第三章 ミリアムの決意④

 ミリアムがロスアクアス家に養子に行くまでの間、オルト婆が魔法の初歩を教えてくれる──その話が出た時からミリアムは「オルト婆の魔法教室」をとても楽しみにしていたのだが、オルト婆は翌日もいつもと変わらない様子で過ごしていた。気になったミリアムが「あのう……」と何度か尋ねかけたが、察したオルト婆は気難しい顔を向けるか、うるさそうに手を振るだけだった。

 そんなやきもきする日々が数日間続き、ミリアムも半分あきらめかけていた頃、唐突に魔法教室は始まった。オルト婆は密かに準備をしていたようだった。


 ある日、オルト婆は畑で草むしりをしていたミリアムを家に呼び戻した。ミリアムは外の井戸で手を洗い、何事かといぶかしみながら家のドアを開けると、部屋の真ん中に置かれた食卓兼作業用テーブルの上に四つ折りにした四枚の紙があって、そばに立っていたオルト婆が杖でその紙の前に来るように指示した。

「お前はもう、簡単な魔方陣に念を込めることはできるはず。じゃあ、この折りたたまれた紙のうち、これと思う紙に念を込めてみなさい。紙に触ったらだめだ。手をかざして、どの紙か迷ったら全部に込めたっていい。全部にできたらね」

 ミリアムはテーブルの紙をじっと見た。真四角にぴっちり折られた紙は、オルト婆がいつも使っているぽつぽつと不純物の混じった薄茶色の便箋で、村人も使うありふれたものだ。文字のインクがにじんでいるなどの中身を推測できるようなものは何もない。見れば見るほど迷ってくるので、ミリアムは両手をかざし、全部に念を送ってみることにした。

「念を込める」とオルト婆は表現するが、ミリアムにとっては「会話する」感覚に近い。「こんにちは。お願いがあるの」と手を差し伸べるような感じだ。そうすると「なにかしら?」とこちらに気を向けるものがある。

 四枚の紙のうち、最もつながりを強く感じた紙が体を開き、次々と引かれる新しい折り目に沿って自らをたたみ始めた。幾重にも折り重なった紙は細く伸びた先を中折にし、別の端っこを左右に展開して翼を広げ、ピッピッと風切りばねの切込みが入って羽ばたいた。舞い上がった折り紙の鳥は紙の動きに目を奪われていたミリアムの視線の高さまで上がると、裏返したミリアムの手の平に静かに降り立った。ミリアムは思わずニコリとした。

 オルト婆は満足げに何度も頷いた。

「思った通り、お前は風の属性が断然強い。中にククルトがいるんだから当たり前だけどさ。まさかククルトは手伝っていないよね」

「手伝ってないよ。それよりこれなに? かわいいね」

「なに、四元素の基本陣を専用のインクで書いて折っただけだ。お前と相性のいい属性をはっきりさせておこうと思ってね。ミリィが一番風らしいと思っている姿に風の陣が反応したのさ」

 オルト婆は変化しなかった紙を片手で器用に広げていった。それぞれ火、土、水を表す紋様が便箋より濃い茶色の汁で書いてある。その紙の上にオルト婆が杖をかざして円を描くと、火の紋様の紙は陽炎をまとうトカゲに、土の紙は剣のような鋭い葉を持つ苗に、水の紙は滑らかな流線形の魚にそれぞれ折られた。ミリアムはこれまで、薬の制作や憑き人の浄化などの商売としてオルト婆が使う実用的な魔法しか知らなかったので、すっかりこの幻想的に生まれた可愛らしい造形虜になり、折り紙を交互に手に取ってあちこちの角度から眺めた。夢中になっているミリアムを尻目にオルト婆の講釈は続いた。

「だからといって、お前は風以外の魔法が使えないわけじゃない。ちょっと苦手に思うくらいで、工夫すればいくらでも使えるようになる。魔導士として成り立つには、風ばかりびゅうびゅう吹かせるだけじゃだめだからね。薬の知識や反応を促進させる魔法が一番役に立つ。まあ、薬をかき混ぜたりするには風そのままでも役に立つかもしれないが……」

「ねえねえ。それよりもこの鳥、どうしたらもっと動くの?」

「それに命を吹き込むのはまた別の高度な魔法だ。まずはこの陣を書くインクの作り方から始めようか」

「うん」

 ミリアムは大きく頷き、やる気に満ちたその表情にオルト婆はほくそ笑んだ。

 ミリアムは魔法の効果を具象化させるインクの作り方を学んだ。書く媒体によってインクの成分を微妙に変えないとならないのでいくつか種類がある。その中にはミリアムの左腕の封印を書くためのインクもあった。それらを普段の仕事をしながら数日かけて覚えた。念を込めながら色々な薬を混ぜる地味な作業だったが、「これがお前には一番大事なことだからね」とオルト婆は熱心に教え、ミリアムも根気よくそれについていった。

