思慕の道

文野麗

第1話

「そっちは遠回りだぜ?」

「どうしてもこのバスに乗らなきゃならないんだ」

「何で」

「景色がいいから」

「バスオタクって奴か?」

「風呂は好きだ」

今だけはこんな戯れすらも煩わしい。

「このまま失踪とかやめてくれよ?」

「冗談じゃない」

冷たい風が顔を通って耳の方へ流れてゆく。早くバスが来ればいいのに。恨めしいほどに待ち遠しい。

「親に会いたくねーなら無理して帰んなくてもいいんじゃね」

そうだ。そういう風に勘違いしてくれ。頼むから。

「仲は良いんだ親とは。ただ変に照れくさいだけ」

 駅前のバス乗り場は、LED照明のおかげで数年前よりずっと明るくなっていた。けれどもその眩しさは必ずしも心地よいものではない。夜の心細さが少々和らぐかわりに、疲れが余計に自覚されるようだ。寒空の下、ボクを見送るほかに用のない岡本は、さぞ不快だろうと思って様子をうかがうと、そんな感情のひとかけらも読み取れなかった。いつも通り、何か可笑しいことを見い出しつつある表情を浮かべている。ボクは充足感と共に胸の苦しさを覚えざるを得ない。

 やがてバスが来る。ボクは岡本に挨拶して、1人乗り込んだ。

乗客は2,3人。いずれも前の方に腰かけている。ボクは最後部から2番目の座席を確保する。急に孤独だ。バスの案内音声だけが人の声として流れ、すぐに終わる。

 光る看板たちを眺めながら、自分の思考と記憶の中へ沈んでいった。

 やよちゃん、と呼びかける。弥生なんて決して呼ばない。やよちゃん。今どこにいるの? あの家にいる? まさか、生きているよね? 最近連絡はとらなくなったけれど、それを考えると苦しくて蹲りたくなるけれど、でも、この町にいるんだよね?

 やよちゃんという、神聖なまでに美しい人。ボクはいつから彼女に恋い焦がれていたことか。中学で吹奏楽部に入ったのは偏に彼女のそばにいたかったからだ。彼女が楽器を構えた様は、誰より凛々しく「イケメン」だった。そのアルトサキソフォンの音色が好きだから、ボクは未だにジャズばかり聴くんだ。

 「イケメン」と称されて喜ぶのは、女子中学生によくある、異性になってみることへの憧れと戯れの感情で、やよちゃんも例外ではなかった。ボクはそのことを知った時、ずいぶん独りで煩悶したものだけど、今となってはそのことすらも恥ずかしく思う。

 やよちゃんと話したことは、みんな透き通った水晶のようにボクの心に残っている。授業の話、テレビの話、周りの人々の話、そして部活の話。彼女はどうすれば部全体のレベルが上がるのかを、とても熱心に語ってくれた。なぜだか副部長にしかならなかったけれど、彼女は吹奏楽にかなりのエネルギーを注いでいた。一度、市のコンサートにゲスト出演した、アマチュア吹奏楽団を見たときに、大人になったらああいうところに入るんだ、と目を輝かせていた。

 ボクは専ら聞き役で、一から十まで残らず彼女の自説に耳を傾けた。真剣に、全力で、彼女の発した思いを受け止めた。それは功を奏し、彼女はボクを気に入ってくれた。心のそこから光栄だった。いつまでも、放課後に、二人で話したあの時間。いつからか周りに「小町田の信者」と揶揄されるようになったけれど、ボクは「やよちゃんの弟子だ」と言って憚らなかった。

 にもかかわらず、とうとうボクは吹奏楽に夢中になることはなかった。ボクにとって大切なのは、やよちゃんと一緒にいて話をすることであったから、内容は何でも良かったんだ。彼女は素晴らしくいい匂いがした。あれは少し高価なシャンプーの香りだ。束ねた後ろ髪と下した前髪の分かれ目と、そこから首筋に至るまでの無防備な領域、青紫のスカートから伸びる、やや肉付きの良い脚――ボクは未だ膨れたふくらはぎを見ると色気を感じる――、力の抜けたような撫で肩、身体のどこにも心惹かれたし、幼いながらも艶やかな予感がひらめくほどだった。

