黒い男は芥掃除をしてくれる

あおいしょう

1 自殺しようとしたら殺し屋に会った

 夜の空に、紙切れが――著名な作家のダリム・リィーンが書かれた札が、何枚も何枚も舞っている。


 束が、少年の左手の中にある。少年の右手が一枚つかみ、その手からすぐに離れ、風にうねらされ、舞い踊り、ネオンが瞬く夜に落ちていく。


 少年の目に映るのは、誰かの生活の灯り。誰かをどこかに導くための灯り。誰かを娯楽に誘うための、笑顔を、媚を、振りまいているような灯り。

 少年はその明かりたちを睨みつけながら、小さく舌を打った。


「てめぇら、こいつが欲しいんだろ。なぁ?」


 彼は、夜景に向けてそう呟き、手にしていた紙束を吹きすさぶ風の中に投じた。

 束は、風にほどかれ散っていく。金が、夜空に散っていく。


 少年の顔に微笑が浮かぶ。唇がゆがんだ形につりあがり、喉から、くくくっ、と声を漏らす。


 つり上がり気味の目の、下まぶたで、涙が盛り上がっていく。少し目にかかる金髪を、手で引っ張り、いじくる。手で覆い隠すようになった瞳から、水滴が一筋の線を引いた。


 低く、喉を振るわせるだけだった笑い声が高くなっていく。やがて高い哄笑を上げ、顔を笑みで破裂させた。


「跪け貴様ら! アルド様の恵みの雨に感謝してひれ伏せ!」


 少年――アルドの叫びに応えたのは風の音だけだった。他に何も声は返ってこない。哄笑が、徐々に小さくなっていき、途切れた。


 あるマンションの屋上。その隅の、フェンスを越えた角に少年は立っている。一歩踏み出せば確実に命を手放してしまう場所に。


 少年は自分の足元へと視線を向けた。歩道に等間隔に外灯が並べられている。それらが突き出ているアスファルトの地面を少年は凝視する。


「死ぬって……やっぱ、痛てぇのかな……」


 迷うように眉間にしわを寄せ、とめどなく流れてくる涙を止めようと、歯を食いしばる。地面から少し視線を上げ、都会のビルの隙間からわずかに、遠く向こうに見える、一軒の豪奢な建物を睨みつける。


「糞親父……」


 顔がこわばる。こわばりを無理矢理、笑みに変える。


「どいつもこいつも糞だ。あいつもあいつもあいつもあいつも! ――へへっ。だから俺は、こんなくだらない世界を放棄するんだ。逃げるんじゃなくてな。俺が、捨ててやるんだ」


 服を捲り上げる。青黒く痛々しい痣のついた腹を、少年は手でさする。目を見開き、無理矢理の笑みを引きつらせ、笑い声を引きつらせる。


「――さぁ、もっとパーっといこうぜ。餞別だよてめぇら。くれてやるよ」


 足元に置いてある札束を詰め込んだ鞄に目をやる。調子はずれな笑い声をもらしながら、鞄から札束を取り出そうと屈みかけたときだった。


 扉の開く音がした。反射的な動きで少年は振り向く。困惑した表情で扉のほうを睨みつけた。


 扉を開けて出てきたのは男だった。


 男は闇に溶け込みそうな黒髪を風に遊ばせながら、後ろ手にドアを閉めた。彼はアルドに気づいたらしく、少年に視線を固定した。


 少年は息を呑んだ。汗が全身から噴出してきて、頬を伝い落ちていく。


 あの男には、自分が何をしているように見えるだろうか。自殺しようとしている姿にしか見えないだろう。ならばきっと彼は自分を止めるだろう。止められて生き残り、もしも父親にこのことが知られたら……――

 頭にそんな思考が渦巻いて、アルドは身を硬くする。


 男はしばらくの間、動かずにただアルドを見ていた。煙草をくわえている。だが、彼はおもむろにズボンのポケットに手を突っ込み、煙草のケースを取り出した。くわえていた煙草をその箱に収める。どうやら火はつけていなかったらしい。


