tool/number.html)にアクセスして、その43桁の数字をペーストして変換を試みた。一瞬で16進数


   54686520517565656E206F66204D6174682E


が表示される。

「よし」

 柴山はそう言って手際よく、今度は文字コードを文字列に変換するサービスを行っている「ahref」(http://www.ahref.org/app/mozicode/)というサイトにアクセスする。

「ふう。先輩。この変換ってボタンを押せば恐らく文字データが返ってくると思います。準備はいいですか?」

 柴山の指には手汗がついている。

「さっさとやれよ。じれったい」

「では……」

 柴山はボタンを押す。

「どうだ?」

「す、凄い……やっぱり文字データでした」

 柴山の声は震えている。一般的に、でたらめの整数を変換してもアルファベットや日本語とも異なる記号を含んだ文字化けした羅列が返ってくる。今、柴山の瞳に映っている“The Queen of Math.”という文字列が意味するものは、これまで憶測でしか考えることのできなかった様々な要素が、すべて正しかったということの裏付けである。それは、井上昭一が遺した意図を汲み取ることができたということを意味する。鍵はアリサ自身であるという抽象的な手がかりだけで、よくここまで辿り着いたものだと、柴山はカタルシスを感じずにはいられなかったようだ。

「The Queen of Math」

 柴山は呟くように言った。

「数論か」

 慈道は涼しい顔をして間髪入れずそう返した。

「え?」

 柴山がそう言うのも無理はない。確かに普通の人間から見れば会話としておかしい。

「あ、いや。ガウスの言葉だ。Mathematics is the queen of sciences and number theory is the queen of mathematics。つまり、数学は科学の女王であり、数論は数学の女王。ということらしい。よく意味は分からないが、ガウスが遺したのだからそれなりの思いがあるのだろう。日本は天皇制だから、女王という言葉に対する認識があまりないからな」

「す、凄い! さっすがー」

 柴山は慈道の肩を何度か軽く叩いた。

「わ、分かったから叩くな」

「パスワードが“The Queen of Mathematics”なんでしょうか」

 アリサが言った。

「可能性はある。ただ、井上先生のメッセージでは、パスワードのヒントといっていたから、“Number thoery”が答えだってこともある。まあ、どっちも試してみればいいだろう」

「わお! 楽しみー。それじゃあ、行きましょう」

 柴山が溌剌とした声をかける。

「は? 行くってどこに」

「井上先生の家に決まってるじゃないですか」

 慈道は展開が急すぎて呆気にとられた。それと同時に、柴山がジャージを着ていないことも頷けた。

「確か世田谷区だったよな」

「そうですよ」

「面倒臭いなあ。電車が必要じゃんかよ」

「でもいずれ井上先生宅の金庫は拝みにいくつもりでしたよね」

「まあ。しかし急すぎる」

「どうせ暇なんですよね?」

「失敬な奴だな。やることがないならないで、自分の研究に没頭するわ。そもそも三限に講義ないのか?」

「私はありません」

 柴山はきっぱりと答える。

「あの、私は幾何学序論が……」

 アリサは決まりが悪そうに言った。

「四限以降は?」

「ありません」

「私もです」

「だったら、先輩として忠告するが、学生の本分を忘れるな。行くにしろ三限が終わってからだな」

「うー、やっぱりだめかー」

 一刻も早く井上昭一の金庫を開けたいという欲求が激しく燃え上がっているのは間違いなさそうだが、数学的なことに関しては絶対である慈道の方針に背くことはできなかった。

 西陽が眩しくなり始めた夕方四時過ぎに、世田谷区の富裕層が多く住んでいると思われる閑静な住宅街に三人は訪れていた。ビルトインガレージで三階建が基本であり、シャッターが二つある住宅も珍しくない。無骨なデザインを基調とし、屋根にソーラーパネルを設置している家庭も多数見られる。住人が高級車を乗り回している光景を想像すると、表の路地の窮屈さが少々滑稽にも見える。

