第五章 黒い魔導士とトリクシー⑥

「おばあちゃん。“山のこども”って何だろう」

 ミリアムは扉向こうのテオが砂利を踏みながら立ち去る足音が聞こえなくなってからオルト婆に尋ねた。

「“山のこども”ねえ」

 オルト婆は異様な匂いを放つ小鍋に片手をかざして呪文を唱えた。鍋からもわもわと水蒸気が上がり、深緑色のどろりとした鍋の中身はどんどんかさを減らしていった。次第に粘度を増していくそれにオルト婆は小さじを突っ込み、かき回しながら話し始めた。

「憑き人の口からたまに出てくるんだが、鉱山にいる精霊のことなんじゃないかと言われている。薬が効いて正気に戻ってきたら忘れるものなんだが、テオにはあの薬は合わないのかね」

 鼻をつまんだトリクシーが興味深そうに身を乗り出した。

「はの山、精霊がいるんすか。ほばあさん、会っことはりまふ?」

「まだ会ったことはないね。精霊は入口あたりの祠に祀られているんだが。もし会えるとすれば、力のこもったずっとずっと奥のほうだ」

 ミリアムは前にオルト婆についていって鉱山に入った時に見た祭壇を思い出した。

「テオは助けてもらったのだから、会ったのかな」

「どうだろうね。精霊というのはそう簡単に人間に姿をさらすものじゃないからね。それに閉じ込められているほうならなおのことだ」

「閉じ込められているの?」

「鉱夫の間でささやかれる伝説があるのさ。この山には二種類の精霊がいる。山の精霊と海の精霊だ。塩が取れるのは海の精霊を先祖が山奥に封じ込めたからだ。そして、その精霊に会えるのはロスアクアス家の司祭だけで、その時にもらう特別な塩が血晶岩塩なんだと」

 ミリアムははっとした。心臓が急にどきどきと高鳴りだした。

「その話本当? 本当に精霊が封じ込められているの?」

「いや、ここで塩が取れるのは大昔ここが海だったからだよ。でも、ピサロが時々鉱山に入って何日か出てこないことがあったから、意外と本当だったりしてね」

「ここ、海だったの?」

 ミリアムとトリクシーは顔を見合わせた。

「ああ。大地というやつはけっこう動くものなんだよ。その動かす力、存在する力が精霊の正体だ」

 トリクシーがうなりながら頭を抱えた。

「わかんなくなってきた。塩が取れるのは海が先なの? 精霊が先なの?」

「ははは。難しく考えなさんな。精霊は比喩さね。残っている海の痕跡を人がそう感じるのさ。一人前の魔導士なら特に強く。対話ができるくらい」

 オルト婆は鍋を火からおろしてテーブルの鍋敷きに置いた。鍋の中身は魔法をかけながら炒られ続けたおかげで、ころころとした十数個の豆のような丸薬になっていた。

 オルト婆は小鍋を柄を持ってミリアムの方に突き出した。匂いは水分と共にだいぶ飛んだが、顔を近づければまだ漂ってくる。

「さて、ミリアム。一人前になってその精霊に会いたかったら、お前はこの栄養たっぷりの薬を全部飲むんだ。まずはククルトの魔力に負けない体力を取り戻して元気にならなきゃ、まともな魔法は使えないよ」

 ミリアムを見るトリクシーの顔には憐みの情が浮かんでいる。

 しかし、ミリアムは躊躇なく丸薬を指でつまんで飲み込んだ。

 見かけ通りこれは食べていいものなのかと思うくらいどうしようもない味だった。ひどい匂いが胸から鼻に上がってきて血の気が引きすぎて顔が寒くなった。それでも胃液が逆流しそうになるのを喉に力をこめて抑え込み、飲み込んだ。そのまま次々とつまんで口に放り込む。

「こらこら落ち着け。自暴自棄になるな」

 目を丸くしたトリクシーが慌てて陶器のカップに水をくんできた。

「自暴自棄じゃ、ない。自分がやらなきゃいけないことが、わかってきた、から」

「やらなきゃならないことって? 司祭の仕事のこと?」

「なんでもない。いえ……ええそう、司祭のことよ」

 ミリアムは丸薬を水で流し込んで話をごまかした。自分が解かなければならないものが間違いなくあの鉱山にある──ミリアムはそう直感した──「封印を解け」というあの言葉はきっと閉じ込められている精霊を解き放てということなんだ──コンドルの女王の言葉のみで、本当にあるのかも分からず霞のようだった封印というものが初めて現実に現れた気がした。

