飴と傘

善吉_B

 

 この話が、あなたの身に何が起きたかを知る手掛かりに少しでもなることを願っている。


 その日の午前中までは、あなたはいつもと変わらぬ日々を過ごしていた筈だった。

 変わったことと言えばこの季節にしては珍しい快晴だったという位で、あなたは朝一番で今日の仕事を終えた帰り道を、ブラリブラリと暇になった手足をもて余すようにあてもなく歩いていた。仕事が早く片付いた日には辺りを気儘に歩き回るというのも、今ではすっかり馴染んだ習慣だ。

 子供の頃の夏休みを思い出させる晴天だった。油絵のような質量のある大きな雲が、青い空から浮き上がるようなコントラストを作り上げている。

 人の流れに任せて歩き回っているうちに、喫茶店や雑貨屋の多く並ぶ通りに足を踏み入れた。

 擦れ違う人の数は多いが、都心でよく見る無機質な急ぎ足は見られない。皆が銘々に晴れた午後の週末を楽しんでいるようだった。

 無数の背広の男が宙を漂うマグリットよりは、木陰のテーブルで踊りを眺めながら、グラス越しに談笑するルノワール。

 昔の癖は今でも抜けず、ふとした拍子に閃いては、あなたの脳裏に火花のように一瞬のイメージを残していく。あなたは一人心の中で苦笑はすれども、決して居心地の悪い思いばかりを感じてはいないことも自分で承知の上なのだ。

 足の赴くままに歩き続けているうちに、ふと朗々とした声が鼓膜の奥に飛び込んできた。

 ぼんやりとした物思いから覚めて辺りを見回す。どうやら地元でも指折りの大きな公園に差し掛かる入り口にまで辿り着いていたようだった。コンクリートで舗装された店通りはプツリと途絶え、その数歩先から始まる階段を下れば、そのまま公園の土の地面と、今年の深緑の葉を広げ終わった木々の群れがあなたを迎える。

 あなたが聞いた声は、公園に入ってすぐの広場の方から聞こえているようだった。

 呼ばれるようにふらりと近付いていくと、真ん中に置かれた自転車と一人の男の前方をぐるりと囲むようにして、子供が数人膝を抱えて座っていた。自転車の荷台には古びた木箱が載せられており、その更に上には木枠の額が、子供らの方に向けて置かれている。

 先程から聞こえてきた声は、自転車の脇に立っている初老の男のものだった。

 独特の調子をつけた声で語られるのは、あなたが生まれるより更に前、大いに流行った空想科学活劇だ。額の中に入れられた手描きの絵が、男の言葉に合わせて一枚、また一枚と抜かれては新しい場面に切り替わる。

 あなたが子供の頃には既に数が減り、町角でたまに見掛ける程度だった、紙芝居屋だ。

 思わぬところで珍しく、そして懐かしいものに出くわし、ただ通り過ぎてしまうのもどうにも惜しいような気がしたあなたは、子供たちの邪魔にならないよう少し離れたところで立ち止まった。そのまま紙芝居を眺めていると、どうやらあなたが来た時には既に話は佳境に入っていたらしい。既に敵の呼び出した怪獣との戦いを始めていた額の中のヒーローは、数枚で怪獣共々敵を成敗し終えると、マントを翻し最後の一枚の挿絵と共に額の世界から去り、『わり。』の一言だけが書かれた色画用紙を残して幕は閉じた。

 自転車の前の小さな観客たちの拍手に合わせて手を叩いていると、話を終えたばかりの男がひょいとこちらの方に顔を向けた。そのまま意図せず、紙芝居を眺めていたあなたと目が合うことになる。

 狼狽えるあなたとは対照的に、男の方はまるで旧い友人でも見つけたかのように、たちまちパッと明るい顔を浮かべてみせた。嬉しさのあまり両手を広げてあなたの方へと歩み寄る男を視線だけで追いかけ、座ったままの子供たちも体の上だけを動かしあなたの方を振り向く。

 昔から―――とはいっても幼いの時分は平気であったはずだが、気付いた頃には、あなたは人の視線を集めるのが苦手だった。幾つもの目に見られている中、そのまま歩き去ることも出来ずに立ち尽くす。そんなあなたの戸惑いなど露とも知らないだろう紙芝居の男は、目の前までやって来ると、ニッコリと笑ってあなたの顔を見上げた。

