2 どこもかしこもクズばかり

 ノックの音がして目を覚ました。

 まずは、とんとん、と、遠慮がちに。続いて、どんどん、と少し乱暴に。

 この音は自分を呼んでいるものだと知りながら少年は柔らかい枕に頭を預けたまま、ぼんやりと天井を見つめた。


「アルド。アルドッ。起きてる? 居るの?」


 扉の外からの少女の声にアルドは反応を示さず、ゆっくりとまた目を閉じる。昨夜の出来事が今の現実とつながっているのかを確認するかのように。


「アルド?」


 もう一度少年の名をつぶやいて、一瞬諦めたようにノックの音が止まった。途端、今度は焦りの含まれたノックの音が再開される。少女は何度も少年の名を呼んだ。


 アルドは体を起こしてドアの方に視線を向けた。おとなしい彼女にしては珍しい行動だと少しだけ目を見張る。


「ああ。起きてるよ」


 返事を返すとノックの音がぴたりと止まった。ドア越しに安堵する声が聞こえた。


「……よかった」


 アルドは頭をかきまわし、ベッドを降りる。

 部屋に置かれた、大型のテレビにつながれている最新のゲーム機。そのコントローラーが無造作に床に転がっており、アルドはそれを跨いでドアの方に行く。鍵を開けて、ドアを開いた。


「なに? こんな朝っぱらから何の用?」


 ドアを開いた向こうには、アルドの幼馴染のユナが、大きな蒼い瞳をおどおどとさまよわせていた。

 右手で癖のある金髪のショートカットを意味もなく撫で付けながら、左手で白いワンピースの胸元をつかみながら、か細い声で話し出した。


「あ、あ……。あの、アルドの部屋、昨夜、電気……全然点かなかったから……もしかしたら帰ってきてないんじゃないか……って。心配になって……」


 アルドはユナに聞かせるように大きく舌打ちした。

 ユナとアルドの家は隣り合っている。しかし、アルドの家の庭は広く、建物自体の距離は開いている。とはいえ、ユナの部屋の窓と、アルドの部屋の窓は向かい合っており、お互い、部屋にいるかいないかくらいは筒抜けになっていた。


「鬱陶しいって、俺のプライベートに干渉すんなって、いつも言ってんだろ、ああ? 大きなお世話なんだよ。でなんだよ、今日なんてわざわざこんな上がりこんできて。上げたの兄貴? ったく、余計なんだよふざけんな」

「で、でも……アルド最近、様子変だったから……――」


 彼女はさらに何か言いかけて、躊躇った表情で口を閉じた。おそらくは『あの怪我とか……』とでも言いたかったに違いないと、アルドは顔をしかめて何度も舌打ちをしながら階下に向かって歩き出した。


 例の三人組にリンチされたあの日、彼女にはボロボロになった姿を見られた。階段から転げ落ちたのだと言い張ったが、信用しなかったのか彼女は以来、もともとの心配性に拍車がかかり、アルドの神経を逆なでしていた。


 アルドが階下に下りると、兄のキリルが食卓に座っている。こちらに気づいて、読んでいた新聞をたたむ。


「おはよう、アルド。今日は朝飯、ユナがつくってくれたぞ。今日くらいはちゃんと食ってけ」


 兄の柔和な表情に苛立ちが増した。

 父の会社を継ぐという将来が約束されたからできる、余裕のある微笑み。アルドには兄の笑みが、そう見える。


「いらねぇ」


 そう返事をして、アルドは洗面所の方に足を向ける。戸惑った表情の少女――ユナが動いたわけでもないのに「ついてくるなよ!」と噛みつく。

 キッチンの方からパタパタと足音がする。


「アルド坊ちゃま、起きられたんですか! 今日こそは朝食をお食べになってもらわないと! ユナさんの愛のこもった目玉焼きと――」


 扉を乱暴に閉め、中年のメイドがまくし立てる声を黙らせる。

 洗面所で鏡に向かい、歯磨きをする。自分の歯に苛立ちをぶつけるように、強い力で歯ブラシをこすりつける。


 キリルは五つ年上の兄だ。学校での成績は上の下程度だが、昔から、頭の回転が良く、唐突なトラブルの対処などに素早く対応できる人間だった。

 そんなキリルは、長男であるからか、その対応力が見込まれているからか、一代で大きな富を築いた父の会社の跡取りになることが決定されている。


 一方、来年、ハイスクールへと進学するアルドが、父に将来についての話をすると、父は「おまえの好きにすればいい」と言った。


 アルドはその投げやりのような返事にショックを受け、以来、父にも母にも将来の話はしたことがない。特に進みたい道がないアルドは、さして難しくも簡単でもないハイスクールの受験を決めた、と報告するだけだった。