 井上昭一の旧邸はそんな高級住宅街の一角にあった。突起物などが最小限に抑えられており、曲線的なデザインも皆無で、極端に言えば直方体を重ねてできたような二階建ての建物だ。慈道はリポートステーションのVTRで映っていた井上の映像を見て、黒電話がありそうなぼろ家をなんとなくイメージしていたが、それはまったくの思い違いで、ガレージこそ内蔵されていないものの、理知的にデザインされた無駄のない質実剛健という言葉が相応わしい建造物であった。車庫は二台分あり、長女のエレナ、長男の恭介が子どもを連れていつでも遊びに来られるようになっている。

「核ミサイルが直撃しても壊れそうにないな」

 慈道は率直にそう表現した。

「確か十年くらい前にリフォームしたんです」

「なんか緊張しちゃいますね。ここだけじゃなく、周りの家もがっちりしているというか……八王子とはやっぱり印象が違いますよね」

「さあ、どうぞ」

 アリサが合鍵で玄関のドアを九十度開けて固定し、中の電気を点けた。少々萎縮している慈道と柴山は「お邪魔します」と言って申し訳なさそうに敷居を跨いだ。誰も住んでいないと分かっている家に入るということは、どことなく無機質な寂寥の感を与える。

「綺麗ですね」

 柴山が辺りを見回しながら言った。

「家政婦さんがいつもお掃除してましたからね」

 玄関を閉めた後、施錠をしたアリサは靴を脱いで二階の書斎へ案内しようとした。二人もしっかり靴またはサンダルを揃えて、アリサに続く。

「ここには誰も住まないの?」

 階段を登っている途中に、慈道が尋ねた。

「そうですね。週末になると家族がやってきて荷物を整理していくんですが……叔父も家庭をもっていますから、ここに住む理由はほとんどないんですよね。家政婦さんも簡単にお掃除だけして辞めていきましたので」

「もし俺が暗号を復号したらお礼にもらえないかな」

「お? 先輩にしては珍しいですね。住めりゃどこでもいい、みたいな感性をお持ちですよね」

「ま、まあな。ただ、かの井上先生が研究に没頭した住処とあらば、俺たちにとってはある種のパワースポットともいえる。研究も捗るかもしれん」

「あ、先輩は、U.F.O.とか、エイリアンとか信じてる方だから。意外と縁起物なんかも大事にするのよ」

「純粋な理系の方かと思いましたけど、意外ですね」

「理屈だけですべてが説明できるとは思っていないからな。特に柴山の行動パターンは正直意味不明だ。カオスという言葉がふさわしい」

「言われてますよ」

「へんだ。人のこと言えないよね」

「そうですね」

 アリサはニコッと笑った。

 井上の書斎は二階の北側にあった。奥には細長い大きな机があり、A4サイズの書類が入る五段重ねの引き出しボックス、21.5インチのデスクトップPC、電話機が設置されていた。入口と机の中間には来客用のテーブルが設置されており、二人掛けのソファーが二つ、互いに向き合っている。

「へえ、ここが井上先生の書斎か。大学教授の研究室みたいだな」

「数学の本ばかりですね。あ、コンピューター系のものも」

 柴山は部屋に入って右手の壁際にある本棚を眺めていた。

「鈴木さん。あの額縁のビートたけしに似てる肖像画、誰だか知っている?」

 慈道は本棚の反対側の壁にある肖像画を指差して言った。

「何度もお名前が出ているガウスですよね」

「正解」

「祖父はよく言ってました。ガウスは本当に偉大な数学者だって」

「数論に関しておびただしい数の功績を残しているし、物理学や天文学にも明るいしな。オイラーを信奉する者は多いが、個人的にはガウスの方が好きだな」

 そう言いながら慈道は、柴山に続いて本棚にある書物を一冊一冊確認している。井上昭一ほどの有名な数学者が、普段、どういった書物を側に置いてあるのか気になるのであろう。

「これは……」

 慈道は薄い墨のような色の、ハードカバーの書籍が目に引っかかった。日本評論社の『ガウスの数学日記』である。

「どうしたんですか?」

 柴山は声を掛けた。

「これ欲しかったんだよな。本屋で立ち読みして買おうか迷っていたんだ」

「『ガウスの数学日記』、ですか」

「ガウスが実際に書き遺していた数学日記を和訳、解説したものだ。この数学日記の冒頭は、この前言った正17角形の作図問題についてから始まる。ガウスが数学者になろうとしたきっかけとも言われている。あまり数学史とかは知ろうとは思わないが、ガウスに関してだけは俺も興味があるんだよな……」

