記憶喪失になってしまったオタク

 ピンポーン、ピンポンピンポーン!

 インターホンを連打する音が聞こえた。部屋の住人である芳子はその様子があまりにも突然かつ激しいため多少の恐怖を覚えたが、無視するのもそれはそれで恐ろしいので確認のためドアへ近づいた。のぞき窓から外の様子を見ようとしたとき、今度はドアをドンドンと叩く音がして、男の声が聞こえた。

「芳子、俺だ。開けてくれ!」

「その声……順一? どうしたの?」

 芳子は驚いた様子でドアのカギとチェーンを外し、開けた。目の前に現れたのは芳子の男友達の順一だった。彼は背中に誰かを背負っていた。

「どうしたの、こんな夜遅くに?」

 芳子が改めて聞くと、順一は息も切れ切れにこう答えた。

「公太が頭を打ったんだ。ちょっと助けてくれ」

「公太が!?」

 改めて見ると、順一が背負っているのは公太だった。ダラリと手足を垂らしていて、顔も下を向いているため気付くのが遅れたが、間違いなく彼だ。

「とりあえず、上がって」

 芳子は早口でそう指示した。順一は頷き、靴を乱雑に脱ぎ捨て部屋に上がり、芳子が急いで敷いた布団の上に公太を横にして置いた。

「はぁ、はぁ……ありがとう」

 順一は額の汗を拭いながらその場に腰を下ろした。芳子はコップに一杯水を入れ、順一に渡した。順一はぐびぐびと一気にそれを飲み干した。

「で、何があったの? どうして公太が頭を?」

 芳子はたずねた。

「いや、ただ転んだだけなんだ。落ちてた空き缶を勢いよく蹴っ飛ばそうとしたら、思いっきり空振って、その反動でバランスを崩して……」

「なんでそんなバカなことを……」

「で、運悪く道端に落ちていたゴンダムのプラモデルに頭をぶつけてしまったんだ」

「どうして道端にロボットのプラモデルが落ちてるわけ……」

「ゴンダムは無傷だったよ」

「頑丈過ぎないそのプラモデル……」

「とにかく、公太はそれで頭を強打してしまったんだ。そして気絶した。パッと見大きなケガはないが、とはいえ、頭だから心配で、とりあえずここに連れてきた」

「大変……生きてる、わよね」

 芳子は公太の右腕を持ち上げ、脈をとった。幸い、心臓は動いているらしい。

「よかった、生きてる」

 二人はホッと胸を撫で下ろした。

「救急車は呼んだ?」

 芳子は順一にたずねた。

「いや、まだ……気が動転して……」

「じゃあ、早く呼びましょ。電話して!」

「俺が?」

「当たり前でしょ! 一番状況わかってるのあんたでしょ」

「そ、そうだな……」

 順一が携帯電話を取り出そうとしたとき、うめくような声が聞こえ、続いて布が擦れる音がした。見ると、公太がもぞもぞと動いていた。

「こ、公太! 気が付いたか!」

 順一は笑顔になり、動き出した公太に向かって声をかけた。公太は上半身を起こし、目を擦りつつ二人の方に目を向けた。しかし、その目は何故だか不思議なものを見るようだった。

「う……ん。誰、ですか?」

「え……」

 順一の笑顔は一瞬で消えた。どうやら無事では済まなかったらしい、ということがわかってしまった。

 記憶喪失。順一と芳子の脳内に浮かんでいた4文字の言葉。頭を強打したことで、これまでの記憶の一部、あるいは全部が思い出せなくなってしまう現象。それが今ここで起こっていたのだ。

