第二章 文学少女の悩みゴト 7


 僕が文芸部の扉を叩いたのは、翌週の月曜日。その放課後のことだった。灯里あかりちゃんも誘ってみたけれど、彼女は先約があると言っていた。


 扉を開けると、机の前に瀬尾せお先輩が座っていた。僕を見て、きょとんとしている。彼女の手元にはノートパソコン。あれで小説を書いているのだろう。


 彼女の顔には灯里ちゃんチョイスの銀縁眼鏡が掛けられ、髪も分けてある。顔がよく見えた。姿勢だっていい。だれがどうみても、美人のお姉さんだ。


「こんにちは。ええと、お邪魔しても大丈夫ですか?」


「あ、は、はい。こんにちは。えっと、どうぞ」


 戸惑いながら彼女は立ち上がり、隣の椅子を引いた。どうぞ座ってください、という丁寧な気遣いだろうけど、そこは瀬尾先輩の隣だ。普通は隣同士で座らないだろう。ふたりしかいないのだから。

 しかし、わざわざ別の席に座るのも感じが悪い。大人しくそこに腰かけた。


 まずは瀬尾先輩に軽く頭を下げる。


「すみません、作業中に。突然押しかけておいてなんですけど、僕がいても大丈夫ですか?」


「だ、大丈夫ですよ。わたし、人がいても集中しちゃえば気にならないので……。でも、青葉あおばくん。どうして文芸部に?」


 彼女は可愛らしく小首を傾げた。彼女の美貌が前面に押し出された今、そういう仕草の破壊力がすごい。それに耐えながら、僕はここに来た目的を告げる。


「文芸部の文集を読みたくて。ほら、僕、『成実なるみ一木いちもく』さんのファンなんですよ。あの人の作品が置いてあるなら読みたいんです」


 照れながらも、彼女にそう伝えた。


 成実一木。僕が中学のとき、文芸部だった知らない先輩。文集の小説を読み、僕が夢中になっていた作者だ。好きだったから読みたい。そういう思いも当然あるけど、何より土曜日の瀬尾先輩に当てられた。好きな作家を語る瀬尾先輩にだ。彼女は『七森詩音』をきらきらした顔で語っていた。


 あれを見て、久しぶりに本が読みたくなったのだ。読書熱が再燃した。ここには、僕の好きな作者の作品がたくさんある。


 だから、文芸部にやってきた。文集を読みに。まぁ僕も一応文芸部なので、常に顔を出すべきなのかもしれないが、そこは無理しなくていいと言われている。


 そんなやさしい瀬尾先輩なら、二つ返事で読ませてくれると思ったが、予想外の反応を見せた。


「――――――」


 固まっていた。頬を赤く染め、目を開き、真一文字に口を閉じて動かない。


 先輩? と声を掛けると、はっとして、「あ、あぁぁ、はい、ぶ、文集ですね!」と慌てて立ち上がった。ぎくしゃくとした動きで本棚に向かう。そこには大小様々な文集がみっちりと収められていた。


「こ、ここから先の文集にはすべて、な、『成実一木』の作品は入ってますから……、す、好きに読んで頂いて構いません」


「え。全部の文集にですか? すごいな……。たくさん読めるのは嬉しいですけど」


「う、嬉しい……、ですか、そう、ですか……」


 おどおどと手を擦り合わせ、困り顔で頬を染める。どうしたんだろう……。疑問に思いながらも、僕は文集を何冊か取り出す。そうしながら、密かに気になっていたことを尋ねた。


「そういえば先輩、イメチェンしたからクラスで話題になったんじゃないですか?」


「わ、話題と言えるほどじゃないですけど……、やっぱり驚かれました。話したことのない男子に声を掛けられたりとか……」


 困ったように瀬尾先輩は笑う。まぁそれもそうだろう。それだけ彼女は美人だし、変身っぷりは華麗なものだった。僕が眼鏡屋さんで語彙力を失ったように、知性を失ったクラスメイトも多そうだ。


 僕は文集を机に置き、一冊手に取る。成実一木の名をもくじで確認した。この人の小説が目的だけど、せっかくだから全部読もう。と、そこで気が付く。そういえば、瀬尾先輩はどんな小説を書くんだろう。彼女の文章を僕は知らない。