 慈道は『ガウスの数学日記』をぱらぱらとめくりながら、簡単に追いかける。

「待てよ……思い出した! そうだ。これだ!」

「ど、どうしたんですか?」

「井上先生のTwitterの最後の発言だよ」

「一つの法則が見つかった。それが証明されたならば、システムが崩壊の域へと導かれるだろう、ですね」

 アリサがすらすらと答える。

「ああ。あれはこの数学日記の抜粋だ」

「本当ですか?」

「ちょっと待ってろ……確か……ここだ」

 慈道は24ページを開く。

「……完璧に一緒じゃないが、この発言をもじったんだな。“ひとつの法則が見つかった。それが証明されたなら、システムが完成の域へと導かれるのだ”とある」

「完成が崩壊に変わってますね。そのガウスが見つけた法則ってなんなんですか?」

「実は謎なんだよ。あくまで日記だから、情報が断片的というか。アイディア帳みたいなものだしな。ちなみに三日後の項目は、“GEGANを征服した”で、これもまったくもって意味不明。しかし、あのガウスが遺したメッセージだ。必ず数学的に重要な意味があるだろうと思われる一方で、それが何かを知る術は残されていない。タイムマシーンが発明されたら、ガウスマニアは真っ先に1796年のブラウンシュヴァイクに行くことだろう」

「祖父は、そのガウスのメッセージにあやかったんでしょうか」

「……だろうね。可能性としては、素因数分解の新しいアルゴリズムが挙げられるが」

「そして、それがあの金庫の中に眠っているかもしれない」

 柴山は、そう言って書斎の机の足元にある風呂敷が被さった鼠色の金庫の方に目をやる。すると、三人の目線が一点に交わった。

 三人は静かに金庫の前に集まった。柴山はしゃがんで風呂敷をめくり、慈道とアリサは腕を組んで金庫を睨むように注視する。

「おう、らしくなってきたじゃん。電子式って言ったよな。ダイアルとかじゃなくて文字を入力するんだよな」

「ですね。ほらここ」

 柴山は備え付けの液晶と、小さなキーボードを指差した。柴山が適当にボタンを押すと、液晶に“PASSWORD?”と表示される。

「大文字・小文字の区別はなさそうですね。スペースもなさそうですけど」

 柴山は適当にキーを押して、仕様を確認している。

「よくドラマとかで、スペース混みのパスワードが正解だったりすることが多いけど、普通はスペースがあるバージョン、ないバージョン、大文字小文字があるバージョン、ないバージョンで何度か試さないと普通ヒットしないよな。よく一発で正解できるなっていつも思う」

「テンポを悪くしないための配慮じゃないですか。その点、これは完全にアルファベットの組合せだけだから、そういったパターンは試さずにすみますね」

「さすが井上先生、俺たちの熱が冷めないように配慮してくれてるな。鈴木さん」

「はい」

「これって回数制限とかあるのかな?」

「どうでしょう。特に考えもなしに10回くらい入力したことがあるので、多分大丈夫だと思うんですけど……」

「回数オーバーで爆発でもされたら怖いしな」

「なわけないじゃないですか。ドラマの見過ぎですよ。とりあえず


   “THEQUEENOFMATH”


でいってみますよ」

「よしいけ!」

 柴山は手際よくボタンを押していき、最後はRETURNと書かれたキーを押す。

「だめ……でしょうか」

「何も起こらないですね。それじゃあ、一応


   “THEQUEENOFMATHEMATICS”


で」

 やはり何も起こらない。

「それでは、本命、


   “NUMBERTHEORY”


でいきます」

 慈道はより強く腕を組み、アリサは固唾を飲み込み、柴山は深呼吸をする。

 柴山は一つ一つを噛み締めながら押していった。

 最後のRETURNを押した瞬間にカチャン、という音が鳴った。

「お?」

 三人が同時に同じことを発声した。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る