 兄は愛されているから、父の跡を継げる。自分は愛されていないから、適当にあしらわれる。


「ああ、好きにしてやるよ」


 小さくつぶやき、強い力で擦って洗顔する。強い力で顔を拭く。



    * * * *



 外に出ると秋の冷たい風が頬を撫でる。

 マフラーを持ってこなかったことを少し後悔し、しかし、家に取りに戻る気にもなれずにそのまま歩いた。


 さらに強い風が吹いて、首元から寒気が全身に広がって身震いする。

 途端、フラッシュバックする。


 奴らに服を脱がされ、屈辱的なポーズを取らされた。羞恥と屈辱で体が火照っているのに、極寒にいるように体が震え続けていた。


 唇を噛む。涙がにじんでくる。歩く足が止まりそうになる。

 学校に行きたくはない。だが、休めば家族に不審がられる。

 あんな無様を、羞恥を、与えられているなどと、家族に知れたら自分は本当に生きている価値を失う。そうアルドは考える。


 学校に向かわず、サボることも考えたが、それがバレたら父はどんな顔をするのだろうかと思うと、耐えられない。

 厳しく叱られるどころか、蔑んだ瞳で見られるところが想像でき、想像だけで屈辱感に襲われる。


 母は、父の優秀な秘書で忙しく、家にいることがほとんどない。

 家にいる時は、抱きしめて、愛してくれはするが、怒ることがない。

 母の教育方針は『褒めて伸ばす』。

 それを知った時、今まで褒めてくれていたことは、本当の称賛ではなく、そう言う教育方針だから褒めていたのだ、とアルドは考え、以来、母には不信感をつのらせている。


 後ろから駆け足の音がした。近づいてきて、それはアルドの前に回ってくる。ユナだった。

 息を切らせた彼女は、いきなりアルドの手を取り、何かを握らせた。


「アルド、家、出たの気づかなかった。なんにも、食べたり……飲んだりして、なかったから……。これ」


 チラリとだけ、アルドは握らされたものを見た。今流行りの、おいしく栄養が取れる健康飲料だった。それをそのまま、つき返す。無言でユナの横を通り過ぎ、歩き続ける。

 ユナがその後をついてくる。


「アルド……」

「うるせぇ!」


 怒鳴ると、彼女は足を止めた。

 アルドはそのまま歩きづつけていたが、ユナは駆け足でアルドを追い越し、そのまま見えなくなった。


 もしかして、泣かせただろうか……。


 一瞬そんな考えがよぎったが、そう考えるとさらに苛立ちが増した。


「どうでもいい!」


 声に出した。前髪を手でかき乱す。自分が泣きそうなのに、他の人間が泣きそうなことなんてどうでもいい。


「なにがどーでもいいのかなー?」


 肩に、重みがのしかかった。驚いたが、すぐにその声で重みの正体を察する。しかしその正体を確かめたくなかった。


「朝っぱらから女といちゃいちゃして、調子にのってんじゃねぇよぉお?」


 少し離れたところから、もう一人の声がした。

 あいつらだ。あいつらに見られた。

 肩に絡みつく男は、髪を青く染めており、耳にピアスをいくつも付けている。


 少し後ろから声をかけた男は、スポーツ刈りで、一見気の抜けたたれ目をしている。だがその瞳には常に嘲笑を湛えている。


 そして、そのさらに後ろにいる、パーマのかかった長髪の男。


 三人の中のリーダーの男だ。


 アルドには、後ろの男が見えないのに、そこにいるという確信があり、その確信だけで、威圧を感じた。

 長髪の男の、低く落ち着いた――しかし、蔑みを含んだ声がする。


「女を邪険に払う余裕があるってことは、おまえはまだ懲りずに自分がすべてに恵まれてると思っているのか」


 心臓をわしづかみにされ、つぶされたと錯覚するほどに、胸の奥が痛くなる。


「おまえの周りにいるやつは、おまえのばら撒く金目当てで集まってるに過ぎないことを、早く認識するんだな」


 アルドの肩に絡まっていた腕が離れる。そうしてアルドの耳元に唇を寄せ「認識するんだな!」と大声を出す。

 それに怯んだアルドを見て、青髪の男とたれ目の男は文字通り腹を抱えて大笑いした。

 その二人を、アルドは涙の出そうな瞳でにらみつけた。それを見て、二人はさらに大笑いする。


「あらやだ、こわいー」

「見ろ、ザン! 涙目! こいつ涙目!」


 長髪の男――ザンは、無表情にアルドと大笑いする二人を眺める。

 そうして、小さく呟く。


「……貧乏のくせに」


 二人の大笑いがぴたりと止まる。彼らの表情にはニヤニヤ笑いだけが残った。

 ザンは、足早にアルドの前に近づく。そしてそのままの勢いで、右手でアルドの首を絞めた。


「今、そう思ったな? だが下劣なのはどちらだ。その優劣をなぜ金のあるなしで決められる? お前は、ただ運よく金持ちの家に生まれただけの、ただの下等生物だ」


 ザンはアルドの首から手を離した。息ができなかったのは数秒にも満たなかったが、アルドは激しく咳き込み、涙を流した。

 ザンはそのまま何事もなかったかのようにアルドとすれ違い、歩いていく。


「へ……へへへへへっ……」


 突然笑い出したアルドの声に、ザンが振り返る。後の二人も奇妙な物を見るような戸惑った顔をする。


