知恵熱

「あー、作文の宿題、全然終わらねえ。何だよ“お題は自由”って。一番困る奴だよそれ」

 ユウゴは頭を抱え嘆いていた。彼は夏休みの宿題を終わらせるため、友人のアキラと共にと図書館に行き、大きな木製の机にかじりついている。「まずは嫌いなヤツから片付ける!」と意気揚々と原稿用紙を広げて文字数800字以内の作文に取り掛かり始めたものの、全く捗らずに苦悩していた。

「そんな意地張ってねーで、別のヤツからやれよ。どうせ進まないんだし」

 アキラは呆れた顔で隣に突っ伏しているユウゴを見やった。辺りは図書館らしくしんと静まり返っているため、その中で唯一不真面目な空気を醸しているユウゴが不自然に目立っていた。

「いやダメなんだって。俺、苦手な宿題残すと妙に気になっちゃってさあ、他のことが手につかなくなっちゃうんだよ。あー、知恵熱出そう」

 と、ますますだらしなく腕を伸ばして机に伏せるユウゴ。まるで常温で放置されたアイスキャンディのように溶けそうな様子だった。

「知恵熱って……赤ちゃんかお前は」

 暑そうなユウゴとは対照的に冷たい視線を送るアキラ。ユウゴがだらしないのはいつものことだが、わざわざ「一緒に宿題やろうぜ」と呼び出しておいてこの様子とは、わりと寛大なアキラでも流石にため息が出てくる。宿題をやろうとするのはいいのだが、最初からこの調子だと先が思いやられる。

「ンなことねーよ。俺は知恵熱が出るんだよ。見てろよ、今にスゲーのが出るから」

「はいはい、わかったわかった。じゃ、俺も数学の宿題に集中するからお前も集中しとけ」

 アキラは自分の手も止まっていることに気が付き、再び宿題に没頭し始めた。ユウゴはしかめ面をして見せたが、完全に無視されたのであきらめてまた自分の名前だけ書かれた原稿用紙とにらめっこしていた。

 二人が勉強場所としてこの図書館を選んだ理由は、静かだということの他に、夏でもクーラーが効いていて涼しいというところがあった。勉強する環境としては、この上ないほど最適な場所だった。

 しかし、今のアキラは少し暑さを感じていた。流石に屋外と比べれば遠く及ばないが、じんわりと汗が伝ってくるくらいの暑さだった。

「うーん……何か暑くないか? クーラー壊れたのか?」

 おもむろにそう呟いたが、ユウゴの反応はない。今は作文に集中しているのだろうか、と横目で彼の様子をちらりと見た。

 しかし、ユウゴは相変わらず机に突っ伏したままだった。

「……ったく。おい起きろユウゴ。宿題終わらねーと帰れねえぞー」

 アキラはユウゴの肩に手を置いてゆすった。そのとき、ユウゴの異変を感じ取った。

 何やら、身体が熱い。着ているTシャツ越しにも伝わるくらいの熱だった。よく見ると、顔が赤くなっており、汗をかいていた。明らかに具合が悪そうだった。

「おいユウゴ。大丈夫か?」

 心配して、再度ユウゴに声をかけた。意識あるようで、ユウゴはゆっくりとアキラを向いて、うわごとのように話し始めた。

「だから……言っただろ……。俺は知恵熱が出る、って」

「知恵熱かどうかはともかく、すごい熱だぞ! もう帰って休んだほうがいい」

「いや、知恵熱だよ……。考えすぎると……出るんだ」

「とにかく、帰ろう。肩貸してやるから……って、熱っ!」

 アキラがユウゴの手に触れた瞬間、あまりの熱に反射的に手を引っ込めていた。とても人間から出た熱とは思えず、アキラはとても驚き目を丸くしていた。

「嘘だろ……ユウゴ、体温何度あるんだよ……」

「すごく、高いぞ……」

 ユウゴはその言葉を聞いた直後、うつろな笑みを浮かべた後、気絶するように眠った。

「いや、知恵熱って……こんなものじゃないだろ……。ここまで上がるわけがない」

 残されたアキラは一人で呟いていた。信じられない、そんな気持ちで一杯だった。触れないほど彼の身体は熱い。このまま担いでいけば、自分が火傷してしまいそうな気がした。アキラは友人の非常事態に足がすくんで何をすべきかわからなくなった。しかし、ここで放置するわけにはいかない。まずは落ち着こう。その場で少し考えて、この異常な発熱は救急車を呼ぶべきレベルだろう、という結論に至った。そのためには、まず図書館の職員にこれを伝えて電話で呼んでもらおう……と思い、受付へと向かった。

