最終章 もしも君が織姫だったとして

最終章 もしも君が織姫だったとして 1


「おにぃ。朝。起きてってば。早く」


「……んぁ」


 乱暴に身体をすられて、ぼくはゆっくりと目を開けた。どろの中から引き上げられるような感覚。いつまでも微睡まどろみの中にかくれていたいのに、朝がその安らぎをうばおうとしている。


 とんをかぶってしたいところだけど、起こしにきてくれている妹の手前、そんなことはできない。むくりと起き上がった。


 かしをしたつもりはないのに、みように頭がぼーっとする。もやがかかっているかのようだ。ねむりが浅かったのだろうか。


「おにぃ、なんかすごい顔しててたよ。いやな夢でも見たの」


「夢……?」


 妹の言うすごい顔というのはどんなものかわからないが、いつもさっさと退散する妹が足を止めるくらいだ。きっと相当なのだろう。


 夢か。もしかして、夢見が悪いせいでこんなにもねむが取れないのだろうか。

 思い出そうとするけれど、するするとのがれるようにおくからちていってしまう。

 夢の内容が思い出せない。


「いやむしろ、いい夢を見ていたような……?」


「あっそ」


 妹はなくそう言うと、今度こそ部屋から出て行ってしまった。ぼくはその場でびをする。思い出せない夢のことを考えていても仕方がない。さっさと起きてしまうことにした。


 きは悪かったけれど、あとはいつも通り。問題なく朝の準備を終えて、家を出ていく。


「……あ」


 駅に向かって歩いていると、見知った背中を見かけてつい声がれてしまった。


 まっすぐにびたかみこし近くでれていて、かみつやが光を反射する。手入れの行き届いたかみだ。スカートからわずかにのぞく太ももはとても色っぽく、学校制服がスカートであることを感謝したくなるほど。そして女の子らしい細いかた。その背中だけでだれなのかがわかる。


 やまぶきさんだ。クラスメイトのやまぶきあかさん。


 朝から彼女の姿を見ることができて、何だか得した気分になってしまう。といっても、今は同じクラスだから教室で見られるし、今も別に話すわけじゃないんだけども。


 彼女とすれちがった若いサラリーマンが、「れいな子だなぁ」というのを顔に張り付けているのが見えた。そうだろう、かわいいだろう。何せ彼女は世界一かわいい。


 なぜかぼくほこりながら、彼女に話しかけることもなく駅まで歩いていった。


 改札をけて、構内へ進んでいく。そこで気が付いた。



 前を歩いていたやまぶきさんが定期をポケットに入れていたのだが、それがぽろっとこぼれ落ちてしまったのだ。彼女は気付いた様子はない。周りを歩いている人も気が付いていない。


 ぼくあわてて、その定期を拾い上げた。



 眩暈めまいがした。


 定期。

 やまぶきさんの通学定期。彼女が落として、ぼくが拾う。それに対してかんを覚えた。ぼくは以前、同じように彼女の定期を拾ったことがなかっただろうか。


 あれはいつだったか。最近、そう、つい最近のことだ。やまぶきさんがぼくの前を走っていて、定期を落としてしまった。それをぼくが拾った。


 それでそのあと──。


 そのあと……?


 思い出せない。そんなこと、本当にあったのだろうか。


 ……いや、多分なかっただろう。そんななことがあれば、さすがに覚えている。ぼくかんちがいだ。そう言い聞かせてはみたものの、じっと彼女の定期を見つめてしまう。


 みようあせりを覚えた。ぼくは何か急いでいたのではなかったか。胸のうちからせりあがってくる、あせりとそうしつかん。胸をけられる思いだ。


 何だろう、このみような感情は。



 そこでハッとなった。


 ……彼女にこの定期を返さないと。人の定期をにぎって何をくしているのか。どろぼうかストーカーとちがわれてもおかしくないではないか。


 ぼくあわてて、彼女のそばに歩み寄る。



 ぼくが後ろから声をけると、やまぶきさんがいた。その表情がおどろきへと変化する。目を軽く見開きながら、名前を呼んだぼくに目を向けていた。


。ええと、どうかしたの?」


 当然ながら、彼女はぼくが朝のあいさつをしたとは思っていない。首をかしげながら、ぼくのことを見上げている。


「これ。定期。落としたよ」


「え? ……あ、本当だ。ごめん、ありがと」


 笑みをかべながら、彼女は定期を受け取った。彼女の笑顔を近くで見られて、少しばかりどきっとする。ぼくは気にしないで、と手をると、その場から立ち去った。


 行き先が同じなのだから、いっしょに行ってもおかしくはないのだけれど、ぼくたちははなれて電車に乗った。そうするのが自然だと思った。話すような話題もない。


 昔は仲が良かったけれど、それも本当に昔のことだ。過去のことだ。いまさらどうこうできる話でもない。


「……ん?」


 そこで何だか、自分がとてもちがったことを考えているような感覚におちいる。なぜだろう。おかしいところなんて、何ひとつないはずだけど。


 しやくぜんとしない思いをかかえながら、ぼくつりかわつかまっていた。電車内はとても混雑している。所謂いわゆる通勤ラッシュ。となりの人とかたがぶつかりそうなきよかんで、学校までのきよえる。