「お、俺だよ。順一だ」

 自分を指差しながら、順一は言った。

「すみません……どなたでしょうか」

「ウソだろおい……」

 順一は残酷な事実を目の当たりにして、ぺたりとへたり込んだ。絶望的な気分だった。大切な友人が、自分のことを忘れてしまったのだ……。

「ここはどこです?」

「……わたしの部屋よ」

 芳子は答えた。

「あなたの……ですか。どなたか存じ上げませんが、ありがとうございます」

 公太は丁寧に頭を下げた。芳子のことも覚えていないらしい。

「困ったことになったわね……」

 芳子は頭を抱えた。

「くっそ……おい、公太。本当に俺たちのこと忘れちまったのかよ! 3人同じ高校卒業して、同じ大学の同じ学部に入って、同じ講義を受けて……公太!」

 悲痛な叫び。しかし、公太には届かない。

「ううん……よくわかりません。公太……とは私の名前ですかね。そのことも、思い出せません。ちょっと頭が痛くて……」

「くっ、どうすれば……」

 順一は悔しそうに目を伏せた。涙が出そうだった。藁にもすがりたい気分だった。何か手はないだろうか……。考えたが、すぐにいい考えは浮かんでこなかった。

「救急車……呼びましょ。どう見ても……異常よ……」

 芳子は改めて提案した。順一は黙って頷き、スマホを取り出した。端っこにぶら下がっている、アニメに登場する少女のキャラクターを模したストラップがゆらゆらと揺れた。

「ん……そ、それは!」

 電話をかけようとしたとき、公太が叫んだ。指を差しており、その先には順一のスマホに付けてあるストラップがあった。

「どうした? 何か、思い出したのか!?」

 順一はにわかに表情が明るくなった。

「それは、『アイドルライブ!? ムーンライト』の根津忠子ではありませんか! どこでそれを?」

「公太……!」

 順一は芳子と顔を見合わせた。

 確かに、このキャラクターは根津忠子だった。

「覚えていることがある……もしかしたら思い出すための糸口になるかも……!」

 芳子も顔をほころばせた。

 『アイドルライブ!? ムーンライト』は、公太が好きなアニメの一つ。彼はそれを覚えていた。ということは、他にも何か覚えていることがあるかもしれない。

「ああ、そうだ。俺の推しの子だ。覚えてるか、これを買ったときのことを。俺と一緒に、『アイラブ』のイベントに行ったんだ。そのときに買ったんだよ」

「一緒に……? ぐ……すみません。『アイドルライブ』のイベントに行ったことまでは覚えているのですが……その先が……」

「ダメか……」

 順一はうなだれた。しかし、芳子は肩を叩いて励ますような声をかけた。

「すぐに諦めないの! 他にもいろいろ聞いてみましょ。他の事は覚えてるかも」

「そう……だな。よし」

 順一はスマホの画像アプリを起動し、保存していた画像を公太に見せた。

「これは、わかるか? お前の推しだったはずだ」

「それは宇佐はや子! これもアイドルライブのキャラクターですね! アイドルユニット『SHOES』のリーダーで、その真面目な性格で皆をまとめていく優等生なキャラですねぇ! 時々他のメンバーと衝突があるものの、持ち前の真っ直ぐさと健気で献身的な心で解決しようと頑張るその姿に心を打たれました!」

