栄光を掴む手

きじとら

【短編】栄光を掴む手

自分で言うのもなんだが、俺には才能があった。

誰も思いつかない表現を用いて、誰も想像できない夢の物語を紡ぐことができる。

作品を生み出し続けるだけの時間も、集中力も持ち合わせている。

書きたい物語が常に脳のコップを満たし続け、一滴もこぼさないよう必死で手を動かす。

俺はこの右手で、まさにこれから栄光を掴むのだ。


ふいにジジジ……と虫が焦げるような音が、頭上から聞こえてきた。

天井を見やると、タイミングを計ったように部屋の電球が明滅し、すぐに闇が空間を支配した。

これには参った、こうも暗くては作品を仕上げることなどできない。

そういえば最後に食事をとった日はいつだっただろうか。

筆が止まったことで、忘れていた空腹感を思い出してしまった。


仕方がない、彼女に頼むとしよう。


彼女の居場所は、白を基調とした潔白な部屋だ。

ほのかに鼻をかすめるアルコールの香りもまた、彼女らしさを引き立てている。

突然訪ねてきた俺の話を聞くなり「大丈夫だから」と、ベッドに寝かせてくれた。

横たわってしばらくすると、脳の奥が徐々に重たくなってきて、ああ、俺は本当に大丈夫なんだな。


瞼を開くと、先ほどと同じ光景が広がっていた。

白い空間を背景に、微笑む彼女。

しばらくぶりに深く深い眠りについたおかげで、頭がいつも以上に冴えている。

一刻も早く原稿のもとへ帰りたい俺は、感謝の言葉とともに彼女の右手をしっかり握り、家路についた。



住み慣れた我が家に帰宅するなり真っ先にしたことは、作業部屋の電球の交換。

先ほどとは打って変わった、蛍光灯の激しい自己主張に目が痛くなるほどだ。

ついでに焼酎と瓶ビール、それと白ワインを購入した。

もちろん食料も一緒だ。

こいつらとまたいっしょに執筆できるなんて、俺はなんて幸せな奴だろう。

胸にこみ上げてくるこの思いを原稿に載せるべく、再びペンを走らせた。


あれからどのくらい時間が経っただろうか。

集中力が途切れるという懸念から、我が家にはテレビも携帯電話も新聞もない。

おかげで日にち感覚もまったくないが、おかげで執筆活動に打ち込むことができるのだ。

ずっと座りっぱなしだったせいか、ふくらはぎを中心に体中がとてもだるい。

そういえば酒を飲んだのにほとんどトイレにも立っていなかった。


嫌なことというのは重なるものだ。

今度は万年筆がインクづまりをおこし、文字をしたためることができなくなった。

この万年筆は俺が敬愛する作家が使用していたものと同じ、イギリスのブランド品だ。

長年連れ添った友人であり、妻であり、つまりはかけがえのないパートナーをこのまま放ってことはできない。

体の調子もいまひとつだし、俺は彼女に相談すべく家を出た。


突然の訪問に、彼女は驚きつつも温かく迎えてくれた。

ベッドの上で、久しぶり酒を飲んだこと、万年筆が使い物にならなくなったことを話した。

彼女は俺のことを絶対に否定しない。

絶対に「夢を追うのはやめろ」「現実を見ろ」なんて、ふざけた言葉を口にしない。

それが俺にとって、どれだけありがたいことか。

俺は本当に、才能があるんだよ。


目を覚ました俺は、いつものように彼女にお礼を言って右手を差し出してから、帰路についた。


新しい相棒たちと連れたって、住み慣れた我が家をくぐる。

万年筆のインクづまりは修理可能だと言われたが、数週間は離れ離れになってしまう。

執筆活動に与える影響が計り知れなかったため、思い切って新品に買い替えた。

もう一方のビニール袋から、相棒その2とその3の、日本酒とブランデーが顔を出している。

やはり新品とアルコールは、俺の心のガソリンだ、実にすばらしい。

逸る気持ちを抑えきれず、机にかじりついた。


おかしい。

体がアルコールをまったく受け付けない。

潰れたペンだこを保護しようと、消毒液のフタを開けただけで嘔吐してしまった。

相変わらず体中がひどくむくんでいる。

買い溜めていた食料も尽きた。

俺は彼女に会いに行った。


すっかり通い慣れた道なのに、目的地がひどく遠く感じる。

今すぐ座り込みたい気持ちを必死に殺し、彼女の居場所を訪ねた。

彼女に経緯を話し、もうあまり頻繁に外へ出たくないので、今回の依頼は2つにした。


ベッドの上で目を覚まし、しばらくして彼女に右手を差し出した。

君が握ったこの右手は、必ず栄光を掴む。

だから大丈夫だ、と告げて帰路についた。

彼女からの返事は聞こえなかったが、気になどしない。


いつもの帰り道は、いつもと違って世界がとても狭まっていた。

自分が望むものだけを視界に入れるようにして、カップラーメンを抱え込めるだけ買い込む。

「1カートン買うと現金10万円が当たるチャンス!」なんていう煽り文句に釣られて、20年ぶりにタバコまで買ってしまった。

家に着くなり、早速火をつける。

鼻を抜けるメンソールの煙が肺に充満し、くすぶっていた精神が一気に高揚した。

俺の物語たちが、早く世間に出たいと急かす。

聖騎士、女教師、千年の時を生きる魔女、トラブルに巻き込まれやすい高校生、古のドラゴン。

みんな俺の大事な子どもたちだ。

ずっと待たせていて、暗い場所に閉じ込めていて、本当にごめんな。

俺はすっかり使い慣れた万年筆を握りしめた。


呼吸がうまくできない。

息を吐き出すたびに、ヒューヒューと音が鳴る。

狭まった視野にはもう慣れたが、相変わらず全身の調子が悪かった。

むくみ、痛み、嘔吐、呼吸不全。

体がどんなに不調を訴えても、空腹感は絶えず寄り添っている。

人間は食べ物を口にしないと生きられない、欠陥品だ。

そうだ、次は光合成で生きる人々の物語を書こう。

俺は彼女のもとへ向かった。


彼女は俺の顔を見るなり、いつものように優しく微笑む。

その笑みを見た瞬間、ああきっと今回も大丈夫なんだ、と安堵した。

それなのに、今日は初めてベッドではなく、椅子に座るように促された。

押し留めていた暗い感情が鎌首をもたげる。

大丈夫、大丈夫だから、と今にも震えようとする右手を左手で強く握る。

俺を見据える彼女の目を見た瞬間、心臓が強く跳ねた。


「もう手術はできないわ」


対面に座った彼女は、俺が最も聞きたくなかった言葉を紡ぎ続ける。


「あなたの体でお金になる部分なんて、もうないの」

「これからは自分の労働力で借金を返さなきゃ」

「夢と借金を膨らませるばかりで、現実も結果も残せなかった自分を悔やむことね」


結果を残せなかった?

違う、それはこれから残すものだ。

だって俺には才能がある。

さっきも僅かな経験から、光合成で生きる人間たちの話を思いついたばかりだ。

俺の新しい子どもがまた増えたんだ。

暗い場所から引っ張り出して、日の当たる暮らしをさせなきゃいけない。

だからもっとたくさん、もっと早く、書きたいんだ。


「ああ、でも」

「お金になる部分がないってのは、あなたがこれからも生き続ける、という前提の話だから」

「その前提を取っ払えば、借金は全額返済できると思うの」


目の前が真っ暗になった。

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