「きゃっ」


 がたん、と電車が大きくれたとき、となりに立っていた人がバランスをくずした。他校の生徒。女の子だ。


 彼女はぼくの方によろけると、自分の身体をぼくへとぶつけてしまう。


「す、すみませんっ」


 彼女はあわてて、ぼくから身体をはなしながら謝罪の言葉を口にする。よくあることだ。ぼくは気にしないでください、と彼女に伝えようとしたが、その動きを止めてしまう。


 似たようなことを、以前ほかのだれかとやらなかっただろうか。


「あ、あの……?」


 ぼくが動きを止めてしまったせいで、女の子が不安げにぼくを見上げていた。ぼくあわてて、「あ、すみません、だいじようですよ」と彼女に伝える。彼女はほっとした表情をかべると、ぼくから視線を外した。


 いや、よくあることじゃないか。電車の中でだれかにぶつかられるなんて。


 ──ありがとぉ


 ──よかった、これはセーフなのね


 ……そのだれかは一体だれだ。ぼくに笑いかけたその人は。照れくさそうに手をばしたその人は。その笑顔を思い出すだけで心が温まる。そのはずなのに、その顔は少しも思い出せない。冷え切ったままだ。ぼくはその人を知っている。知っているはずなのに。思い出そうとすると、風に吹かれた砂のように消えていく。さらさらと流れていく。思い出せない。


「…………」


 いや、ぼくおもちがいだろう。


 となりにいるだけで心がおだやかになるような、そんな人は周りにいない。きっと何かとごっちゃになっているだけだ。考えるだけだ。ぼくは頭をって、みようもうそうはらった。


 電車から降り、通学路を歩いていく。すると、見知った背中を見つけた。立ち止まって動かない背中。その人は家のへいの前にたたずみ、へいの上を見上げていた。


「ほらほら、おいでおいでー? こわくないにゃあ。お姉ちゃんはこわくないでちゅよー。なでなでしてあげるからおいでー?」



 あまあまい声を投げかけているのは、つばさだった。へいの上に座っているくろねこを相手に、目をきらきらさせている。手をべている。

 くろねこはその手をふんふんといでいたが、やがてつばさのうでの中に飛び込んでいった。


「おー、よしよしよしよし。かわいいでちゅねー、素直な子はお姉ちゃん大好きでちゅよー。ほら、ここが気持ちいいにゃ? この辺をいてもらうと、気持ちいいにゃ~?」



 うでの中のねこを、つばさは器用にまわしている。くろねこうれしそうだ。つばさの身体ににおいをつけるように動きながら、のどをごろごろと鳴らしている。


 相変わらずあつかいが上手い。つばさの方もうれしそうだ。とろけきった表情をかくそうともせず、力のけた声を上げている。


 ほおりまでしているつばさに、ぼくは近付いて声をける。


「おはよう、つばさ」


「おー、いちろう! 見ろよ、このねこちゃん。かわいいだろー? この顔がたまらないんだよなー、お前は何でそんなにかわいいんだにゃあ?」


 ぼくと言葉を交わしながら、変わらずねこまわすつばさ。

 しかし、油断しきっていたねこぼくが近付くとけいかいを再開する。ぴょんとつばさからはなれた。へいの向こうへ飛び去ってしまう。


「ごめん、ぼくが近付いたからげちゃったね」


「いや、いい。朝にねこからんでるとマジでこくすっからな」


 強くうなずくつばさ。実際、つばさはねこにかまっていてこくしたこともあるらしい。


 つばさと並んで学校へ向かっていく。


「つばさは本当にねこが好きだねぇ。家では飼ってないんだっけ?」


「おう。家にねこがいたら最高だとは思うんだけどな」


「飼わないの?」


「うーん。おれが今飼ったとして、将来独り暮らしをしたら連れていくわけだろ。家になつくとまで言われているかんきようの変化が苦手なねこを、おれの勝手な都合でストレスを与えるのはどうかと思ってんだけど、お前はどう思う?」


「い、意外としんけんに考えているんだね……」


 彼女のねこに対する思いを聞きながら、ぼくたちは校門をくぐり、しようこうぐちを通り、ばこくつえる。


 そこでぼくの動きが止まってしまう。


 つばさが自分のくついで、乱暴にうわきをゆかに転がすのを見ていると、何だかみような気分になってくる。つばさのスカートからのぞく足に、なぜだか視線が吸い寄せられてしまうのだ。


「……なんだお前。気持ち悪いぞ」


 見られていることに気が付くと、つばさはドン引きしながらぼくりをおいしてきた。


「痛い。ることないじゃないか。ぼくはただ、つばさがちゃんとうわぐつけるか心配してただけだよ」


「何言ってんだお前。おれは園児か? どこの世界にうわきもけねー高校生がいるんだよ」


「ん……、いやまぁ、そうなんだけどさ」


 そういう人がいてもおかしくは……、いや、おかしいか。だんどうするんだっていう話である。だれかにえさせてもらうのか?

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