第3話 笑えない女

 長い長い商店街を通り抜け、チサは指定された「家」にたどり着いた。


 古びたレトロマンションの一室。


 マニュアル一式と一緒に送られてきた鍵でドアを開いた。玄関で半乾きの傘を折り畳んでいると、奥から先客がひょこっと顔を出してきた。


「あ。こんにちは。時間ぴったりですね」


 抑揚の抑えた淡々と、しかし心地良く、柔らかく爽やかな声。


「はじめまして」ではないけど、初めての挨拶。


 これから3ヶ月間、チサの「息子」として共同生活を過ごす男の子——のはずだが。


 どう見てもおっさんだ。


 美声のおっさんだ。


 挨拶も表情も何も、マスクをはずすのも躊躇した。


 この人がどうしてこんなところに——と。チサはまず自分の目を疑った。


 清潔感のある身なりに、いかにも若々しくシュッとした体型。丸い目は大きい。パーツバランスだけ見ると、間違いなく童顔に振り分けられるタイプ。


 残念ながら、ほうれい線の自己主張があまりにも強すぎる——くっきり出るほうれい線を注目しなければ、これがまた不自然なほどシワの見当たらない顔。


 おまけに肌質は白くてきれい。


 日々スキンケアに励んだ成果であろうか。


 しかし、広い襟ぐりから見える首元や、黒い七分袖から伸びている両腕まで、やはり歳月の刻んだ痕跡が隠しきれない。


 おっさんだ。


「老けた男の子みたい」なども言おうと思えば言えなくはないけれど、基本おっさん。


 おっさんでしかない。


 疑う余地なんてカケラもない。


 若作りのおっさん以外——性転換した若作りのおばさんぐらいしか可能性がない。


 ありえない。


 笑えない。


 ◇


 机に置いてある器具一式を巧みに使い、おっさんは慣れた手つきでコーヒーを淹れてチサに差し出す。


「どうぞ」


 こちらの砂糖やミルクはお好みで入れてくださいねと言い、続いて自分の分を淹れはじめた。


 角砂糖。今どきめずらしい。


 室内を見通せない玄関から、中に入って少し左奥にある長机へと案内され、入り口を背にして座ることになった。普通にはダイニングとして使うスペース。


 右手にシステムキッチンが見える。壁付けで収納棚も多く、見た目使いやすそうなデザインだが、真っ赤なタイルが覆うキッチンパネルが目を引く。

 調味料の瓶や調理道具のたぐいはざっと見で一切見当たらないが、作業台からシンク周りは大量なお酒のボトルが置いてある。


 お互い今日からここに入居予定なのに?


 すでに誰かの住処すみか——でも生活感のなさから、どちらかというと事務所か、あるいは仕事部屋のようだ。


 さっきから座らせていたのも明らかに会議用イスで、ミーティングテーブルの向こうの壁に何も書いていないホワイトボード、上にプロジェクター用のスクリーンが見える。


 おかしすぎる——怪訝けげんそうな視線で部屋を見回すチサを、おっさんは終始うすら笑顔で眺めていた。


 まるで仕掛けが首尾良く運んだのを楽しんでいる、悪戯いたずらのように。

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