 男に何か言われるかと思い、少年は身構えた。しかし――男は身体を翻し、ふただび扉を開こうとドアノブに手をかけた。


「なんか言えよテメー!」


 少年の叫びが夜の静寂に響いた。

 表情は夜の闇に塗り潰され判然としないが、何も動じていない風なゆっくりとした動きで、男はアルドの方に振り向いた。


「この状況見てわかんねーのか、止めるだろ普通!」


 男は何を言うでもなく、アルドに向けての数歩を足早に歩いた。アルドの前までやってくると、隔てているフェンスを荒々しく掴んだ。騒がしい音が屋上の静寂を切り裂く。


「なんか……って、なに?」


 男が口を開いた。低く響く、声だけで人を地獄に引き込めそうな黒い声だった。


「自殺するんだろ? 俺が何か言わなければならない理由が、どこにある?」


 フェンス越しに瞳を覗き込んできた男の瞳に、アルドは心を射殺されたように何も考えられなくなった。


 黒い男だった。

 肌はこの闇の中でも浮き上がるほどに白いのだが、アルドは目の前に立つそいつは黒い男だと思った。確かに髪の毛も身に着けているコートも、覗き込んでいる瞳も黒い。だがそれ以上に纏っている雰囲気が、底の見えない穴の暗がりのように、黒い、と感じた。


 体が震えた。ワケもなく首を振りながら、思わずフェンスから一歩後ずさりする。


「落ちるぞ。いいのか?」

「え……」


 言われて足元を見る。片方の足が半分宙に浮いていた。


「ひ……? あ、ああぁぁぁあああ!」


 あわてて前方にしゃがみこみ、フェンスにすがりつく。アルドの恐怖による震えと一緒に、フェンスがカシャカシャと音を立てる。


「なんだ。死にたくないんだな」


 少年は、はっとした表情で顔をあげた。フェンス越しに男の足元にへたり込んでいる。少年を見下ろしている男は無表情だった。目の前で少年が死に掛けた今の状況でも無表情だった。アルドは男の無表情を凝視して、表情を怒りに染めていく。


「……なんっ、だよ……っ!」


 目に涙が溢れてくる。かみ殺そうと歯を食いしばる。


「なんだよ……。なんだよ、てめぇも俺を馬鹿にすんのか! 自殺を止める価値もない同情する余地もない糞虫に見えるのか! 死ぬ勇気もないチキン野郎かっ! 俺は! 俺には……! 俺が、命令すればどいつもこいつも媚びへつらう! 女は笑顔で言い寄ってきて、男は進んで舎弟になる……俺にはそれほどのカリスマ性が! 力が、あっ…………――」


 かみ殺していた涙が、かみ殺せなくなった。涙は、かみ殺そうとするアルドを嘲笑うかのように頬を伝い落ちていく。


「…………あ、あ、った、のに。のに。あいつらが、悪い……んだ。暴……力で、なんて、そんで……あ、あん、あんな……写真…………」


 後は言葉にならず、嗚咽だけが夜の静寂を震わせた。黒い男は泣き続ける少年をただ無表情で見下ろしていたが、不意に口を開く。


「なにか、して欲しいことはあるか?」


 男の声に、少年は涙が次々溢れてくる目を見開いた。


「なんでもいい。して欲しいことがあるのなら、言ってみろ」


 男の無表情を凝視する。同時に頭の中に『あいつら』との記憶が走り出した。

 哄笑と罵りの渦。自分の血の飛沫。何度も襲い来る全身への暴力。


 二人の人間に両脇を拘束され、逃げることもままならず。正面の、薄く笑いを浮かべる男の拳に、いくつもの苦痛を植えつけられる。


 そうして立っていられなくなり、地面に転がされる。抗う意志も根こそぎ奪われた自分の下を、嬉しそうに楽しそうに脱がしていく、あいつら。

 シャッターを切る音。瞬くフラッシュ。不本意にも自分の恥部を記録された。


 下卑た笑い。嘲笑。見下した台詞とともに踏みつけられる踏みつけられる……――――


 思い出すと涙がにじんでくる。吐き気が込みあがってくる。体中につけられた痣が疼いてくる。心が絶望に支配されて強烈な怖気に襲われる。


 もしも、高貴で誇り高いはずの自分が、あんなゴミどもにいいように扱われていることが知れたら。もしもあの写真が母の目に触れたら。兄の目に触れたら。――父の目に触れたら。


 今まで以上に蔑んだ瞳で見られるだろう。それとも哀れみか、呆れか、同情か……。


 実際にそのときが来てしまったら……きっと自分は屈辱と羞恥で死んでしまう。


 そんな精神苦痛を強いられるくらいならば、先に死んだ方がマシだ。死ねば自分という意識は無くなり、恥も屈辱も関係ない。アルドはそう思った。そう思ってこの屋上に立っていた。しかし可能であるならば――