「――――――――お久しぶりでございますね」

 お久しぶりと言われても、あなたには紙芝居屋の知り合いなど一人もいない。どこか別のところで会ったことがあったろうかと感がえてはみるが、ニッコリと笑ったままの翁面のような顔も、下がった目尻の皺も、先程の芝居の時とはがらりと変わって穏やかな声音にも、全く覚えが無いだろう。

 眉根を寄せ、訝しむ顔を隠そうともしないあなたに、尚もニコニコと笑う男はこう続けた。

「ずいぶん昔にご友人と、紙芝居を観られたでしょう」

 あなたが子供の頃には、既に相当の数の紙芝居屋がいなくなっていた。通りすがりに見かけた回数も両手の指で足りる程度のあなたが、一人の観客として紙芝居を観たのはたった一度だけだ。

 中学生の頃、ようやく少しずつ自由に使えるようになった小遣いで、どれ一度どんなものか見てやろうかと好奇心から友人二人で足を運んだ。だが、自分たちを除く数少ない観客は幼い小学生だったせいだろうか。話を聞いている最中でふと、己がひどく幼稚なことをしているのではないかという、今となってはそれこそ幼稚だと笑ってしまうような不安に駆られてしまい、どうにも落ち着かなくなってしまったのだ。知り合いや級友が通りがかりませんようにと、その居心地の悪さばかりを覚えていて、肝心の紙芝居の中身も、果たして内容が面白かったのかも今では全く記憶にない。

 その最初で最後の紙芝居を披露した大人が、この目の前の男だというのだろうか。仮にそうならよく覚えているものだが、すぐにそうだと信じるにはあまりにもこちらに覚えが無い。

 だが、目の前の男は笑みを崩さないままで、ご立派になりましたねえとあなたの手を取った。

「折角の懐かしいお客様です。今日は特別にもうひとつ、お話を披露いたしますから、よければ聞いて行って下さいませんか」

 他の観客である子供たちの視線が集まったままであるのを感じながら、否とは言えぬあなたのことだ。おまけに今日は仕事も終えて、このまま帰ってもいつも通りの暇な午後をだらだらと過ごすだけなのだから、この誘いを断る理由も全く無い。

 それではとあなたが頷くと、紙芝居屋は大いに喜んだ。ありがとうございますと深々と、大袈裟では無いかと思う程に礼を言われ、却ってどうにも居心地が悪い。

 お誘いしたのはこちらですからお代も結構ですと初めは言われたが、流石に子供らが小遣いを出している中でそれは出来ない。半ば無理矢理に十円玉を渡すと、受け取った男は紙芝居を乗せていた木箱から器と割箸を取り出した。

 割箸で器から掬い取って差し出されたのは、こちらもまたずいぶんと長い間あなたが目にしていないだろう、透明な水飴だ。

 中学生の頃のような羞恥心こそもうないが、それでも子供らに混ざって座ることも出来ず、今度はもう少し見やすいようにとすぐ後ろに立って見物することにした。手にした水飴が垂れ落ちそうになるのを見て、慌てて下を向き始めた部分を舐め取った。のたりとしたあの柔らかい甘さが、口の中いっぱいに広がったことだろう。

「ちゃんとこうやって回さないと、垂れちゃうよ」

 その様子を見ていたのだろう子供の一人が、あなたの方を振り仰ぎながら、両手に一本ずつ握られた割箸でくるくると水飴を練って見せた。

 そうそう、水飴というのはそういうものだった。子供の手本に懐かしさを覚えながらも、そういえばこの子らの声を聴いたのはこれが初めてのような気がして、あなたは少し首を傾げる。

