彼女に夏は、よく似合う。


 “ご無沙汰しています”

 そんな件名の、謂わばありきたりなメール。その差出人が目に入った瞬間、高揚と後悔が同時に襲って来るのを感じた。

 駅前の雑踏の中で急に足を止めてしまい、後ろを歩いていたらしいガラの悪そうな男が舌打ちをして追い越して行く。


 “先生、……私、先生のこと、本当に尊敬してます”


 キラキラとした瞳をこっちに向け、惜しみない笑顔で私を見ていた彼女の姿が、ありありと思い出される。


 教員として出会った、初めての生徒のひとりだった。

 緊張で一杯で、不安で、でもそれ以上に楽しくて。

 それは全て、彼女のおかげだった。


 メールの文面を先へ先へ読み進めようとしてしまう節操のない目を諌めるように、携帯電話を閉じ、小さく溜め息を吐いた。

 2度目の、今度は女のものらしい舌打ちを背中で受け、せめて駅までは歩いておこうと足を動かす。


 “東高校でお世話になっていました、波瀬灯です。覚えてくださっていますか?”


 嫌でも、目が追ってしまった文字たちが、頭を占領していく。


 “急遽帰省することになったのですが、先生、もしご都合が宜しければ、お会い出来ませんか?”


 端正な敬語たちのその下に一言だけ混ぜられていた、“お願い、会いたい”——せめて、せめてその言葉だけでも見逃していれば。

 そうすれば私は迷いなく、その端正な敬語に相応しい先生としての言葉遣いで、断りのメールを返すのに。


「波瀬、灯さん……」


 どうしてあなたはそんなにも、私の心を乱してしまうの?

 どうしてあなたは……私の全てを奪って行くの?


 “先生、好きです”


 廊下に誘い出された私は、キラキラした瞳を伏せ、柔らかそうな頬を染めてその言葉を発した彼女に、怖気づいてしまった。

 今日みたいな真夏の、蝉のうるさい午後だった。


 確かに大好きで、確かに手に入れたいと願った人だった。

 だけど、いざ手に入ってしまうかも知れないとなると、怖かった。


 眩しいほどの全てを、壊してしまうんじゃないかと思った。


 ありがとう。そう返したような気がする。

 汚い手なのは分かってた。

 でも、そうするしか無かった。


 だって、好きだから。

 愛しているから。


 何て返せば良いか、そんなのは知っている。

 "should"と"want"が一致することなんて滅多にない。そんなことは、とうの昔から知っていた。

 だけど、どれが正解か……それだけは、いくつになったって分からないものなのだ。


 “お願い、会いたい”


 何かがあったのかも知れないから、相談に乗らなきゃいけないから、なんて適当そうな言い訳を、思い付いては捨てていく。


 どうしなきゃいけないかなんて、とっくに分かりきっているのに、それでも悪足掻きをしている自分が滑稽だった。


「先生!」


 喧騒の中、耳が、その声を捉えた。


「先生っ!」


 気付きたくなかった。

 せめて、振り向きたくなかった。

 でも、そんなのは私のエゴだから。


「あれっ! 久しぶりじゃん! 元気してた?」


「はい! 先生は?」


「相変わらずよ」


 大きなキャリーケースを持った彼女は、変わらない笑顔で私を見る。


「すごい偶然! それとも、待っててくれたんですか?」


 今から学校にご挨拶に伺おうと思ってたんですよー、と歌うように言う彼女。

 茶目っ気たっぷりの笑顔は、私の心をズタズタに切り裂いていく。


「ん、とね……」


 曖昧に笑って誤魔化すなんて、子どもでもやらないだろうに。

 言えばいいのだ。悪いことをしてるわけじゃない。

 当たり前のことだ。社会的には、当たり前のこと。


「もう、ずっと先生に会いたかったんですよー! 会えて本当に嬉しいです! あ、あそこの喫茶店で休んで行きませんか?」


「えっと、」


 言わなきゃ。


「行きましょ、私荷物持ちますし」


「待っ、」


 彼女が気付く前に。


「え……?」


 私の鞄を奪い取ろうとしたはずの彼女が、急に固まった。


「あ、えっと……先生、結婚したんですね……あはは」


 彼女の視線の先には、数年前には着いていなかった指輪があった。

 左手の薬指に着けられた、綺麗な指輪。


「あ、……うん」


 間に合わなかった。

 何やってるんだろう、私。


「なーんだ、早く言ってくださいよー! もう、私だけ浮ついちゃって、バカみたいじゃないですか!」


「ごめん」


 いくつも歳下の彼女がこんなに気丈に振る舞っているのに、私は、何も言えてない。


「謝んないでくださいよ! 祝、結婚! ですよ! 幸せ掴めたってことですよ!」


 それまでは本当に楽しそうに喋っているように見えたのに、“幸せ”と発した瞬間に、痛みを堪えるような表情になった彼女を見て、つい、抱き寄せてしまった。


「灯、……ごめん」


「な、んで……謝んないでよ。ふつーだし。付き合ってた訳でもないし、全然、私、何にも気にしてなんか……」


「本当、ごめん」


 私の胸の中でもまだ、気丈に振る舞おうとしていた彼女も、すぐに声が涙で濡れてきてしまっていた。


「ありがとうって言ってくれて、嬉しかった。受け入れてもらえたって。でもそれは、先生が先生だったからで……そんなことにも気が付かないなんて、私ってばバカだなぁっ……」


「違う!」


「え?」


 私の声に驚いたのか、俯いていた顔を上げ、私の顔を見る。

 涙でぐしゃぐしゃになった瞳が揺れているのが見える。


「それは違うよ。違う」


 つい癖で目を逸らしたくなったけど、しっかりと目を見詰めて、言葉を紡ぐ。


「こんなこと今更言うのは、灯にとって嫌な奴かも知れないけど、私……本当は好きだったんだよ。灯のこと。だけど、怖くて。私なんかじゃ絶対幸せには出来ないから。だから、……」


「…………ほんとだ」


「え?」


 彼女は呟き私の腕から離れると、手の甲で涙を乱暴に拭い、小さく笑った。


「先生、やなやつ」


「……ごめん」


「うん。大好き」


 その笑顔は、今までに見たことが無いほどに儚げで、美しかった。


「大好きだから、だから……ちゃんと幸せになってね」


「……うん、ありがと」


「あー! 私もさっさと相手作んなきゃね! 負けてらんない!」


「波瀬さんなら大丈夫だよ」


「だと信じたいな」


 カラカラと笑った彼女は、キャリーケースを持ち直し、それじゃ、と頭を下げた。


「元気でね」


「先生こそ。今日は……偶然だったけど、会えて良かった」


「じゃあ……また」


「うん」


 お互いに手を振って歩き出す。

 もう会えないと分かっていながら、“また”と言ってしまった自分が可笑しかった。


 結婚しようが何をしようが、結局彼女にはやられてばっかりだ。

 なんの迷いもなく青を保つ空を見上げ、目を細めた。


 彼女にはやっぱり、夏がよく似合う。

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