 小説を書く手伝いをしながら、彼女の小説を読んだことがないのだ。


「あの、瀬尾先輩。先輩のペンネームって何ですか?」


「え? あぁ、それは……、っと。い、いえ、わたしのペンネームはお気になさらないでください」


「……? え、なんでですか。教えてくださいよ」


 拒む理由はないと思う。しかし、彼女は視線を忙しなく動かし、口をもごもごとした。


「え、ええと、恥ずかしい……、そう! は、恥ずかしいので! 内緒にさせてください……」


 ……そういうものだろうか。 


 腑に落ちなかったが、嫌がるなら無理に聞き出すこともない。僕は文集に視線を落とした。もくじには、タイトルとペンネームが並んでいる。瀬尾先輩もこの中にいる。


 しかし、多種多様のペンネームの中に、瀬尾先輩の痕跡は見つからなかった。代わりに、ただただペンネームに感心する。


「瀬尾先輩。ペンネームってこれ、ぜんぶ自分で考えるんですよね」


「へ? あ、あぁはい。大抵の方はそうだと思いますが……、それがどうかしましたか?」


「いえ、すごいなぁと思いまして。こういうのって、どこから考えるんですかね?」


 僕には見当もつかない。

 彼らは、自分に自分で名前を付ける。それはなかなかに難しそうだ。紙面にはたくさんの名前が並び、この中に瀬尾先輩の考えた名前もある。それが何だか不思議だった。

 瀬尾先輩はにこりと微笑む。


「そうですね……、音の響きや文字の並び、自分の名前から取る人もいます。あとは好きなもの……、好きな作家からもじったり、とか」


 なるほど。多種多様のペンネームと同じく、その由来も様々らしい。面白い。僕は感心しながら、文集のページをめくった。


 ぎっしりと文字が並ぶ。それを目で追いながら、その物語を体感していく。文集は分厚くて、持っていると重く感じた。ひとつひとつの作品にボリュームがある。僕はそれをせっせと読み進めていった。


 すると、横からパチパチという音が聞こえてくる。タイピング音だ。そっと隣を窺うと、彼女は真剣な表情で、ノートパソコンを覗いていた。指がキーボードを叩いている。


 さっきまではちゃんと背筋を伸ばしていたのに、今はすっかり猫背だ。時折、考え込むように手が止まり、眼鏡の位置を直して再開する。タイピング音が鳴り響く。それ以外には何も聞こえず、規則的なその音を聴きながら、僕は文集に没頭していった。


 ぱたん、と文集を閉じたとき、どれほど時間が経っていただろうか。すべてに目を通していると、それだけ時間が掛かってしまう。でも面白かった。

 

 もちろん、普段読むような小説にはどうしても見劣りするけど、これを書いているのは自分と変わらない高校生だ。なんだか不思議な気持ちになって、純粋に楽しく読むことができた。


 読み終えた文集を置くと、瀬尾先輩がこちらをじっと見つめていた。なぜか様子を窺っている。僕と目が合うと、慌ててディスプレイに向き直り、焦ったようにマウスを操作する。どうしたのだろうか。

 僕が首を傾げていると、彼女は急に伸びをした。


「う、うーん、疲れちゃったな」とめちゃくちゃ棒読みで言葉を付け足す。そして、まるで今気付いたかのような素振りで僕を見て、白々しく言う。


「お、え、あ、青葉くん、もう、ぶ、文集読み終わったんですか?」


 この人、へったくそだな!


 あまりにぎこちない動きに、思わず心の中で叫ぶ。口に出せないほどの大根役者っぷりだ。ひどすぎる。ただ、それを指摘するのはさすがに憚られた。大人しく先輩の演技に乗っかる。


「あぁ、はい。ちょうど読み終わりました。面白かったですよ」


「そ、そうですかー……、あ、あのー……、青葉くんの好きな、その、な、なる……、好きな作者さんのはどうでしたか?」


「『成実一木』さんのですか? いや、すごく良かったです。ほかの人の作品も面白かったので、こう言うのも申し訳ないんですけど、ずば抜けて良かったですね。学校近くのお店が出てくるんですけど、描写がそのままで笑っちゃいました。ストーリーも意外性があってびっくりしましたよ。やっぱ僕、この人の作品好きです」