 しかし本音を口に出すわけにはいかなかった。絶対に思いとどまるべきことだった。男子が言うなら変態で済むけれど、ボクが口に出そうものなら即絶交されるより他になく、下手をすれば、最終的にどちらかが学校に来られなくなりかねなかった。

……あの艶やかな予感だけは、どうしても片付かない点だけれど、他のことは、だいたい全て頭の中で収束してしまった。

 思えばこの道が悪かったのかもしれない、とちょうど通り過ぎた出身高校を眺めて思う。やよちゃんは吹奏楽部が強いからと遠くの私立高校へ入った。ボクは私立に入るわけにいかなかったから、このまあまあの公立高校へ、無思慮に進学した。高校時代は夢のようだった。ずっと夢想に耽っていたから途切れることなく夢見心地だった。高校の行き帰りのバスが、やよちゃんの実家の靴屋の前を通ることを発見して、「思慕の道」と名付けた、ボクの空しさの象徴の、この道。いつ見てもやよちゃんの姿が見えることはなかった。会えないからこそ彼女のことをより一層神聖な存在へと昇華させてしまった。罪な道だ。しばらくは連絡を取り合っていたものの、だんだんメールが返ってこなくなった。高1の冬くらいからは全く連絡がつかなくなった。恐らく携帯電話をスマートフォンに替えたのだろう。せめてそう信じたかった。不思議なことに、夢想のなかでは彼女の麗しさは日に日に増していくのだった。話もしない彼女が。

 ぼんやりしすぎて、とうとう浪人までする羽目になってしまった。大学で勉強したかったわけではない。就職するのは耐えられなかったから、大学進学で猶予期間を得ようとしたんだ。浪人生として過ごした1年間は、ボクの生きる希望を奪い取るだけの時間だった。加えてあの忌まわしい春の日。予備校で見かけた、やよちゃんと同じ高校を出た同級生に、彼女の消息を聞いてみたあの日。

「小町田? たしか専門だった。……どこの学校かまでは知らないけど、高校の頃は吹部で超はりきってたよ」

 ……ボクのことを忘れ去っても、彼女は変わることなく元気に生きていた。妙に深く傷ついた。自分の存在が周りの誰より無価値に思えた。

 ほとんど片付いてしまった想いだ。全ての認識は思い込みなんじゃないかと最近疑っている。やよちゃんに恋していたというのは、いつまでもやよちゃんに報われない恋をしていたいから、そう思い込んでいたにすぎない。ボクはきっとそういう自分でいたかったんだ。中学時代の好意など、親しい友人への愛着に過ぎなかったんだろう。

 誰かを愛するということは、他の人を愛さないことだ。愛とは残酷な選択のことに違いない。あれほど自分を男だと信じ込んでいたボクは、結局女でしかなかった。恋と性欲を一緒にすることを、青春時代はあんなに嫌悪したけれど、今になってわかる。ボクはやよちゃんに本当の意味での性欲は抱けなかった。そうなってみれば、艶やかな予感なんかも所詮はただの思い込みに過ぎず……。

 大きな看板に緑色のレトロな文字で「小町田靴店」と書かれている。店はもちろん閉まっている。でもお願いだから、姿を見せて! 今回だけでいいから! 貴女に会いたい! やよちゃん!

 ……さようなら。きっともう会えないのでしょう。

 私の青春も過ぎた。きっと遠くない未来に、岡本に告白されるだろう。そして私は承諾するだろう。何もかも、岡本の奴に打ち明けてやるんだ。やよちゃんのこと以外は何もかも。

 この道に〝少年の心〟を置き去りにしにきたんだ。

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思慕の道 文野麗 @lei_fumi_zb8

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