「ああ、その通りそれじゃ、この子は」

 順一は次々と画像のページを送っていく。

「白鳥文! SHOESのメンバーの中でもおっとり系のお姉さんキャラです。皆から癒し系と呼ばれており、そこにいるだけで場が和みますねぇ!」

「この子は?」

「島りず。小柄でとても明るい子です。暗い過去がありますが、そんなことを感じさせないほどの笑顔で、見ているこっちも元気が出ますぞ」

「じゃ、俺は?」

「すみません、わかりません……」

「この子は?」

「金子さかな! 臆病で引っ込み思案ではありますが、そこが逆に庇護欲をそそるといいますか、良いですねぇ」

「じゃ、そこのすっぴん女は」

「わかりません……」

「誰がすっぴん女よ」

「それじゃ、この子は」

「リサ・ミッチェル。長身のアメリカ系の子で……」

 順一は全ての『アイドルライブ』の画像を見せ、公太はそのキャラクターの名前を全て答えてみせた。しかし二人のことは一切思い出さなかった。順一はふっと息を吐いた。

「こいつ、全部覚えてやがる」

「あのさ……『アイラブ』にこだわる必要ある?」

 芳子は呆れた様子で言った。

「ごめん、何か関連付けで思い出すかと思って」

「完璧に思い出してたわね……『アイラブ』のことだけ」

 と言って、ため息をついた。そしてその後皆口を閉じ、部屋はしんと静まり返ってしまった。

「……ごめんなさい。僕が何か他に思い出せればよかったのですが」

 沈黙を破り、公太が申し訳なさそうに言った。

「そんな……あやまる必要はないわ。これは事故だもの」

「でも……」

「いや、元はといえば俺のせいだ。俺がふざけて空き缶蹴ったれー! とか言ってはやし立てなきゃこんなことには」

「あんたそんなこと言ったのね……」

「空き缶……空きか……うっ、頭が!」

 突然、公太が頭を押さえて呻きだした。

「どうした!? おい、大丈夫か!」

 心配そうに順一が声をかけた。しかし、すぐに痛みが治まったのか、公太は抑える手を離し、顔を上げた。そして、何か悟ったようにつぶやいた。

「……思い出した。思い出したよ、順一、芳子さん」

「……おお!」

 二人はまた顔を見合わせて、喜び合った。そして、公太の方を見た。公太も、嬉しそうな顔をしていた。

「二人とも、心配かけてごめん。もう思い出したよ。一緒に高校時代を過ごしたこと、イベントに行ったこと、そして、直前に頭を打ったときの記憶も……」

「そうか。良かった……!」

 順一は目を擦りながら声を絞り出した。彼の目は濡れていて、真っ赤になっていた。

「本当に、よかった……一時はどうなるかと思ったわ」

 芳子はホッと安心して力が抜けた様子で言った。

 その後しばらく笑い合っていたが、そのうちに芳子が

「そういえば、どうして急に思い出せたの?」

 と質問をした。

「うん、空き缶、という言葉で思い出したんだ」

「空き缶?」

「うん、僕が蹴ろうとしたやつのことではなく、もっと昔の話。まだ君たちと会って間もない頃かな」

 思い出を語るように少し上を見上げて公太は話した。

「なんかあったっけ?」

 芳子が言った。

「あったんだよ。高校一年生のときだったかな。放課後、僕が缶ジュースを飲み干して空き缶を捨てようと思ったんだけど、自販機の近くのゴミ箱がいっぱいで。掃除係の人が取り換える決まりだけれど、その日は忘れてたらしいんだ」

「あっ、そういえば。あの頃『アイラブ』の無印がやってた時期だったよな。“ちゃんとゴミは分別して捨てましょう”なんてコラボポスター貼ってあったな」

 順一が話に割って入った。公太はそれを聞くと、興奮した様子で反応した。

「そうそう! 猪井茉莉ちゃんのポスターです! それで僕はゴミ捨てへの意識が高まっていまして! で、猪井ちゃんが喜んでくれるなら、と代わりに捨てに行ったんです!」

「ほうほう、それで」

 順一は続きを促した。

「そしたらですね……その途中にある裏玄関に繋がる階段の方から人の気配がしたんですよ。誰かいるのかと思い、気になって見てしまったんです!」

「あっ……へ、へえ。誰かしらね」

 楽しそうに語る公太だが、その話を聞いている芳子は何故か顔を引きつらせていた。

「ん、どうした芳子? 顔色が悪いぞ」

「そ、そんなことはない……わ。ねえ、もう話の内容はわかったから、もうやめない?」

「いやまだ何の話かわからんだろ。もうちょっと聞きたいぞ」

 怪訝な顔をして順一は芳子を見た。

「じゃ、じゃあ続けるよ」

 公太は少し声のテンションを落とし、話を再開した。

「すると、その先には」

「あれ、どこ行くんだ、芳子」

 唐突に声を上げる順一。芳子はそろそろと抜き足差し足で部屋を出ようとしているところだった。

「芳子さんがいたんだよ」

 変わらぬ調子で公太が言った。

「あー! もう思い出したくないのに!」

「ほーう、芳子がね! 何してたんだ?」

「漫画を読んでた」

「わー、ストップ! もういいじゃない!」

 芳子、二人に近づき、口を押えようとする。が、二人ともその手をひょいとかわした。

「いいだろオタバレくらい。俺たちの仲だろ?」

 ニヤニヤしながら順一が言った。

「そーだけどー! バレたときのこと思い出したくないのー!」

 顔から火が出そうだ、と言わんばかりに芳子の顔は赤くなっていた。

「それとも、バレたらやばい漫画だったのか?」

「BLの漫画だったよ」

「いや、もー! なんでそこまで言っちゃうの!」

 頭を抱える芳子。

「でもこれをきっかけに仲良くなったんだよね、僕たち」

 屈託のない笑顔で話す公太。

「ああ、それでお前と芳子が話すようになったのか。女と話せるようなやつに見えなかったから、納得だぜ」

 感心した様子の順一。

「うぅ、何で開けちゃいけないパンドラの箱を空けてしまったの……」

 空き缶の話を聞いたことを後悔し、一人で呻く芳子。

「いやいや、そういう関係じゃないって、順一。全然違う漫画だったけど、漫画好きなら『アイドルライブ』とかもわかってくれるかなって思って、勧めてみたんだ。今思えば無茶苦茶な理論だけど、思ったよりはまってくれてね。アイドルライブ仲間が増えて嬉しかったのを思い出したよ。あのとき空き缶を捨てようとしなかったらこうはならなかったかも」

 しみじみと回想する公太。

「ああ。そして、元々『アイラブ』が好きだった俺も加わって仲良しになった。こういう良い記憶を思い出せたなら、記憶喪失になったのも逆によかったのかもな!」

 グッとサムズアップする順一。

「はぁ、恥ずかしすぎてわたしも記憶喪失になりたい……」

 ただ一人、部屋の隅で膝を抱えて横に転がる芳子。

 束の間の記憶喪失、そして蘇る思い出。そんな忙しい夜も、やがて思い出の一つとなって記憶の底へ消えて行くのだろう。

 いや、だろうじゃない、そうなってくれ、と願う芳子は、後日頭を打つためにゴンダムの固いプラモデルを探し回ったという。

 

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