「うわっ、キモっ! なんか笑ってるぞ」

「ザン、ちょっとやり過ぎなんじゃね? こいつ壊れたぞ」


 二人はそう言ったが、ザンの顔は無表情だった。


「何か言いたいことがあるのか? 下等生物」


 アルドはへらへら笑ったまま、口を開く。


「おまえらもうすぐ死ぬから」


 ザンは無表情だったが、青髪とたれ目の二人はぽかんと口を開けた。

 そしてゲラゲラと大笑いする。


「負け惜しみにしてもよぉ! おこちゃますぎるだろ!」

「ウナズキサマにでも頼んだか? おお怖い!」


 子どもがやる、霊を自分の味方につけるおまじないの名前が、明らかにバカにする形で出てきた。


「殺せるもんなら殺してみろよ、ボクちゃん」


 たれ目がそう言い、青髪がまた大笑いする。ザンも、唇に嘲笑を浮かべ、三人は去っていく。

 アルドはその場に立ち尽くした。へらへらとした笑いが止まらなかった。寒風がアルドを斬りつけるかのように走っていく。へらへらとした笑いは止まらないのに、大粒の涙が頬を伝っていく。


 その涙が通る道が、さらに寒風の冷たさを増す。


 ――本当に、あの男は奴らを殺してくれるのか。


 ザンたちに、ああは言ったが、アルド自身信じ切れていない。

 アルドは昨夜の出来事を思い出して、微かな希望と、大きな疑念を胸につのらせる。


 ――本当だったのなら、いつ? 今日か? 明日か?

 ――もしも嘘だったら、探し出して殺してやる。 


 それができれば元々の問題自体を自分で解決できる――わかっていながらそんなことを考える。

 昨夜のあの場所の雰囲気は――あの男の雰囲気は奇妙だった。


 無条件であの男が本物だと感じた。だが今、冷静に考えてみればそんなことが現実で起こるのか、と疑問に思う。

 しかし今は、昨夜の出来事が本当であることを願うしかない。

 動かしたくない足を、引きずるように動かして学校に向かう。


 校門付近で、友達同士なのか、きゃあきゃあと騒ぎながら通学する女子生徒たちがいた。

 アルドの目には、頭がからっぽの馬鹿どもに見えた。

 校内に入り、廊下で似たように騒いでいる生徒たちを見て、馬鹿どもが、と誰も聞こえない小さな小さな声で、呟く。


 教室に入ると皆が振り向き、アルドに朝の挨拶をかけてくる。


「アルド! 今日はカラオケ大会するんだろ? 人数集めといたぞ」


 いつもの遊びの計画。いつも金はすべてアルドが払う。ザンの言う通り、だから皆が集まる。

 アルドはザンたちから日常的にいじめを受けていたわけではない。暴力を受けたのはこの間の一度だけだ。


 彼らはあれを報復だと言った。金持ちだからと調子にのっていて、貧乏を馬鹿にしている人間への報復だと。

 ザンたちは、自分の稼いだものではない金を使って調子にのるアルドが気に入らなかった。だからアルドに暴行した。


 二度と調子にのらないように。


 ここで、皆の集まりに金を大盤振る舞いすれば、また暴行される。あるいはあの写真をばら撒かれる。


 笑顔で話しかけてきたクラスメートに、いつもの笑顔ができなかったアルドは、顔が引きつるのを懸念して俯き「風邪ひいたみたいで今日は行けない」と体調が悪いフリをする。

 すると、クラスメートの顔は、笑顔になる魔法がかけられていて、瞬時に解けてしまったように、無表情に変わった。


「なんだよ、昨日も行かなかったじゃん。ま、しょーがねぇよな」


 そう言ってアルドの側を離れていく。体調が悪いと言うアルド自身の心配を一切せずに。


 彼らの目的は自分と仲良くすることが目的ではない。

 そんなことは初めから知っているのに、涙が出そうになる。

 涙を誰にも見られないように、俯きながら席につく。


 昔から人と友達になる術がわからなかった。一人でいるのは惨めで恥ずかしくて、寂しかった。


 しかし気づいた。人は、物につられてよってくるのだと。


 楽しいおもちゃがあれば、それ目当てで家に遊びに来てくれるのだと。


 自分が好かれているわけではない。そんなことは初めから知っていた。遊びに来た相手は、アルドのことを『すげーすげー』と言いながら、アルドを相手にせず、オモチャにしか関心を寄せなかったから。

 それでも、独りでいるよりはましだった。だからずっとそうやってを作ってきた。

 知っていた。それなのに、わざわざザンにそれを突きつけられた。


 屈辱的なポーズでの恥部を撮影されたのと同じくらいに、屈辱的だった。

 考えたくないのに、様々なことが頭をよぎる。また涙が出そうになる。

 アルドは机に突っ伏して、寝たふりをして顔を隠した。


 「馬鹿どもが……馬鹿どもが……」


 金によって来た達を、誰にも聞こえない声で、罵倒する。


 そうしないと、彼らが取るに足らない存在だと貶めなければ、自分には金を出すことしか価値がないと思われている――それを直視するのは耐えられなかったから。




 後日のホームルームで、青髪の男が自宅マンションの屋上から落下死した、ということが報告された。

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