 救急車を呼んでもらった後、すぐにユウゴの元に戻った。同時に、熱気が彼の周りを包みこんでいることに気付いた。まるで、そこだけ暖房を付けているような暑さだった。

「うわっ、空気まで熱くなるなんて……さっき暑さを感じたのはユウゴの熱だったのか……!」

 アキラは妙に冷静になって、こんなに発熱してユウゴは大丈夫だろうかと心配した。既にこの異常さに頭が慣れてしまったようだ。なんとか火傷しない程度に彼に近づき、寄り添ってあげようとした。

 元いた席に座った瞬間、アキラの額は一気に汗を噴き出した。アキラはダラダラと滝のように溢れだすそれを腕で拭った。しかし、次から次へと汗がとめどなく吹き出し、対処しきれなかった。

「ユ、ユウゴ……もうすぐ……救急車来るからな……」

 暑さに耐えながらなんとかそれを伝えたが、耐えられなくなり、アキラはとうとう彼から離れた。離れると、クーラーの涼しいな空気がアキラの身体を冷やした。だが、それから間もなくして熱気がアキラを追跡するかのようにやってきて、再び窯の中にいるかのような暑さに覆われた。ユウゴの熱は範囲を急激に拡大させていた。

 やがて、その熱は他の図書館利用者にも届いたようで、遠くにいるにもかかわらず、汗を拭う、ノートを団扇代わりにして仰ぐ、席を立つなどの行動を見せていた。もはやこの図書館全体がサウナになるのも時間の問題だった。

「う……もうこれ以上ここにはいられない……」

 アキラはたまりかねてユウゴを見捨てて外に出ようと思った。既に図書館は真夏の炎天下よりも暑い。それならば、外に出た方がまだマシだ。薄情なようだが、命の危険すら感じつつあり、彼を救出しようにもできないレベルだった。救急隊が何とかしてくれるだろう、という投げやりで無責任な気分さえ沸き上がっていた。

 図書館の職員や利用者はいつの間にか皆避難していた。残っているのはアキラとユウゴだけだ。もう俺は十分耐えた。だがこれまでだ。すまんユウゴ、と心の中で謝りつつ、出口へ向かった。

 外は涼しかった。真夏日さえ、そうさせるほどだった。それほどまでに、彼の知恵熱は暑かった。

 アキラは暑さがよほど身に染みたのか、その場でへたり込んでしまった。それから、ユウゴを見捨ててしまったことへの後悔の念が徐々に膨れ上がっていた。

「くそっ……俺はあいつの友達だろ……! 助けなくちゃいけないはず……なのに!」

 だが、再びこの焦熱地獄へと足を踏み入れようとはしなかった。力が入らず、立ち上がれない。そんなことはしてはいけない、と身体が拒否しているようだった。

「火事よ!」

 外に出ていた図書館の職員らしき女性がそう叫んだことで、アキラはこの中で火が上がっていることを知った。確かに入口近くの壁がチラチラしたオレンジ色の光に照らされているのが見えていた。外から見えるということは、相当燃え広がっていることだろう。この中に入っていくなど、考えるまでもなく自殺行為だ。

「でも……俺は……俺は!」

 ユウゴは自分にとって友人だ。それも、付き合いの長い友人だ。親友と言っても差し支えない。思い出も沢山ある。一緒に笑い合った思い出、二人で苦労した思い出、悲しみを分かち合った思い出、出会った頃の思い出……。いろいろな記憶が走馬灯のように蘇る。

 いけない。何を考えているんだ。ここであいつを死なせちゃダメだ。必ず助け出さなければ!

 アキラはぐっと力を込めた。すると、なんとか立ち上がることができた。これであいつを助けに行くことができる。アキラは重い足を一歩踏み出し、図書館の中へと入ろうとした。

「はいどいてどいて! 救急隊です。危ないから離れて!」

 後ろから数人の救急隊がやってきて、アキラを押しのけた。アキラはびっくりして、その場で立ちすくんで彼らが入っていくのを眺めていた。知らぬ間に火災のことについても通報を受けていたらしく、隊員たちは皆よくテレビなどで見るような耐火服を着ていた。

 後ろを振り返ると、消防車や救急車が止まっていて、消火や救助の準備を進めていた。アキラは、それを見てようやく我に返った。ここは隊員に任せよう。自分には到底手に負えるものじゃない。もう祈ることしかできないのだとついに悟り、ゆっくりと建物から離れて行った。

