第四章 ロスアクアス家の屋敷の中①

 高い石壁の塀の中は、この辺りには珍しい高低差のある木で作られた庭があり、その奥にロスアクアス家の屋敷がある。日干し煉瓦の壁に赤い瓦屋根の家はソロ村やエルテペでもよく見られるが、二階建ての大屋敷の壁は同じ煉瓦でもより滑らかに積まれており、ところどころ色鮮やかなタイルが組み合った幾何学的な模様で組まれ傾きかけた太陽の光に当たって輝いていた。細長い窓枠やテラスのアーチには特に細かな装飾が施されている。ミリアムたち一行は庭の真ん中を進んで、二階を支える柱が並立する正面玄関の前で止まった。

 ディエノはそこで待っていた。いつもの普段着のままで、いつもの従者を一人連れ「お帰り。よくぞ勤めを果たしてくれた」と先頭の奥方へ微笑みながら両手を広げた。しかし、奥方は氷のように無表情だった。奥方は従者の肩を踏み台にさっさと降りて、ディエノに「役目は終わったわよ」とぶっきらぼうに言うと、足早に屋敷の中に消えていった。

 笑顔のまま奥方を見送ったディエノが、正しい降り方を知らず、鞍から飛び降りて従者と馬を驚かせたミリアムに視線を移した。口元は少し引きつったが、表情は崩れなかった。

「よく来てくれたね。ミリアム。今日からわが家の一員だ」

 ミリアムはとっさに言葉が出ず、ただ深くお辞儀をした。

「すぐに慣れる。今はそれぞれ忙しいから、後でみんなに紹介しよう。部屋に案内するよ」

 ディエノは浅黒い大きな手をミリアムの肩に回して屋敷の中に連れて行った。

 窓が小さく厚い外壁に日光はほぼ遮断されているせいか、中は暗くて少し湿っぽく、人が住んでいるのかと思うくらい静かだった。二階まで突き抜けるホールから左右に廊下が伸びており、ホールの天井に伸びる細い窓から入るわずかな日光がステンドグラスで色付けされ、薄暗い空間に水中にいるような揺らめく影を作っている。その影の映る壁や手すりなどの内装のあちこちに外壁と同じような幾何学模様が刻まれていた。

 中央には大きな木製の階段が上に伸びていたが、ディエノが導いたのは廊下の端のほうで、そこに小さい明りが踊り場に一つしかない石の階段があった。

 ディエノは足元のよく見えない階段を廊下を歩くのと変わらない調子で降りて行ったが、ミリアムはディエノの後ろから踏み外さないようにゆっくり進まなくてはならなかった。

 一階分下った先の廊下は、逆に上の階よりも明るかった。天井は低いが、回廊の窓は幅広で外の景色が映っている。この建物は斜めの地形に沿って築かれているようで、玄関のあった一階だと思っていたところは屋敷全体から考えると二階より上らしい。回廊の突き当りには魔法の紋様が一面に並ぶ大きなドアがあった。ディエノはドアの前に立つと、上着の内ポケットから鍵束を出して鈍い金色の鍵を探し出し、鍵穴に差し込んだ。

 ドアが押し開かれると、全く光のない空間から古く埃っぽい空気が流れてきた。ディエノは壁伝いに手探りで歩くと手前の窓の厚いカーテンを引いた。さっと光の筋が差し込んで中を照らした。

「ここが開けられるのは何年ぶりになるかな。おいで。ここが、我がロスアクアス家の司祭の部屋だ」

 ミリアムは恐る恐る足を踏み入れ、窓の傍の光の中で立ちすくんだ。ディエノが光を取り込むたびに部屋の容態があらわになる。壁紙も飴色に磨かれた床も絨毯もとても上質なものだということが、うっすら塵が積もっていてもわかった。入口近くには埃避けのクリーム色の布が被せられたテーブルと椅子の応接室セットらしいものが置かれていて、その向こうには同じく布がかけられた個人用の椅子と大きな机、さらにミリアムの家の食卓兼作業台より大きく立派な天板のテーブル。そして、すり鉢やフラスコなどの実験器具がしまわれた棚、分厚い書物が並ぶ本棚、本棚、棚、棚……と、光の届く範囲を超えてりっぱな棚が並んでいた。しかもただの棚や本ではないらしい──ミリアムは目まいを覚えた。

 ディエノは五つある窓全部のカーテンを開けたが、この部屋の奥はこの部屋の奥は棚に阻まれているせいもあって、どこまで広がっているのかわからなかった。棚の迷路が続く先のほうは魔石を灯す魔石燈をつるした背の高い柱が等間隔で並んでいたが、今はそこの明りは点灯しておらず、果ての見えない様子は坑道の中を思わせた。

