子どもたちは集う

 ふわりと宙に浮かんだ煙に目を向ける。

 セイゴが立っているのは河川敷だった。河原に降りるための、石でできたタイルを敷き詰めた地面を斜め三十度ほど傾けたような場所だ。彼の両隣には少年二人が座っている。

 そのうちの一人が、沈黙に耐えかねたように口を開いた。一見活発そうな少年だ。


「……ねえ、セイゴ君」

「あ? どうした」

「すごく助かったしもう未練もないからいいんだけどさ、ちゃんと手加減してくれた?」

「ああ……まあ大丈夫なんじゃねえの? 救急車は呼んどいたぜ。つーかお前、自分を虐めてた奴らの心配かよ」


 呆れ声をかけられて、ケンイチは困ったように眉根を寄せた。セイゴからしてみれば解決したんだからいいんじゃねえかという感じだが、本人はどうにも気になるところがあるらしかった。


「いや、うーん……なんて言っていいか分からないけど、先生までやっちゃったら流石にセイゴ君が大変じゃないかなって……でも、ビルの屋上から見ててすっきりはしたよ」

「じゃあもういいだろ、はつけてやったんだからよ。俺のこと心配してもしょうがねえだろ」


 投げやりというより、セイゴは心から疲れていた。そのまま倒れ込むようにしてその場に座り込む。決して今日殴り飛ばしてきた奴らに体力を消耗させられたわけではない。それとは別の理由だ。


 ケンイチの反対側、ゆらゆらと体を揺らしてぼんやりと目の前を見つめていたタカヒロがぽつりと呟いた。


「なんか……楽しそうだね」

「ああ。あいつらだけがな」


 セイゴが疲れきった声で言う。ここに集っている三人は別に示し合わせて集まったわけではなかった。ケンイチとタカヒロの周囲にをつけたのが今日だっただけだ。

 彼らは何を思ったかセイゴが一仕事終えた後についてきて、セイゴも特に気にせずここまで来た。三人が集まっている理由などそれだけで、特に意味はないはずだった。


 だが、目の前の光景はなんだ。


 二人の男女が肩を寄せあって何事かを話している。明らかに距離感がおかしい。加えて取り合わせもおかしい。

 ハンチング帽を被って柔和な笑顔を浮かべている青年と、ニット帽を被ってはいるがマスクはせずに彼の話を瞬き一つせず聞いている少女だ。パーソナルスペースという言葉を知らないのか、全く甘い雰囲気は漂っていないのにどことなく目をそらしたくなる距離感で二人は河原に座っていた。


 少女のほうはタレントだかモデルだか女優だか……とにかく、娯楽にあまり興味のないセイゴですら知っているような有名人だった。昨日もちらりと大通りのスクリーンに映っていた気がする。そんな少女が商業スマイルなどとはかけ離れた真剣な表情で相対しているのは、不治の病を患っている青年だ。ドラマが一つ生まれそうだなどとどうでもいいことを思う。


 三人がこの河原に着いたときにはもう二人共そこにいた。二人が連絡を取り合うだろうということはあの廃墟で分かっていたが、こんな直接的に会うとは思っていなかった。スキャンダルとか気にしないのだろうか。


「なんで僕ら……隠れてる、の?」

「俺が知るかよ。つーかタカヒロ、お前薬が抜けてもぼーっとしてんのは変わらねえな。まあそれが普通なんだろうがよ」

「あ……えっと、お、おかしい?」

「別におかしくはないんじゃない? 最初のときの喋り方より随分話しやすいよ」


 ケンイチが笑うと、タカヒロもぎこちなく笑った。セイゴは顔をしかめる。自分を挟んだ両側で笑顔が交わされているという状況が慣れない。

 しかし三人とも分かっていた。目の前の光景から逃避したくて話をそらしているということを。タカヒロは大して気にしていない風ではあったが、それでも視線はあらぬ方向を向いている。


 座っている彼女があの有名人、リコもといリョウコであることにも拍車がかかっているのだろう。三人は今リョウコと話しているシンジロウとは違って、彼女のことを有名人というフィルターを外して見ることは難しい。

 しかし時間は平等だ。さわさわと河原一面に広がる草を揺らして影の絵を描いている風は生温く、地面を優しく焼く夕日が落ちるのは遅いとはいえ、このままだと夜になる。

 一服済ませたしもう帰りたい気分のセイゴだったが、なんだか目の前の光景を放っておくのも躊躇われた。あの二人、話し込んでしまって気がついたら夜になったなんてことも有り得そうだ。