 僕が笑顔で彼女に伝えると、なぜだか瀬尾先輩は固まってしまう。両手を握りながら目を瞬かせ、赤い顔で僕の話を聞く。「そ、そうですか……、そんなに、いいですか……、んん……」と口ごもり、そっと視線を下に降ろしてしまう。忙しなく髪を撫でていた。


「か、顔熱い……、はー……」


 ぱたぱたと手で顔を扇ぐ。まるで、自作品が褒められたかのような反応だ。それならわかりやすいけど、『成実一木』は卒業した彼女の先輩だ。瀬尾先輩からそう言われた。

 だから、瀬尾先輩がこんなにも照れるのはおかしいのだけど……。


 瀬尾先輩は照れ隠しをするように、僕が読んでいた文集をそっと手繰り寄せた。ぺらぺらと捲りながら、「あぁ、そうでした……、懐かしいですね……」と呟く。頬から赤みが消えていく。懐かしさに目を細める。


 この文集には、たくさんの作品が収録されている。かつて、賑やかだった文芸部の残滓だ。いい文集だと思った。きっと、熱のある部活だったんだろう。有志とはいえ、毎月一冊、文集を作っていたくらいだ。やる気に溢れていたはずだ。


 でも、今はその姿を想像すらできない。イメージできない。がらんと広い部室には、僕と瀬尾先輩しかいない。本棚にはたくさんの文集が詰め込まれているけど、これ以上はわずかしか増えない。


 たったひとり。文芸部に残った在校生は、たったひとりだからだ。がらんとした部室と、かつての熱を感じさせる文集。それを見比べ、僕は思わず尋ねてしまった。


「先輩。寂しくなかったんですか」


 瀬尾先輩はゆっくり顔を上げる。銀縁眼鏡の似合う、楚々とした顔が僕を見つめる。彼女はそっと微笑んだ。「寂しかったですよ」とはっきりと口にする。


「以前が以前でしたから。前は賑やかでした。たくさんの部員がいて、いつも小説の話ばかりして。わたしは口下手ですから上手く話せなかったけど、聞いているだけで楽しかった。小説を書いたら、感想やアドバイスが当然のように返ってくるんです。わたしにも感想が求められました。すごく、いい部活です。こんなことに、なってしまいましたけれど」


 彼女はそっと目を伏せてしまう。


「二年生になってからは、ずっとひとりでしたから……、寂しかったです。ひとりで部室に来て、ひとりで小説を書いて、ひとりで鍵を閉めて……。辞めようかとも思いました。たったひとりで、広い部室を使うのも罪悪感がありましたし、来年部員が入るかどうかもわかりません。でも、だからこそ。思い出の場所だからこそ、残しておかなきゃ、って思っていたんです……」


 彼女はぽそぽそと控えめな声で言葉を紡ぐ。小さな声とは裏腹に、内に秘めた思いは強かった。立河たちかわ先輩にいびられながらも、決して譲らなかったことを思い出す。


 その頼もしさに〝先輩〟を感じる。僕にまでその力が伝わる。そうだ、こんなにいい部活だったのだ。ひとりの生徒のわがままで、思い出の場所を消すわけにはいかない。

 ……ただ、瀬尾先輩の言葉に何か引っ掛かりを覚えたけど、その理由はわからなかった。僕はそれを無視して、ぐっと手に力を込める。


「先輩。立河先輩との勝負、頑張ってくださいね。先輩ならきっと、この部室を守れますよ。大体、おかしいじゃないですか。『広い部室を使いたい』なんて。創研のわがままに、ほかの部を巻き込むなんて。立河先輩は文芸部をバカにしてましたけど、バカにされるようなことないです。バーンとやっつけちゃってください」


 思わず、そんなことを口走っていた。立河先輩の振る舞いに、我慢ならなかったのは灯里ちゃんだけではない。僕もだ。鬱憤が吹き出したかのよう。


 しかし、瀬尾先輩はそんな僕をやさしい目で見るだけだった。怒りを表すこともない。

 彼女はどこか、立河先輩の横暴を受け入れている。そんな気がする。それは何故だろうか。


 まるで、その疑問に答えるように、瀬尾先輩はそっと呟いた。


「立河さんも、悪い人じゃないんですよ。むしろ、いい人です」


 そんな信じがたいことを言う。いい人。立河先輩が。彼女が悪人じゃないなら、この世のほとんどは善人ではないか。


 僕が納得してないのがわかったようで、瀬尾先輩は薄く微笑む。

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