 窓を開けてしばらく部屋を眺めていたディエノは、窓側とは反対の壁にミリアムを招いた。

「ここはだいぶ片付いているんだが、ミリアム、さっそくちょっと頼みたいことがあるんだ」

 壁には入口とは別の両開きのドアがあった。ディエノは大きな目をむいてミリアムの顔を覗き込んできた。

「実はね、ミリアム。君はまだ魔導士として一人前じゃないだろう? 君の師匠となる優秀な魔導士を呼んであるんだ。その方も大変高名な魔導士の弟子でその方の技を受け継いでいらっしゃる。これから、君はその方を師と仰いで魔法を教授させてもらうんだ。だから、君は一人前になるまで司祭の部屋はその師匠に譲って、しばらくこちらの部屋で寝泊まりしてほしい。

 ただ、こちらの部屋は今まで倉庫として使われてきた。今でも荷物が詰まっている。だから、まずはこの中を整理してくれないか。一日で済むような量ではないから、とりあえずベッドが置けるだけの余地を作るんだ。その間に私はベッドを運んでこよう。いいね?」

「わ、わかりました」

 ミリアムの緊張した小さな返事を聞くと、ディエノはこぼれそうだった目玉を収めるように眼を細め、唇を横に引きつらせて笑ったような顔を作った。そしてまた鍵束から出した鍵を差しまわして、司祭の部屋の小型版のような木のドアを開けた。奥にある荷物が少し見えた。

「ドア付近に魔石燈があるはずだ。これを点けて作業してくれ。壊れてどうしようもないものは廊下に出してかまわないから。わかったね?」

 ディエノはポケットから出した灯火用の魔石をミリアムに渡すと──ミリアムのカンテラに入っているものと同じものだ──スタスタと司祭の部屋から出て行った。

 ミリアムはディエノの背中を見送り、足音も消えて一人になったとたん、はぁーと深く息をついた。この屋敷に来て初めて呼吸をしたような気がした。ミリアムの中のククルトも舌が急速解凍されたようにしゃべり始めた。

『なかなか興味深い部屋だ。魔法の匂いがプンプンする』

『どっちの部屋? 司祭の部屋? それともこっち?』

『両方だ。互いを隔てる扉にすら魔法の力がかかっている。ただ、こちら側は秩序だって整然としているが、あっちの部屋はどうもはっきりしないな……』

 ククルトの感じる気配がミリアムにも分かった。それは、ククルトと自分がつながっているから分かったのではなく、自分の感性で受信したものだった。オルト婆に鍛えられて魔法の知覚が少し磨かれたためで、さっきの目まいの原因もそれだった。

 ミリアムはドアを開け放して部屋に入った。入口付近にはベッドくらい置ける空きはあるものの、本当に置いたらドアは閉められなくなる。中の様子は司祭の大部屋とは違い、古くて壊れかけたものがごちゃごちゃと積まれていた。

『片付けに困ったものを全部ここに投げたようだな。こんなところで寝ろとは、我らもこんな奴らということか。なんて扱いだ』

 ククルトはぶつぶつ悪態をついた。

 ドアの脇の壁の高いところに角灯がついている。部屋の荷物の中に座面の破れたスツールがあったので、ミリアムはそれを足場にして角灯に魔石を入れた。スイッチをひねると、すぐにパッと点く。暗闇に慣れた目に痛みが走るほど灯は明るく輝いたが、部屋全体を照らすことはできなかった。真ん中や壁際に無造作に捨てられ高い山となった雑多なものたちが、光が隅々にいきわたるのを邪魔している。足の折れた椅子、壊れた棚、破れた本、折れた杖、難しい魔法の紋が刻まれた縁の欠けた円盤など一体何に使うのかわからないものもある。

 それに、明りが点いた時からミリアムは背筋がピリピリしびれていた。何かの魔法が動きだしたようだ。ミリアムは部屋全体に目を凝らした。どこからかカタカタカタと乾いた音がする。明りが揺れて、倉庫に放っておかれた雑貨たちの影が震えているように見える──否、ミリアムは首を振った。魔石の灯は風で揺らいだりはしないし、第一ここに窓はない。雑貨そのものが揺れているのだ。

『我が思うに、千疋皮の気配に近い。始末されなかった魔法がくすぶっているような……』

 この前会った千疋皮がミリアムの頭をよぎった。背中に恐怖の悪寒がはしったミリアムは、とっさに腰の剣を抜いて叫んでいた。

「千疋皮、千疋皮! お前の笛は壊れているぞ!」

 バタン! 後ろでドアが勢いよく閉まった。

 あわててドアノブを回すがびくともしない。テーブルのような大きなものは跳ね、椅子や杖などの小物たちはミリアムに近づいてきた。剣を振ってけん制してもどんどん寄ってくる。手足のようなものが生えたものもいた。

『ミリィの言葉で自らの意識を思い出したらしいぞ。左手を伸ばせ。我がちょいと黙らせてやろう』

『ちょ、ちょっと待って』

 イライラしているククルトを抑え、ミリアムは腰に差していた魔法の杖に目をやった。オルト婆からもらった杖の先の魔石がぼんやり光っている。左手で杖を引き抜くと、もの達の気が一斉に魔石に傾注した。「千疋皮は終わらせられなかった昔の魔法」──ミリアムの頭にオルト婆の言葉が浮かんだ。魔石の杖を左右に振ると、近づいてきた小物たちが魔石の動きをゆらゆらと追って動く。ミリアムは剣を収めて杖に意識を集中させた。折り紙を折った時の要領だ。