「でも、どうしようね。ここから三人一斉に帰ったりしたら多分気づかれちゃうと思うし」


 困ったようにケンイチがため息をついた。そう、それもある。あの二人はどう考えても目立つわけで、なのに人の気配に聡すぎる。今気づかれていないのは三人が微動だにしていないのとただの幸運だ。

 結局、三人はその場でうずくまっているしか手立てもなかった。一体これはどういう状況なのか、きっとセイゴ以上に嘆いている人間はいまい。


 しかし幸か不幸か、八割ほどは不幸に傾いている気もしたが、ともかく唐突にその場に一石の声が投じられた。


「あれ? みんな集まって何やってんの? お散歩?」


 一斉に五人が後ろを振り向いた。河川敷の上にある細い道路からよく通る声で呼びかけた彼女に、セイゴは単純に面倒だと思う。

 彼らの次の反応が分かっているから、面倒だ。


「あ、あの、えっと、マイ……さん?」

「マイでいいよー! えっと、誰だっけ?」

「あ、僕は……」

「あー! シンちゃんじゃん! リョウコちゃんもいるー! ねえねえ何してんのー!? 病院はー? お仕事はー?」


 目まぐるしく関心を向ける矛先を変えながら、金に近い髪色の少女はぶんぶんと手を振っていた。子供さながらの仕草に川原で話し込んでいた二人がぽかんとしているのをセイゴは肩越しに振り向いて見た。

 ため息が知らず漏れたのはセイゴだけではなかったらしい。隣でケンイチが同じように嘆息しているのを見て、二人して顔を見合わせる。


「ああ、マイさん。久しぶり。それにみんなもいたんだね。言ってくれれば良かったのに」


 いつの間にかこちらへと上がってきていた少年にセイゴは呆れ混じりの視線をよこす。


「声なんてかけれるわけあるか。俺はそんな野暮で面倒なことはしねえよ」


 シンジロウに続いて上がってきていたリョウコを一瞥する。シンジロウと話していたときとは全く違う無表情はあまり見つめていたいものではなかった。

 リョウコがシンジロウに気があるのだろうなということくらいは分かる。タカヒロはもちろん、ケンイチもうっすらとしか気づいていないようだが、それは彼らが他人に目を向けられるほどまでに至っていないからだ。


 誰にもスピードというものがある。セイゴにあるのはタイムリミットだったわけだが。


「みんな久しぶりだねー! 元気ー? あはは、あたしはぶらぶらしてみたい気分でねー」

「マイさん、あの、す、すそ、僕の裾、踏んで……」

「あたし、さっき振られちゃったんだー。あはは」



 他人の気持ちを汲み取りたくても汲み取れないタカヒロと、汲み取るつものさらさらないマイでは会話が進まない。シンジロウも同じことを思ったのか、絶妙なタイミングでマイさん、と声をかける。相変わらず言葉の隙間を通り抜けて貫くようだ。


「タカヒロくんの裾を踏んでるよ。それだと立ち上がれないんじゃないかな」


 きょとん、と目を瞬かせたマイは指さされた先に目をやってさらにまばたいた。


「あ、ごめーん、痛かった? あはは、あたし、全然気づいてなくて、ごめんねー」

「いや、うん、大丈夫……」

「えーと、誰だっけ?」


 話題が本当によく変わる。耐えかねたセイゴは「タカヒロだろ」と言った。「そろそろ覚えろ」とも言うと、マイよりタカヒロのほうが反応した。驚いたようにセイゴを見てくる。

 セイゴは思わず目をすがめた。


「なんだよ」

「え、あ、いや……その」

「セイゴくん、怯えているよ」


 シンジロウがやんわりと口を挟んだ。嫌味ったらしいセリフなのに少しもそんな感じがしない話し方だ。


「あ? 別に聞いてるだけだろ」

「なんか、言い方が怖いんだよな。あとその目とタバコ」


 シンジロウが言ったことで怖さが半減したのかケンイチが悪びれもせずに指摘する。構成要素の殆どを貶されて、セイゴはさっきとは違って明確に意思を持ってケンイチを睨んだ。