 彼が建物全体を見られる程離れたときには、外部からも一目でわかるくらい燃え上っていた。窓は割れ、そこから黒い煙が上がっていた。

 気付けば、周囲に多くの野次馬が集まっていた。なんだ、どうした、火事か、と口々に言いながら、ただその様子を眺めていた。

「ユウゴ……ユウゴ!」

 時間の流れがとても遅く感じられた。とにかく助かってくれ、と顔の前に手を合わせ、奇跡を願った。神様、どうかユウゴをお助けください、と。

 しばらくすると、救急隊員が急ぎの様子で建物から出てきた。

「まずいです、離れてください! 爆発します!」

 救急隊員全員が出てきた直後、入り口や窓から強い光が漏れだしたかと思うと、ドカン、という轟音とともに図書館は爆ぜた。

 一瞬にして書物の森は瓦礫の山へと姿を変えてしまった。だが、アキラにとってはそんなことよりもユウゴのことが気がかりだった。しかし、この爆発で彼が生きているとは考えられない。アキラは絶望的な気分で再びその場にへたり込んでいた。

 だが、アキラはそこで驚くべき光景を目にすることになる。

 瓦礫の山から、物音がした。全てが無に帰したはずのその場所から、聞こえるはずのない音だった。そして、ゲホゲホと咳き込むような音がした。あの中で人が生きている。アキラはそう確信し、図書館跡に注目した。まだ多くの煙が上がっており、危険な状態ではあった。だが、その煙の中に、彼は希望を見出していた。

 それから間もなく煙の中からゆらゆら揺れる人影が現れた。アキラの身体に再び力が戻る。アキラは立ち上がった。

 煙から出てきたのは、間違いなくユウゴだった。生きていた。かなり煤で汚れてはいるが、間違いなくさっき一緒に宿題をしていたユウゴだった。

「ユウゴ……ユウゴー!」

 アキラはかけより、ユウゴに抱き付いた。彼はユウゴが生きていたことが嬉しくてたまらず、頬には涙が伝っていた。

「おいおい、どうしたんだアキラ。気持ち悪いから離れろよ」

「よく生きて……!」

「大げさだよ。っていか、これ何があったんだ。宿題の途中で寝ちゃったところまでは覚えてるんだが……」

「覚えてないのか……? わからないことは多いが、とにかく無事でよかった」

 ユウゴはその後念のため一旦入院することになったが、あの大火事にもかかわらず、何故か火傷ひとつなかったためすぐに退院した。

 次にアキラがユウゴと会ったときは、既にピンピンしていて、あの事故の後遺症など微塵も感じさせないような様子だった。

「いやー、よくわからんけどホント参ったぜ。入院で貴重な夏休みが削れちまった。……まあ宿題が全部燃えたから、宿題をやらない言い訳ができたのは良かったけどな」

 ユウゴは笑いながらそう語っていた。

「そういや、あの日知恵熱がどうのとか言ってたけど、あれって何なの?」

 アキラはそう訊ねた。あの後、彼の異常な発熱から知恵熱との関連を疑い始めていた。直前に言っていたことが本当なら、彼の知恵熱で火事と爆発を引き起こしたのではないか、と。どう考えてもあるはずがないのだが、アキラにはそうとしか思えなかった。

「ああ、冗談に決まってるだろ。知恵熱って赤ちゃんが出すものなんだぜ」

 ユウゴは得意げな様子で言った。アキラは頭を掻いて、少し考えた後、

「そうだな」

 と答えた。

 図書館の爆発事故は地元のニュースで大きく取り上げられた。出火原因は不明、ガスが漏れた形跡もなく、何故あれ程大規模な事故になったのか未だに解明されていない。多くの謎を残す事故として、にわかに世間の注目を集めた。

 そして、事故の規模にもかかわらず奇跡的に一人も死傷者を出さなかったというところも話題に上がった。救急隊員を含め、全員無事だったのだ。中には救助に当たった救急隊員や迅速に通報し避難を促した図書館の職員を褒めたたえる言説もあったが、一番多かったのは中にいたのにも関わらず生き残った一人の少年の話だった。

 どうして彼は生き残ったのか。瓦礫が上手い具合に彼の身を覆い隠して爆発から逃れたのだとか、実は避難していたのだとか、本当は宇宙人なのだとか、様々な憶測がインターネットなどで飛び交っていた。しかし、真実は誰も知らない。本人も知らない。アキラも一部始終を見ていたが、やはりそれはわからない。

 ただ一つわかることと言えばユウゴの異常発熱が起こったことであるが、その理由は謎のままだ。言っても誰も信じてもらえないだろう。だからアキラはそれを誰にも話さず、今も心の中に大切にしまいこんでいる。

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