 だが、その違和感があなたの中で明瞭な形をとるよりも前に、拍子木の音と紙芝居屋の朗々とした声が広場に響き渡り、額の舞台があがったことを観客に知らせた。

 水飴を練ることを忘れないよう手元に気を配りつつ、教えてくれた子供と同じように小さな舞台の方へと顔を向ける。




「今からお話いたしますのは、とある曰く付きの絵の話でございます」

 紙芝居が始まった途端、あの独特の調子をつけた声にガラリと変わった紙芝居屋の口上を聞きながら、あなたは先程の違和感とはまた別の奇妙なことに気が付いた。

 普通の紙芝居であれば、話が始まる頃には表紙の絵が出ているはずだ。ところが木枠の中で見える紙には、題名も挿絵も描かれていない。代わりに黒い油絵具で紙一面を塗り潰されていた。あるだけの絵具を目一杯使って塗りたくったのだろう乱雑な筆遣いが、歪な濃淡の縞模様を浮き上がらせている。

「昔、むかァし。とは言ってもかぐや姫がお月さまへと帰った頃よりはずいぶんと後で、けれどもお客さんのほとんどが生まれてくるよりはずっと前のこと。とある二人の男がおりました」

 題名も表紙も無い紙芝居はしかし、それ以外は普通の紙芝居らしい。男の話が進むのに合わせて、ようやく真黒の紙が抜き去られ、代わりにぼんやりとした二人の人影の絵が現れた。

 大方表紙を忘れ慌てて代わりの紙を用意したか、それとも男が思いついた話でまだ題名も表紙もきちんとしたものが出来上がっていないかなのだろう。

 そう一人で納得して、水飴を思い出したようにまた一回、二回と軽く練る。

「一人は目利きの切れ者で、明るく人懐こい人気者。もう一人は内気で静か。けれども絵を描くのが大変得意で、そこらの画家より上手いくらいの腕前でした。

 小さな頃より大の親友だった二人はある日、ちょいとした悪戯を思い付きます。それは丁度こんな具合でした。絵が得意な方の男が、とある有名な画家の絵を真似て描く。そしてもう片方の口の上手い男の方が、その絵を有名な画家の新しい作品のように振る舞って世間に発表する。それで世界を騙して遊ぼうという、マァ大変な悪巧みだったのでございます」

 男の手が手前の挿絵を抜き取り、次の絵が顔を覗かせた瞬間。

 聞き始めた時から徐々に青褪めていたあなたの喉が、息を呑む音でヒュウ、と嫌な音を立てた。

 それは、二人の男が一枚の絵の前で笑っている絵だった。

 カンバスの前に立つ男が手にしているのは、パレットと筆だ。もうすぐ描きあがるだろう絵を前にして、もう一人の男が嬉しそうに絵と作者とを交互に見ている。

 子供向けの、構図も色使いもリアルには程遠い絵柄だった。だが、それでもその挿絵に描かれているのが過去の自分たちであると、不思議とあなたにはハッキリと分かった。

「男が描いたのは、こんな絵でございます」

 あなたの様子がおかしいことになど気付いていないらしい紙芝居屋の指は、挿絵の中のカンバスを子供らに見えるように指さす。

 絵の中の絵に描かれていたのは、どんよりとした鈍い色の空の下、草原に立つ女がこちらを振り向いた瞬間だった。

 白く丈の長いドレスの裾を風ではためかせる女の手には、曇天には不釣り合いな華奢な日傘が握られている。傘の影のせいか曇天のせいか、女の顔は暗く塗られており表情も顔つきも分からない。

 あなたはいよいよ震え始めた。

 これ以上話を聞いていては、何かよからぬことが起きるのではないかという不安が、絵の中の曇天のようにあなたの頭にぶわりと広がっていった。

 今すぐ自転車の方に行き、誰も知らないはずの、そして身に覚えのある紙芝居を全て破り裂いてしまいたくなった。あるいは、このまま踵を返してこの広場を走り去ってしまいたかった。そうしたいという考えは後から後から沸いて出るのに、なぜか体は思うように動かない。

「これは西洋の、昔の画家の代表作を真似たものでございました。画家は似たような絵を生涯数回描いておりましたから、また一つ新しいものが見付かったのだと言っても信じる人はいるだろうと、そう二人は考えたのでございます」

 そう、その通りだ。

 その一計を初めて思い付いた時あなたは、なんという名案と己の閃きを賛美した。

 自分の口八丁とあいつの絵の腕なら、どんな鑑定士だって騙せるとそう思った。

 だが―――――

「ところが、です。果たして悪巧みのツケの早回しか天誅か。はたまたただの悲しい哀れな不運か。いよいよ絵が出来上がるというその時になって、絵描きの方の男が、些細な列車の事故で亡くなってしまったのでございます」