 しかし彼は肩を竦めたのみで怯えた素振りも見せない。図太くなったものだと呆れてしまう。


「でも、本当に久しぶりだね。みんな集まるなんて」

「みんなじゃねえだろ」


 実際、いない奴らのほうが多い。ゼロ番も含めればの話だが。


「言葉の綾でしょう」


 リョウコが口を開いた。セイゴは思わず鼻白んで、まじまじと見てしまった。


「なんですか。見ないでください」


 はっきりと顔をしかめられる。鼻が触れそうなほど近くでシンジロウと話していたことは棚上げらしい。

「いや、別になんでもねえよ」

「そうですか、では見ないでいただけますか」

 シンジロウ以外には辛辣だ。セイゴはやれやれと肩を竦めた。


 ふわりと風が吹く。


「みんな元気にしてたんだねー! あたしはまあ、振られちゃったんだけどさー」


 よほどショックなのか、朗らかに笑いながら何度もマイはそれを口にしていた。リョウコがポツリと呟く。


「まあ、あなたについていける男性というのもそうそういないでしょうね」

「え? ついてこなくていいよ? 付き合ってくれればそれで、全然。あはは、まあ、振られちゃったんだけどねー」

「……そういうところですよ」


 心做しか哀れみを含んだ視線だった。

 ケンイチがそういえば、とシンジロウ達のほうを見る。


「なんで二人はこんなところにいるの? 病院とか、仕事はいいの?」

「お前、それ聞くのか」

「え、何が?」

「……いや、別にいいけどよ」


 リョウコとシンジロウがなぜここで逢い引きなどしているのか、という点についてはあまり見ないほうが得策だと思っていたセイゴとしては、知らないというのは強いな、と思うのみである。


 シンジロウはにこりと笑い、リョウコは顔色一つ変えずに答えた。


「病院から抜け出してきたんだよ」

「私は普通に逃げてきました」

「おい」


 だって約束してたからね、と悪びれなく笑うシンジロウに、一回仕事に穴とか開けてみたかったんですよね、と薄く微笑むリョウコ。罪悪感など欠片もなさそうだ。

 セイゴはため息をついた。自分もねじ曲がっている自覚はあるが、この二人は単純に歪んでいる。


 ねえ、とタカヒロが口を開いた。


「シ、シンジロウ君。ありがとう。僕、きちんとお母さんと話せたことの、お礼、言えてなくて」

「ああ、話せたんだね。それは良かった」

「う、うん。セイゴ君も、色々、助けてくれて」


 伏し目がちに告げてくる。セイゴはゆるりと首をかしげた。


「俺はつけてやっただけだろ」

「でも、僕、あの、嬉しかったから」


 殴りこそしなかったもののタカヒロの母親を半泣きにさせてしまったのだが、それで良かったらしい。よく分からない。

 まあセイゴは親というもの自体理解不能なので、特に気にしないことにした。



「それにしても」



 再び言葉の隙を突くように、シンジロウが出し抜けに笑う。


「みんな、元気そうで良かったよ」

「お前がそれ言うのか? 三重の意味くらいでおかしいだろ」


 この中で一番長生きできそうになく、全員の相談に乗っているために全員の動向を知っていて、そもそも元は自殺しようとしていたはずだ。

 しかし、シンジロウは微苦笑を浮かべるのみだった。


「言ったじゃないか。って。僕は、みんなもそうあってくれれば嬉しいだけだよ」

「そうですね」


 リョウコが神妙な顔で頷いてシンジロウを見た。彼もその顔に笑いかける。セイゴは顔を顰めて目をそらす。なぜこんな雰囲気を見せつけられているのだろう。


「そういえば、みんな、それぞれの悩みは解決したの?」


 ケンイチが首を傾げる。「悩みー?」と反応したのはマイだ。一番悩みがなさそうで、実際その通りだろう彼女にケンイチが言う。


「そうそう。家族のこととか、病気のこととか」

「あー……あ! あたし、ヘルペス治ったんだよ! シンちゃんに教えてもらった薬塗ったの。そしたら、ほら!」


 嬉しそうに笑って唇を指さす彼女にシンジロウが苦笑し、リョウコが呆れる。


「それは治ったんじゃないですよ。治らないって、自分で言ってたじゃないですか」

「え? でも、綺麗になったよ?」

「治まっただけでしょう」

「うん、治ってるよ?」

「……まあ、それでいいならいいです」


 言っても無駄だと思ったのか、本人がいいならそれでいいと本気で思ったのか、リョウコは肩を竦めてそう呟いた。

 すると、リョウコちゃんは? とマイが邪気のない笑顔で促して、彼女に視線が集まる。リョウコは一瞬嫌そうな顔をしたものの、ため息をつくとちらりとシンジロウを見上げた。