 オルト婆は薬を飲むミリアムの様子をじっと観察していたが、ミリアムが薬を全てのみ終わると「こいつを原液でいけるとはいい覚悟だね」とつぶやいた。そして、テーブルに並べていた数種類の小瓶から粉末を小さじですくいとり、空になった小鍋に入れて水を注ぐと別の薬を作り始めた。

「聞いた話では、ロスアクアスの本家の者は結婚を精霊に報告する儀式を鉱山の中で行うそうだ。近々カウロとシエラがそれをするようだから、お前も駆り出されるかもしれない。それまでに体に良さそうな薬をどんどん作るから、どんどん飲んで、早いところ元気になれ。そんなに精霊に会いたいのならね」

 その日からオルト婆は何種類もの薬作りに没頭した。飲み薬だけでなく、塗り薬や湿布の時もあった。



「ミリィ、おばあさんの薬の実験台にされてない?」

 ミリアムと晩ご飯の支度をしながらトリクシーが心配そうに言った。まだ日は高かったが、一日のほとんどをオルト婆が薬作りで竈付近を使っているので、ご飯作りは時間に関係なくオルト婆が休んでいる隙間をねらって作るようになっていた。

「そんなことないよ。ふふふ」

 ミリアムは笑いながら首を振った。オルト婆はミリアムに薬を処方した後は必ずミリアムの顔色や目、のど、左腕の状態などをくまなく観察し、時には問診もしていた。それで少しでも良い兆候がみられると、その兆候と薬の成分を照らし合わせて、オルト婆がミリアムの体にいいと判断した成分を基準に新たな薬を調合していた。ミリアムにはそれが分かっていた。

 そんなオルト婆の努力の甲斐あって、ミリアムの体はずいぶん軽くなっていた。もう眩暈もふらつくこともなくなったので、立って食材を刻んだり、足りない野菜を畑まで走って取りにいくこともできる。

 一つ困っていることといえば飲む薬の味だった。最初の薬と同じようにどれもひどい味のものばかりだったからだ。こういう薬をポーロ薬局に売るときにはいつも甘い味をつけたり薄めたりして出していたのだが「今そんな手間をかける時間はない。お前が飲めばすむこと」とオルト婆に容赦はなかった。ミリアムは自分が魔導士になったら美味しくてよく効く薬を作ろうと決めた。



 夕食の後片付けが終わると三人でお茶を飲み、明日の薬作りの必要な仕込みがあればその作業をしてから寝る。

 ある時、オルト婆は自分のベッドをトリクシーにゆずろうとした。「家の事を手伝ってくれるのに粗末な長椅子に寝かせるのは申し訳ない」と言って。

 ミリアムは心の中で「先生には一度もそんなこといわなかったのに」とオルト婆につっこんだ。

 トリクシーはその申し出を断った。

「おばあさんだって薬草をすりつぶしたり魔法を使ったりしてお疲れでしょう。それに、こっちで寝るほうが気が楽なんです」

 ミリアムとオルト婆が寝室へ入ると、隣りでトリクシーがゴソゴソと寝具を整える音がきこえてきて、やがてそれが寝息に変わる。こちらが先に寝れば向こう側も同じだろう。

 またうちの中が賑やかになり、あの長椅子に誰かが寝てくれるようになったことがミリアムには嬉しかった。ただ同時に、以前まであそこを寝床にしていた人がもう帰ってこないという予兆のような気もしていた。

『ククルト』ミリアムはあわててククルトに呼びかけた。

 ククルトはミリアムの体調がよくなってくると、あの夢幻の協奏で教わった奇妙な旋律を口ずさむことがなくなっていった。

『あのコンドルの女王様は、まだこの空を飛んでいるのかしら』

『おそらくは』

『先生はどうして女王様に捕まってしまったのかしら』

『さあな。その辺のことは女王に聞きそびれてしまったな』

 先生を助けたら先生から訳を話してもらおう。そしてトリクシーを紹介しよう。そうなったら先生はバロネットさんとも親しくなるかもしれない。どちらも大人の男の人だ──ミリアムはオルト婆も入れた五人で楽しく話をする様子を想像した。

