夏の破片

三津凛

第1話

「空を飛びたいと願うのは、もう二度と飛ぶことの出来ない人だけよ」


夏は直ぐそばまで来ていた。

白は強い色。時に眩しすぎて殺されそうになる。

「だって、自由のさなかにいる人は今さら空を見上げないし、羽ばたきたいとも思わないもの」

マコちゃんはお父さんから送られてきた絵葉書を裏返して言う。彼女のお父さんは今はスイスにいるらしかった。地球の裏側、海の向こう側から律儀に届く絵葉書はもう随分な量になっている。

それはそのまま、マコちゃんがいかに長くこの病棟に留め置かれているかを物語っていた。不思議とマコちゃんの周りには潮の香りが、海の気配がする。色とりどりの絵葉書と、ヨーロッパやアジアの国々の言葉で書かれる「こんにちは」と文末の「愛してる」の文字。

わたしはあの頃、マコちゃんのことをとても羨ましく思っていた。世界中を飛び回るお父さんと、絵葉書たち。

でもマコちゃんはわたしの方が羨ましいと口を尖らせた。

「だって、ハコちゃんのお父さんは直ぐそばにいるじゃない。わたしのお父さんはずっとずっと遠くにいるもの」

今なら分かる。

わたしたちは無い物ねだりをしていただけなのだ。マコちゃんのそれが切実に聞こえるのは、なんとなくわたしもマコちゃんも薄々長くは生きられないだろうことを予感していたからかもしれない。



今度はイギリスへ行ったマコちゃんのお父さんがラムネ菓子を送って来た。マコちゃんはラムネが大好きだったのだ。ひと粒ひと粒摘んで愛おしそうに食べる。色とりどりの星屑を堕として固めたようなそれが物珍しくて、わたしは心底そんなものを送って来れるマコちゃんのお父さんを羨んだ。

それからは色々な国のラムネ菓子が絵葉書のお供としてやって来るようになった。美味しいものもあれば、そうでないものもあった。

次第にマコちゃんはそれに口をつけることはなくなっていった。それと同時に、わたしは幸運にも病棟を変われることになったのだ。

それから、マコちゃんとは会わなかった。わたしはちっとも誇らしいと思わなかったお父さんの骨髄に救われて、病院から抜け出ることができた。



わたしは海辺の街に越した。子どもじゃなくなった。外国がどんなところかも知った。

憧れは次第に色褪せて、陳腐なものになっていく。日に晒した絵画が色を失ってゆくように。でも、それも悪くはない。

夏休みの時だった。真っ白な昼間に凪いだ船着場を通り過ぎて行く途中で、「ハコちゃん」と呼び止められた。わたしは振り返って、声のした方に目を凝らす。積荷の群れから、白い女の子が懐かしそうに手を振る。

「マコちゃん」

わたしは記憶の糸が一瞬で手繰り寄せられるのを感じた。懐かしさに声が上ずる。

「久し振りね」

マコちゃんは滑るように近づいて海を眺めた。

「マコちゃんもここに越して来たの?」

マコちゃんは答えずに、カモメの行く末や、揺れる船の舳先を見ている。この子の周りにはどこか海の気配がしていたことをわたしは今さら思い出した。

こうやって、真っ白な夏の昼間の中にいることが信じられない。

しばらく潮風に2人で吹かれていた。マコちゃんはおもむろに口を開く。

「空を飛べると素敵だって思わない?」

「そうかしら」

わたしは微妙な顔をしてみせた。マコちゃんは少し暗い顔つきになる。

「ねぇ、空を飛びたいと願うのは、もう二度と飛ぶことの出来ない人だけよ。だって、自由のさなかにいる人は今さら空を見上げないし、羽ばたきたいとも思わないもの」

わたしは2人の間をカモメが鳴きながら横切って行くのを目だけで追った。マコちゃんは健気に続ける。

「ハコちゃん。わたしのお父さんがね、一緒に外国へ行かないかって言ってるの。何年もかけて世界中を回るのよ。のんびりとね」

「ふふ、それは素敵ね」

「本当よ、ねぇ行きましょうよ」

マコちゃんは爽やかに笑う。わたしは色とりどりの絵葉書と懐かしいラムネ菓子を思い出した。

「勉強なんかはいつでもできるわ。海の上でも陸の上でもできる。わたしはハコちゃんに一緒に来て欲しいの」

わたしは何も考えなかった。

「えぇ、行くわ」

「じゃあ、明日のお昼同じ時間にここに来てね」

マコちゃんはそう言って、来た時と同じように巨大な積荷の隙間に消えていった。



わたしは約束した通りに、船着場へと行った。形ばかりの荷物をまとめて抱える。

だが待てども待てども、マコちゃんもそのお父さんもやっては来なかった。次第に眠気を覚えて、心地よい日陰のある積荷の隙間に寝っ転がってわたしは待つことにした。


目がさめると、もう夜だった。

そして気がついたのだ。

なんておかしい。マコちゃんは夏が終わる前に死んでしまったじゃないか。わたしが退院して1年ほど経った初夏の頃に、彼女のお母さんから手紙が届いた。外国からわざわざ送って来た絵葉書だった。あの後、マコちゃんは海の向こう側で死神から逃れようとしていた。ラムネの屑を食べながら、それを残して逝ってしまった。

どうして今まで、そのことを忘れていたのだろう。昼間の白さを思った。その中に佇むマコちゃんを思った。


夏は直ぐそばまで来ていた。

白は強い色。時に眩しすぎて殺されそうになる。


わたしは凪いだ船着場を彷徨った。誰もいない。夜風は相変わらず生ぬるい。

ふとマコちゃんが消えて行った積荷の群れの入口に真っ白な破片が何粒か落ちているのを見つける。

ラムネだった。

わたしは指にとってそれを眺めた。

ふと、マコちゃんの言葉がよみがえる。


空を飛びたいと願うのは、もう二度と飛ぶことの出来ない人だけよ。

だって、自由のさなかにいる人は今さら空を見上げないし、羽ばたきたいとも思わないもの。


あれはマコちゃんであって、マコちゃんじゃない。

これもラムネであって、ラムネじゃない。


それはもう二度と還っては来れない、夏の破片だった。

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夏の破片 三津凛 @mitsurin12

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