 何故そこでシンジロウを見るんだ──と、セイゴ達三人は思ったが、口には出さない。シンジロウは微笑んで軽く頷いた。


「……まあ、あれからこっぴどく叱られましたけど、それほど気にはなりませんでしたね。それどころか私もだいぶ反抗できるようになって、私自身が驚いているくらいです。仕事も、サボったのは今日が初めてですけど、家出なんかはしてみました」

「……想像出来ねえな」


 ふっと彼女の笑みが濃くなる。


「まあ、『リコ』としての私を見る機会の方が多いでしょうしね、別にいいです」

「僕はテレビとか最近はあんまり見ないし、『リョウコ』さん自身を見ることのほうが多いと思うよ」

「……そうですか」


 俯いた彼女の表情がどうなっているのか、シンジロウは分かって言っているのだろうかと、セイゴは呆れてため息をついた。

 そのため息にムッとしたように、「あなたこそどうなんですか」とリョウコが問うてくる。


「俺か?」

「そうですよ。どうなったんですか、お母様とは」


 嫌味かと思ったが、リョウコは至って平坦な視線でセイゴを見ていた。気がつけば皆、それこそタカヒロですら興味津々と言った表情で見ている。その光景を、セイゴは面白いようなくすぐったいような気持ちで見た。

 セイゴは宙に視線を向けた。どれほど前だったか、恐らく集いを終えて比較的すぐの頃の記憶が思い出される。

 無言でタバコを口に運び、含んだ煙を宙に吐き出す。


「それなんだがな、無くなったんだわ、その話」

「え?」


 素っ頓狂な声を上げたのはケンイチだった。それだけでなく、皆瞠目した表情でセイゴを見ている。


「殺されそうになってたとか、そういうのは?」

「だから、その可能性自体がなくなったんだよ」

「どうして?」

「あの男が死んだんだよ。俺の母親に言って、俺に保険金をかけさせた奴が」


 皆がぽかんと口を開けた。セイゴは皮肉げに唇を歪めてタバコをくわえる。


「酔って階段から落ちたんだとよ。コスタリカの奴は酒に弱いのかねえ……まあ、そんなことがあって、俺の母親が取り乱してる間に、どうにかしようとしたらどうにかなったぜ」


 シンジロウの協力もあったがな、と付け加えると、「僕自身は大したことはしてないよ」と微笑みが返ってきた。まあ確かに、実際役に立ってくれたのは彼の両親なのだが、シンジロウが窓口になってくれたことには代わりない。セイゴはどこまでも謙遜する彼に苦く笑った。


「こんなあっさりカタがつくもんなのかと思ったら……いや、ちげえな。あの男があんなにあっさり死んじまえるような人間なのかと思ったら、死ぬのがいっそう馬鹿らしくなったってわけだ」


 かち、とつけた火が揺らめいて、一瞬で消えた。

 そのまま、ちらりとタカヒロを見る。顎をしゃくると「ぼ、僕?」と挙動不審な声がした。いいから話せ、という声なき圧力に、タカヒロはこくこくと頷いて語り始める。


「え、えっと、あのあとシンジロウ君が、病院を教えてくれて。そこに行って、診断してもらったんだ。そ、そうしたら、薬は必要ないって言われて」

「まあ、だろうな」


 どう考えても、薬の抜けたタカヒロは少しどもるだけの普通の人間だ。


「だから、お母さんにそれを言ったんだけど、最初は信じてもらえなくて。シンジロウ君と、シンジロウ君のお母さんとお父さんが、一緒に、説得してくれて。そ、それでも、あんまり納得してくれなくて」


 タカヒロは声を震わせ、そこでちらりとセイゴを見た。セイゴもなるほどな、と思う。自分が今日何をしたのか、それを思い出していた。


「それで、セイゴくんに頼んで、えっと、? を、付けてもらおうと思ったんだ。本当は、頼むつもりなかったんだけど。でも、このままだとどんどん僕、悪くなっちゃいそうで」