 一緒に簡単な風の魔方陣も覚えて、ミリアムも鳥の折り紙が作れるようになった。


 ある晩、オルト婆は短めの古い杖を自分の長持から出してきた。先に黄色味を帯びた白い石がついている。

『あの魔石はなんだ?』ミリアムの中のククルトが反応した。

 オルト婆は食卓兼作業台の木のテーブルの前に座ると、ナイフで杖の表面を削り始めた。削りかすは足元の桶に落としている。ミリアムは覚えたての紙の鳥を何匹も作りながらオルト婆に尋ねた。

「おばあちゃんもピサロ司祭のところでこんな風に魔法を習ったの?」

「そうだね……」オルト婆は手を動かしながら答えた。「鉱山で身内を無くした孤児はロスアクアス家が雇ってくれることになっていてね。初めはピサロの雑用係だった。やらされる雑用の中にインク作りもあった。あとはガナンの世話」

「ガナン?」

「ピサロの魔法生物ゴルディロックスだよ。植木鉢に植わっている木みたいなやつで、ロスアクアス家のことを何でも知っている。そいつに水をあげるのも私の主な仕事だった。そしてもう一人世話をしなくちゃならない奴が現れた。それがトスカだったよ」

「おばあちゃんの友達だね」

『我も知らぬオルトの昔話だ』

 ミリアムはわくわくしながらテーブルを挟んでオルト婆の前に座った。

「どんな子だったの?」

「トスカはロスアクアス家の血縁の子で、ピサロが自分の後継ぎにするために連れてきたんだ。トスカが司祭の修行に身が入るように私も一緒に学ばされた。本格的に魔法を習ったのはそこからだね。本来なら、今頃はトスカが司祭をやっていたはずなんだが」

「何かあったの?」

「何があったんだか」

 オルト婆は削る手を止め、首を左右に振った。

「村に帰ってきたときにピサロに尋ねたんだが、答えてくれなかった。この杖についている魔石はトスカからもらったもので、司祭に代々受け継がれる石の一つだそうだ。この魔石には魔導士の魔力を上げる働きがあって、旅をしているときにこれのおかげで何度も命拾いをした。ピサロに返すと言ったんだが、受け取らなかった。それで今私がトスカの代わりをする羽目になったのかね」

「へえ」ミリアムは前のめりになってその魔石を眺めた。「そんなすごいものをおばあちゃんにあげるなんて、その子、おばあちゃんのこと大好きだったのよ」

「まあ、トスカがまともに口を利くのは私とピサロとガナンだけだったからね」

 オルト婆はそこで話を止めて再びナイフを動かそうとしたが、ミリアムがまだ興味津々の顔を自分に向けているので、そばに置いていたお茶をすすってから話を続けることにした。

「トスカは私より二歳年下の女の子だったんだけど、痩せて髪も短くぼさぼさで、身なりなんか少しも構わないからロスアクアスの子なのに顔も服も汚くて、私も会った時にはびっくりした。トスカと魔法を習えと言われたけれど、もっと身ぎれいにしてもらわないとできないと思ってね。すばしっこいトスカを追いかけて顔を拭いたり服を着替えさせたりしたよ。最初は嫌がられたけど、そのうち私に懐いてくれて、私もトスカは本当は優しくていい子だってわかって、魔法の修業以外でも仲良くするようになった。トスカは私より魔導士の素質があって、魔法の修業は好きだけれど、司祭にはなりたくないと言っていた。ピサロ達は期待していたけれど。

 ある日、トスカが『ここを抜け出して旅に出よう』と言い出した。『自分が受け継いだこの魔石があればなんとかなる』って言って。そこで村から逃げる計画を立てて、待ち合わせ場所でトスカを待っていたんだが、トスカの代わりにピサロが現れた。『こんなバカなことを考えるなんて、もうお前とトスカを会わせるわけにはいかない。お前の居場所はもうないから、このまま出ていけ』と言われてね。そのまま飛び出したってわけさ」

 話をじっと聞いていたミリアムは、唸りながら腕組みをした。

「私がお屋敷に行って、その子の行方が分かればいいんだけど……」

「余計なことは考えなくていい。まず、お前はあそこで自分の身を立てることを考えな」

 オルト婆はため息をついた。

「司祭は本当は何をするのか。私が分かっていれば、今お前に助言することができるんだが。ピサロは、鉱山に行く時は私を連れて行かなかった。何があるのかがちゃんと分かれば、私だって鉱山で憑かれる人間なんか出したりしないのに……ああ、出てくれた方が私のいい稼ぎになるか。わかったって何もしないほうがいいね。これからは、ミリィは私の商売敵だよ」