 芝居の始めまでは小気味よく響いていたはずの男の朗々とした声が、あなたの脳内の四方八方をでたらめに殴りつけてくる。首周りに絡みついて呼吸を妨げる。糸になってあなたの四肢を、足の裏を縫い付けて身動きを封じてくる。

「これに恐れをなしたのが、残された方の男です。

 ある日何の前触れもなく親友の命を奪われた彼はフと、自分たちが企んでいた悪戯が、実はとんでもない過ちなのではないだろうか、そして友人はその天罰で死んでしまったのではないかという考えに襲われました。

 ひどく怖くなった男は結局、完成間近で作者を失ったその絵を燃やしてしまいました。

 そして自分達の悪戯については、初めから無かったことにしてしまおうと決めたのです。」

 そう――――そうしてこの話は、あなただけの中の話として、あの時から今日まで永劫隠し持ってきたものであるはずだった。

 だから目の前の紙芝居屋が、この話を知っているはずは決してないのだ。それはあまりにも出来過ぎている偶然の一致としてしか片付けられない、片付けるしかない話なのだ。

 その、はずなのに。

 紙芝居屋の男が次に額縁の中で見せた絵は、あなたの記憶の中にある、親友の描いた日傘の女の絵と全く同じ、色と形と筆遣いで描かれていた。

 そして、全てあなたしか知り得ない物語の結びの言葉として、あなたが全く知らないことを観客に向かって語り掛けた。

「しかし、日の目も見ず、誰も騙せず消えた絵の方は、さぞや無念の気持ちで一杯だったのでしょう。今も亡霊のように彷徨っていると、そう聞いております。そして時々、ありもしないところに絵としてひょいと現れてはかき消えて、誰かの目に留まろうともがいているのでございます」

 ――――― ねぇ、健気なものでしょう?

 そう語り掛ける男の声が、頭の中で靄を隔てたようにぼんやりと聞こえてくる。

 催眠術にでも掛けられてしまったように、あなたはこの奇妙な状況に身も心も囚われてしまっていた。

 友の死からずっと一人で抱えていた秘密を暴かれて混乱した頭では、最早紙芝居の男が何を言ったかも理解できない。

 いつの間にか手を止めてしまった割箸から、柔らかくなった水飴が今にも落ちそうなほど垂れているのにも気が付かない。

 とにかくこの場を立ち去りたい。この話を聞くのをやめにしたい。そう全身が喚いているのを感じながら、体は金縛りにあったように動かない。

 水飴はやがてしがみついていた両手を離すようにゆっくりと割箸から離れた後、突如として速度を上げて落下していく。いよいよ赤茶けた土の上に着地するだろうというその時――――ポツン、と何かが頬に触れた感触で、思わずあなたは息を呑み我に返った。

 その一呼吸で、それまで息苦しく感じていたはずの肺が、まともな呼吸の仕方を思い出したようだった。

 途端に、身体を凍り付かせていた緊張が解ける。

 ようやく水飴のことを思い出したあなたは、これだけ練るのを忘れていればもう垂れてしまっただろうと、先程までの不気味な紙芝居の内容も忘れて下を見た。だが、落下しているはずの半透明な半液体の甘味は、足元のどこにも見当たらない。瞬きながら地面を見返すあなたの頭上を、またポツリと何かが叩いた。

 顔を上げれば、あれほどの青さを見せていた空にはいつの間にか何層もの薄い灰の雲が折り重ねられていた。覆われた日の光がぼんやりと辺りに広がる中、雲が重なり暗くなった部分から一滴、また一滴と雨粒が落ちて来る。

 降り始めた雨を思わず手で受け止めたあなたは、握られていたはずの割箸もいつの間にか無くなっていることに気が付いた。思い返せば、たった今空を見上げた時に一瞬視界に入った広場も、先程までの光景とは何かが違っていた気がする。親友の死より以降、世間から隠れるように生きることを好むようになったから、人の気配には敏感なはずであるのに、先程までいたはずの気配がまるで感じられないのは気のせいだろうか。