「まあ、ちょっと言ったらすぐ泣いたからな、お前の母親。あんま話っぽい話はできてなかったが」

「そ、そんなことないよ。僕、お母さんが泣いてるの見て、駄目なことだけど、ちょっとすっきりしたんだ」

「全然駄目なことじゃないよ。僕も今日、結構すっきりしたし」


 いきなりケンイチが口を挟んできて、タカヒロは少し驚いたらしかった。しかしケンイチの人好きのする笑みに安心したのかへらりと笑う。

 シンジロウが気遣うようにケンイチを見た。


「同級生とのことが、解決したのかい?」

「うん。シンジロウ君に相談にのってもらったのに悪いんたけど、セイゴ君がこう、ガツンと」


 下手くそな殴る振りに、セイゴは声を上げて笑った。


「まあ、いじめなんてするやつは大概根性無しだが、あいつは相当なビビりではあったな」


 タバコをくゆらせながら再び記憶を探る。一発殴っただけでぎゃんぎゃんと喚いたのは教師のほうだつた。いじめっ子達のほうが呆然とするくらい、教師一人で叫んでいた。


「鼻っ柱折ってやったら大人しくなったけどよ。あーそうだ。ケンイチ。お前から取ったっていう金、返されたからやるよ」


 何気なく手渡された現金に驚いて、ケンイチがぴゃっと飛び上がった。思わず離してしまい、地面にぱさりと紙幣が落ちる。


「何やってんだよ、もったいねえな」

「え、何って、え!? な、なんでお金!?」

「お前から取ったんだろ?」

「いや、うん、取られたこともあったかもしれないけど……」

「じゃあ受け取っとけ。お前のだろ」


 呆然と金を受け取ったケンイチだったが、何を思ったかその半分をセイゴに突き返してくる。


「なんだよ」

「今日のお礼。ありがとう、すごく、すっきりした」

「……そうかよ」


 別にセイゴも聖人君子ではないので、大人しくその金を受け取った。ケンイチの金をケンイチがどうしようと勝手だ。


「んで? お前はどうなったんだよ」

「ん?」

「んじゃねえよ。お前の病気はどうなったんだよ」

「ちょっと、失礼ですよ」

「おいおい、今更失礼とか気にしてどうすんだ」


 ムッとした顔でさらに言い募ろうとしたリョウコをシンジロウが笑って遮った。仲良さげな様子をタカヒロとケンイチが少し羨ましそうに見ていた。


「いいんだよ、リョウコさん。僕の病気は……まあ、どうということもないよ。あの集いから一ヶ月くらいしか経っていないからね。思考は少し鈍ってきたけど、別に何も考えられないほどじゃない。体力とか筋肉とかと違って、酷使したから減ったり壊れたりするものでもないし」


 それに、とシンジロウは穏やかに告げた。


「リョウコさんが手伝ってくれたおかげで、新薬を試したら、ここのところは少し調子が良くてね」

「え? リョウコちゃん、薬に詳しいの?」


 きょとんとした顔のマイに、リョウコが冷静に首を振る。


「違います。自分で言うのもなんですが私は顔が広いので、知人に相談をしただけです。そうしたら回り回って、新薬の話が出てきまして」


 マスコミが面倒でしたけど、という吐き捨てるような呟きをマイはあまり理解していないようだったが、セイゴはもう嗅ぎつけられていたわけだと肩を竦めた。リョウコのような有名人の不治の病を抱えた友人、しかも異性となれば、放っておかれはしないだろう。


「シンジロウさんにも、ご両親にも迷惑をかけまして、すみません」

「そんなことないよ。両親も随分感謝してたし、僕からも、ありがとう」

「いえ」


 またあの甘ったるい雰囲気かと身構えたセイゴだったが、リョウコは罪悪感からか義務的に返事をしただけだった。

 寂しそうな雰囲気をシンジロウが漂わせたとき、マイが出し抜けに明るい声を出す。


「なんかよくわかんないけど、リョウコちゃんのおかげでシンちゃんが長生きできそうってこと? 良かったねー!」


 屈託ない笑顔に、リョウコがハッとしてマイを見た。その瞳が揺らいで、泣きそうに顔が一瞬だけ歪んだ。はい、という声は風にさらわれて柔らかくとける。


「ね、ねえ、話すのもいいけど」


 タカヒロが困ったように携帯を見た。空気をいささか壊したことには気づいていないらしい。


「そろそろ夜だよ。か、帰らないと……」

「あー! そうだった!」


 唐突に隣で叫ばれて、タカヒロはびくっと身を震わせた。目を白黒させている彼に構わず、マイはそそくさと荷物を抱えて手を振る。


「あたし、見たいテレビがあったんだった! 帰るね! ばいばーい!」


 甲高い声で笑いながら、嵐のように彼女は去っていく。タカヒロはその様子を呆然と見つめていたが、のろのろと顔を上げてぎこちなく笑うと、「僕も、帰るね」と少し寂しげに言った。