〈コノ石、ナツカシイ……〉〈ナオシテ……頭ヤブレテル……〉〈ナオシテ……コノ石ノ人ガツクッタ……〉石への懐古の念と哀願の情が杖から流れ込んできた。

「直すの?」

 ミリアムはちょっと首をかしげると、近くの破れたスツールをエイっと軽く杖でたたいてみた。スツールは身を震わせただけだった。

『直す魔法はまだ習っていないだろう』

「あの、私、魔法まだ知らないんだけど……」

 ミリアムは目の前の道具たちに言ってみた。しかし、道具たちはひしめき合って懇願してくる。〈ココ、ココ〉と自分の体の調子の悪いところを差し出してきた。壁に背をつけたミリアムに覆いかぶさらんとする勢いだ。

『遠慮のないやつらめ。我があっという間に始末してやろうか』

『さすがにそれは、ちょっとかわいそう。それに……』ミリアムが杖を動かすと、それに合わせて椅子や机が子犬や子猫ように体を傾ける。『慣れてきたら、なんだかかわいいかも……』

 ちょうど外でディエノたちの声が聞こえてきた。ミリアムはまだ開かないドアを叩いてディエノを呼んだ。

「すみません、すみません。ディエノさん!」

「な、何があったんだ?」

「あの、針と糸を貸してもらえませんか? それと、金づちや大工道具も」

「え? なんだって? ベッドを持ってきたんだが、ここやっぱり開かないのかい?」

『ミリィ、ちょっと待て』

 ククルトの声にミリアムが一瞬動きを止めた時、左手に熱を感じたかと思うとボン!と派手な爆発音がしてミリアムは後ろに吹っ飛んだ。

 気がつけば道具の山に埋もれ、しこたま体を打ちつけてしまっていた。星の散る頭を抱え『もう! ククルトが何か出したな』と文句を言い、背中をさすりながら体を起こすと、目の前の司祭の部屋でディエノとベッドを運んできた男たちが外れたドアに潰されていた。ミリアムの中でククルトは大爆笑した。

『わはははは! ざまあみろ。我はここが好かん。湿っぽいし、へんな魔法は渦巻いているし』

「だ、大丈夫ですか、ディエノさん」

 ミリアムはディエノたちを助けようとしたが、先に道具たちのほうがドアの外れた入口に殺到し、ミリアムは押しつぶされた。互いが擦れあい軋む音が無造作に扱った人間への怨嗟のつぶやきに聞こえる。男たちはドアから這い出して逃げ出した。

「魔女だぁ!」

「待って、ディエノさん!」ミリアムは急いでディエノの背中に叫んだ。「針と糸と端切れ! 大工道具も貸してください!」

 ディエノは階段を上る前にくるりと振り返った。

「さすが、オルト婆の娘だな。あの部屋で平気でいるとは。持ってくるから何とかしてくれ」

『あの部屋に入れたのはわざとだな! これを見ろ! 全然平気じゃないぞ!』

 ククルトの雄たけびが口から出そうになって、慌ててミリアムは自分の口を押えた(全くの条件反射の行動で、あとで「ここは押さえなくてよかったかも……」とミリアムは思った。自分も同意見だったからだ)。

 道具たちはこの部屋から出られないようだった。入口で詰まった道具の下敷きになったミリアムは、必死に杖を持った腕を出して何度か振った。すると、次第に道具たちの動きが鈍くなってきた。そのすきにミリアムは摺りあう道具の狭間から逃れ、あらん限りの念を石に送り、輝きだした石に操られた道具たちを部屋の奥に押し戻した。この作業をしている時は、外で毛長ヤギを操る要領を思い出した。

 司祭の部屋のほうで一息ついて待っていると、階段を下りてくる音がして、二人の若者が道具箱を二つ階段下に置き、あっという間に上がっていった。すっかりおびえているようだった。

『せっかく早くなじもうと思っていたのに。これは全部ククルトのせいだわ』

 ミリアムは二つの重い道具箱を運ぶために廊下を二往復した。『こんな時に使う力はないの?』とククルトに尋ねても返事がなかったことには腹が立った。

 ミリアムは倉庫の魔石燈の下に道具箱と魔石の杖を置いて腕まくりをした。オルト婆が書いてくれた魔紋が薄くなっていた。

『気が遠くなりそうな量だが、やるしかないだろう。寝る場所を作るためにも』

『ククルトに言われたくない。頑張るけど』

 ミリアムは部屋の真ん中でこちらを注視している生きたモノたちを見渡した。

「魔法はまだ使えないけれど、やれるだけやってみる。じゃあ、あなたからね。さっき手伝ってくれたから」

 ミリアムは魔石燈を点けるときに踏み台にしたスツールを抱っこしてきた。

「大手術になるわよ」

 腕の中でプルプル震えているスツールは座る部分に大穴が開いている。ミリアムは裁縫道具から大きめの針と糸を取り出し縫い始めた。

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