『ククルト、私の体があなたの力に耐えられるくらい元気になったら、また力を貸してちょうだいね』

 ククルトは返事の代わりにまた不思議な鼻歌を歌い始めた。



 ついにはオルト婆がはりきりすぎて薬の材料が足りなくなった。

 ミリアムがブランボの荷物にそれがあったのを覚えていたので、トリクシーがブランボのところへ行って、分けてもらってきてくれた。

「ブランボに『調子はどうだ?』ってきかれたよ。『おばあさんの薬が良く効いてきています』って言ったら、あいつニコリともしないで『ロスアクアス家の習わしで、結婚式の前に鉱山の祭祀場に新郎新婦を連れていかなければならない。それにミリアムが加われるか伺ってきてほしい』だって」

 前にオルト婆が言っていたことだ。新郎がカウロで新婦がシエラだろう。

「おばあちゃん、その祭祀場というところに精霊がいるのかな」

「どうだろうね」オルト婆は首をかしげた。「なにしろ迷信深い鉱夫の言い伝えだから、あの話をどこまで信じていいんだが」

 祭祀場がどんなところかミリアムには見当もつかなかったが、目指す封印には近づけるかもしれないと考えた。

「おばあちゃん。私、まだ見習いだけど、参加していろいろ体験したほうが後から役に立つと思う。体の方も良くなってきたわ」

 オルト婆は深く息をついた。

「仕方がない。その道をお前が選んだんだから」

 二日後に帰るとトリクシーを通じてブランボに返事をした。



 ロスアクアす家に戻る前の晩、オルト婆はミリアムの黒い左腕にまた魔紋を書いた。

 ミリアムは自分の左腕をなめらかに滑る筆先をずっと目で追っていた。

「最初に書いたのと少し違っているね」

「ククルトがお前のために何かやっているようだから、奴をガチガチに抑え込まないようにしようと思ってね。こうなると、もう気休め程度にしかならないんだけど。念のためだよ」

 ふと思い立って、ミリアムは顔を上げた。

「ねえ、おばあちゃん」

「なんだね」

「封印されていた精霊を外に出しちゃったら、どうなるの?」

「なんだって?」

 はたとオルト婆の手元が止まり、ミリアムと目を合わせたが、すぐに魔紋を書く作業に戻った。

「そうだねぇ……言い伝えが本当なら、鉱山が鉱山でなくなってしまうかもしれない。血晶岩塩どころか普通の塩だって取れなくなって、この村の大半が飯の食い上げだ。お前、何をするつもりだい?」

 ミリアムは急いで首を横に振った。

「なんでもない。聞いてみただけ」

「二人とも飯の食い上げになったら、うちの会社においでよ」

 頬杖をついて二人を眺めていたトリクシーが笑顔で誘った。

「こりゃいい伝手ができた。あんたの口添えに期待しとくよ」

 トリクシーの目は半分本気のようだったが、オルト婆は肩をすくませておどけてみせた。



 翌朝、朝食を食べてからミリアムとトリクシーはロスアクアス家へ戻る支度をした。

 準備は最初に家に出たときとほとんど変わらない。服は一張羅の魔法の紋を染め付けた魔導士の服。魔紋を書くインクと筆も荷物に入れた。先生の剣はロスアクアス家に置いてきた。この前は出発前に魔法の杖をもらったが、今度は先の尖った小瓶を渡された。

「これはガナン用の栄養剤だよ」

 ミリアムはお茶の時に司祭の部屋にいた丸い球根のような魔法生物ゴルディロックスのことを話していた。オルト婆によれば、姿はまったく違うが、あそこにいるならガナンとしか思えないという。

「私が小さかった頃は、細くて堅い幹から長い枝や葉が伸びて天井を被うくらいだったのに。誰も世話をしてくれなくて、やっぱり枯れかけているんじゃないかと思ってね。お前たちを助けてくれたのがガナンだったら、お礼をしておいたほうがいいだろう」

「わかった。あげてみる」

「お前が何をしようとしているのか、私にはわからないが、お前がよいと信じた道を行けばいい。なにかあったらまたここへおいで。お前に効く一番いい薬を作ってやるよ」

「わかった。行ってきます」

 トリクシーが馬を引いてきた。ミリアムは自分の力で鞍に上り、トリクシーの後ろに座った。

 ミリアムがオルト婆に手を振ると、トリクシーは足を軽く動かして馬を前にゆっくり進めた。

 オルト婆は手を振り返すことなく、杖をついたまま、ただじっと見送っていた。

 ミリアムは十日ぶりにロスアクアス家の門をくぐった。

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