「あいつらを殺してくれって言ったら……してくれんの……?」


 可能であるならば。元凶であるあの三人を殺したい。

 あの三人を消し去ってしまえば何の問題もないのだ。そもそもなぜあいつらのために自分が死ななければならないのか……。


 そう理解してはいるが、アルドは自ら屈辱の生を放棄することしか、選択することができなかった。


「金さえ出せば、請け負ってもいい」


 黒い男が言った。


「…………は?」


 アルドは呆けた表情で聞き返した。フェンス越しにこちらを見下ろしている男は、おもむろにズボンのポケットからタバコを取り出した。


「金さえ出せば、俺がそいつらを殺してやると言ったんだ」

「は? …………」


 タバコを咥えて火をつける。アルドの瞳には、その灯されたほんの小さな火が、自分に対する希望の光に見えた。


「あんた……なにモンなんだよ。……殺し屋?」

「別に何者であるつもりもない。請け負うのは殺しに限るわけじゃない。金さえ出せば……出した奴の想いが本気なら……俺はそいつの何にでもなるつもりだ」

「は……」


 ――あいつらを。殺せる。


 少年は自分の足元に置いてある鞄に視線を向ける。中には札束が入っている。

 父親の金庫から抜き取ってきた金だった。今まで親から金を盗んだことはなかったが、罪悪感は特にない。腐るほどに有り余っているのだ。どんな形であれ、使ってやった方がいい。そう思い、昔から札束をばら撒いてみたいという願望を、死ぬ前に叶えてしまおうと考えた。


 だがその金をこの男に渡せば、死ぬという道以外が開けるのだろうか。自分を屈辱のどん底に突き落とし、人間の尊厳をむしりとったあいつらを亡き者にできるのだろうか……。

 アルドは眉間にしわを寄せ、玉の汗が浮かぶ額に手をやり、思案する。


「バカじゃねーの。殺し屋とか、そんなんそのへんにホイホイいるかよ」

 震える声を押し隠して、唇を嘲笑に歪めてみる。言ってみたが、自分の言葉を信じていなかった。この男が普通でないことは感じる。この黒い男が語るのは真実だと感じる。


「信じないならそれでいい。今からでもそこから飛べばいいし、帰って今までの日常を続けるのもいいだろう。信じた上で、そうするのもかまわない。お前がしたいようにすればいい」


 男は何の感情も篭らない瞳で、アルドを見下ろし続けている。


 この黒い男が一体何かはわからない。人間ですらない気がする。存在すらしていない気さえする。もしも男が、自分は地獄から赴いてきたのだと言えば、アルドは信じたかもしれない。それほどまでに得体が知れず、黒い空気を纏った男だ。


 ――どうする……? 俺は……どうしたいんだ……?


 アルドは男の顔を見上げた。傍らにある自分の鞄を見た。自分の後ろの、一歩踏み出せばこの世と決別できる場所を見た。もう一度男の顔を見た。震えがとまらなかった。


 男の得体の知れなさが、アルドの心に、恐れに近い感情を膨らませる。だが――後ろに一歩踏み出して、高所から落ちる自分。地面にたたきつけられた自分。ばらばらになって内臓や脳みそを撒き散らしている自分が脳裏を掠め、吐き気が込みあがってきた。


 ――死にたく、ねぇ……。


 生きていれば屈辱しかないと思った。だから死ぬことを選んだ。だが、死にたくはない。屈辱にまみれて生きるのも嫌だ。だが死にたくはない……。


 もう一度、金の入った鞄を見た。

 男が、タバコの煙を細く吐き出す。咥えて、吸う。先端の光が微かに強くなる。


 ――あの光は、希望だ。俺にとっての希望だ。


 どうでもいいのだ。騙されていようがなんだろうが。地獄から赴いてきた光だろうがなんだろうが。

 金ならここにある。腐るほどに有り余っている金が。ならば得体の知れない藁にすがってみるのも、ほんの小さな希望の光に頼ってみるのも、悪くはない。自分は命を捨てるつもりだったのだから。


 金の価値を知っている生物は、すべて金で動くのだ。動かせるのだ。金は力で、俺はその力を持っている……。


 少年は曖昧な思考の中で結論をだした。そうして、自分の憎む相手の死に顔を浮かべながら、静かに笑みを浮かべた。


「わかった。じゃあ、やってみろよ」

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