 じゃあ一緒に帰ろうよ、と声をかけたのはケンイチである。タカヒロは驚いたように目を見開いた。


「え、いいの?」

「うん。あれ? 駄目だった?」

「う、ううん。駄目じゃない」

「じゃあ帰ろうよ! 僕もお腹すいたし」


 楽しそうなケンイチに初めてタカヒロが自然な笑みを浮かべて、三人に向かってぺこりとお辞儀をした。ケンイチもひらひらと手を振る。


 そうして三人が残されたとき、ふと大きな風が吹いた。なびく髪の毛に顔を顰めて、リョウコは「私も帰ります」と告げる。


「あ? シンジロウと一緒に帰んねえのか?」

「一緒に帰ったりしたらまた迷惑をかけますので。そもそも男の人と一緒にいること自体、あまり褒められた行為ではありませんし」


 ならなんでシンジロウと会ってるんだよ、と言いたい気分だったが、リョウコは失言に気づいたのか、シンジロウに「すみません」と謝る。

 シンジロウは笑って首を振った。


「いいんだよ。マイさんも言ってたけど、リョウコさんのおかげで僕はもう少し思考を続けていられそうなんだから」

「……はい」


 薄く微笑んで、リョウコはそのまま背を向けた。シンジロウがその頭を掠めるように撫でたが、彼女は止まることなく歩き去っていった。



 二人、その場に残される。

 セイゴはがりがりと頭を掻いた。


「……おい、お前」

「うん?」

「どうすんだよ、あんなに好かれといて」

「誰のことかな?」

「とぼけてんじゃねえよ」


 呆れた声に、分かっているよ、とシンジロウが言葉を返す。


「ちょっと、ここまで好かれるとは思っていなくてね。僕も、まあ、それなりに嬉しいし」

「……殊勝なこと言ってんじゃねえよ、かゆいぜ」


 恋愛方面に対して、二人はあまりにも経験がなさすぎる。それでいいのかと呆れたセイゴだったが、シンジロウは寂しそうに笑っただけだった。


「僕はいつかあの子より先に死んでしまう。それなのに、こんなことをしていて、いいはずはないんだけどね」

「恋愛に良い悪いもねえだろ。好きなことしたらいいんだよ。嫌いってんじゃねえならな」


 シンジロウが少し意外そうな顔をした。


「……君にそれを言われるとは思ってなかったよ」

「あ? 喧嘩売ってんのか?」

「いや、そんなことはないよ……ただ、あの子が後追いでもしようとしたら、どうしようかと思ってね」

「そんときはまあ、俺が一緒に死なせてやるよ」


 きょとん、とシンジロウが目を丸くする。


「そんなことにはならねえと思うけどな。お前、あの女の精神力なめねえほうがいいと思うぜ。だがまあ、それでもあの女が一人で取り残されるのが嫌だってんなら」


 俺が心中させてやるよ。


 シンジロウは、怒りもせず、笑いもせず、どこか空虚な瞳で「ひどいね、君は」と呟いた。


「そんなことを言うなら、僕はますます死ねないね」

「それが狙いだ」

「酷いなあ」

「お前が死んだら、俺らはどうすんだよ。言っとくが、お前が俺らを生かしてるようなもんなんだぜ」

「そう……そうかも、しれないね」


 ぽつりと呟いて、でも、とシンジロウは少し、寂しそうに告げた。


「心中は……少し、憧れるね。最高の愛の形だとは思うよ」

「……まあ、否定はしねえな」


 曖昧に笑ったシンジロウに「送る」と一言告げたセイゴに、「男に送られる趣味はないよ」とふざけた言葉が返された。


「どこで覚えてきたんだよそんな言葉。馬鹿言ってるとぞ。病院抜け出してきたんだろ、病人一人で夜道歩かせて不意に死なれたらたまったもんじゃねえよ」

「はは。それならまあ、お言葉に甘えようかな」

「……お前、変わったな」

「君もね」


 セイゴは肩を竦め、シンジロウは微苦笑を返した。

 頭の先だけを覗かせた太陽が、二人の足元に長い影を作っていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

集いの子どもたち 七星 @sichisei

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