「そんなぁ。かないっこないよ」

 ミリアムの不満そうな声に、オルト婆はイヒヒヒといつもの不気味な笑顔になると、また杖を削る作業に戻った。


 ミリアムがロスアクアス家に養子に行く日が来た。

 ミリアムは、この間エルテペで買った新品の着物にオルト婆が魔法の紋様を染め付けて作った魔導士の上着ローブを着た。持っていく荷物はそう多くない。何枚かの着替えと愛用のタオル、ハンカチ、左手の封印の紋を描くインクとその材料、いつも使っている投石紐──これらをカバンに入れて肩から掛けた。先生が残した剣は腰に差した。

「それもいいが、これも持っておいき」

 オルト婆はこの前から手をかけていた杖を差し出した。五十センチほどあった杖は三十センチほどに短くなり、太さもミリアムの手になじむくらいに削られていた。先に付いていた魔石──オルトが昔友達からもらったと言っていたそれ──はそのままだが、これまでなかった魔法の紋が石の留め金や杖本体に彫られていた。

 オルト婆に促されて、ミリアムは手に取ってみた。魔法の杖としては申し分ないものでありながら、子供のミリアムにも扱いやすい長さや重さとなっている。

「もともとこの魔石は司祭が受け継ぐものだからね。つい夢中になって、あの男レングも欲しがりそうないい感じに仕上げてしまったよ」

「ありがとう、おばあちゃん。大事に使うわ」

 ミリアムは杖を剣の反対側に差した。オルト婆はその姿を上から下まで眺めて嬉しそうに頷いた。

「うんうん。見た目なら、もう立派な魔導士だよ」

 ミリアムはほほを赤らめながらくるりと回ってみせた。


 昼過ぎにロスアクアス家の迎えがついた。ディエノの奥方と小間使いの女と二人の男の従者だ。

 奥方はディエノより十歳以上も若く、黒々とした豊かな髪にはっきりした目鼻立ちをしている。会うのはこの間の憑き人騒動以来だった。いつもこぎれいに装っているが、今日はさらに豪華な晴れ着を着ていた。

「わざわざご苦労様です、ロスアクアスの奥様。お茶でもいかがですか」

 オルト婆は中に通そうとしたが、奥方は家には入らず、無表情でミリアムを一瞥したあとオルト婆に言った。

「一人前になるまで、元の家族には会えないことになっています」

「この子なら、すぐに会える日が来ますよ」

 奥方はミリアムに手招きした。オルト婆が体が固まって突っ立っていたミリアムの背中をそっと押したので、ミリアムはいつもの帽子を被り、奥方に付いて家を出た。外に上等の鞍をつけた馬が二頭待っていた。前の馬に奥方が乗り、ミリアムは後ろの馬に従者の一人の手を借りて乗った。

 ミリアムがドアの傍に立っているオルト婆に「行ってきます」と声をかけると、奥方たちはすぐ出発した。オルト婆に言葉はなく、ただ見送っていた。


 小間使いの女を先頭に、馬は従者に引かれて石だらけの道を躓かないように慎重な並足で進んでいく。ミリアムはこれからどうするのかを聞きたくてしかたがなかったが、誰も口をきかないので合わせて黙っていることにした。

 馬の背は高く、いつもと視点が違うので多少の気晴らしになった。村の入り口の門をくぐり、中心の広場へと向かういつもの道が違う風景に映る。ミリアムが馬に乗ったのはこれで二回目だ。一回目はエルテペの警備隊に助けられた時で、あの時は周りも暗くすぐ寝てしまったので、馬からの眺めがこんなにいいことに気づかなかった。四、五人の村人とすれ違ったが、行列に会うとみな立ち止まって首を垂れる。いつもミリアムを見下ろしている大人の薄いつむじや頭頂部の白髪が丸見えだ。ミリアムは愉快になってきた。

 しかし、ロスアクアス家の高い塀が見えてくると、さすがに身が引き締まり、動悸も早くなってきた。馬の上からでも塀の向こうまでは見渡せない。

 いつもの小さな戸口ではない、大きな鉄の正門が左右に開く。ここをくぐったら、今度はいつオルト婆に会えるのかわからない。

『我が力なら、こんな塀いつでも穴を開けられるぞ』

『だめだよ。そんなことをしちゃ』

 ククルトの言葉で、帰ってオルト婆に抱きつきたくなっていたミリアムは我に返り、深呼吸して心を静めた。コンドルの女王との約盟とオルト婆が準備に手間をかけてくれたことを思い出す。

 ミリアムの馬が敷地に入ると、門は門番の二人がかりで金属のきしむ重々しい音を立てながらゆっくり閉められた。

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