 もしやと正面に顔を戻す。

 視線の先の広場には、その予感の通り誰もいなかった。

 紙芝居屋の男も、水飴を練っていた子供たちも、紙芝居を乗せた自転車も、そしてあの曇天の日傘の女の絵も、初めから居なかったかのように消え失せてしまっていた。

 質の悪い白昼夢でも見ていたのだろうか。口の中にまだ残る甘い後味に、俄かには信じがたいと思いつつ、それならば自分しか知らないはずの話を男が知っているのも無理はないと一人頷き、あなたは元来た階段を上り公園の広場を後にする。

 帰り道。

 突然の雨の兆しに慌てて足を運ぶ人混みの中で、この空模様には不釣り合いな白いパラソルと丈の長いワンピースの女を見かけた気がした。




 雨を避けて家へと歩くうち、昼間の奇妙な出来事はやはり嫌な白昼夢であったのだろうとあなたは思うようになった。

 あの時感じた恐怖も金縛りのような感覚も、あまりにも現実離れして思い出せられるし、そうでもしなければ跡形もなく消え去った紙芝居屋や子供たちの説明だって付けようがない。何より、自分しか知らないはずの出来事を誰かが知っているということ自体、夢でなければおかしい話だ。

 すっかり落ち着いたあなたのそれからの午後は、またいつも通りへと戻っていった。

 いつもと変わらず自宅で栄養を取ることだけを考えてぞんざいに作った夕飯を食べ終えたあなたは、コーヒーを片手にブラウザを開く。

 友人の死から先、あれほど関わっていた絵からは離れてしまったが、それでも何かを作るということに魅力を感じることには変わらないらしい。食後にウェブサイトでアマチュアの書いた小説を読むことが、ここ数年のあなたの習慣であった。

 最近は投稿サイトの数も増えた分、投稿される話の数や質も幅広い。その全てを読むことは到底できないが、たまたま読んだものが力作であった時の喜びや満足感は素晴らしいし、最近はお気に入りの作家も何人か出来てきた。

 さて今日は何を読もうかとコーヒーを一口啜り、新しく投稿された小説の一覧の中の一つにふと目が留まった。シンプルだが季節に合うタイトルに何となく惹かれたあなたは、小説を開き読み進めることにする。

 それは二人称で書かれた小説だった。読者を主人公にして物語が進んでいくスタイルのようだ。

 初めの数行を読み進めたあなたは、ああ今回はかもしれないと早々に結論付けた。

 文体や物語にも好みがある。そしてこの小説は、二人称であるということを除いても、文体や話の展開があまりあなた好みでは無かったのだ。

 少しがっかりしつつも、そのまま惰性で画面をスクロールしていたあなたの目に、『紙芝居』という言葉が飛び込んできた。今日の夢との偶然の組み合わせに、思わず画面を流していただけの手を止めて途中から読み進める。

 だが、読んでいるうちにあなたの顔は、徐々に、だが確実に強張っていく。

 小説の中では紙芝居屋の男が、黒一色で塗り潰された表紙と共に紙芝居を始めたところだった。主人公がその表紙を奇妙に感じている間にも紙芝居の話は進む。

 その小説は、あなたの昼間の夢をそっくりそのままなぞるように展開していった。

 思わず読み流していた前半部分を読み返せば、それはまさにあなたが今日の昼に考え、動き、出会った出来事そのものである。

 紙芝居屋の話の箇所まで戻ったあなたはいよいよ困惑した。このままこの話を読み進めてしまってもいいものだろうか。それともこれもまた、今あなたが食後のまどろみの中で見ている夢なのだろうか。そう逡巡している間にも、指は勝手にスクロールを続け、目は画面に映る文字の羅列をお構いなしに拾っていく。

 スクロールを続ける手とは反対側の手は、身動きが取れないままだ。握っていたマグカップが徐々に傾き、飲まれるのを待つコーヒーが零れ落ちそうなことにもあなたは気付かない。

 読んでいるはずの紙芝居屋の男の台詞が、頭の中で昼間の男の声で蘇り、またあなたの頭の四方八方を殴りつけてきた。

 首周りに何かが巻き付いたように、呼吸が苦しく感じられるのはなぜだろうか。

 立ち上がって画面から離れられればと思うのに、目と指以外の体が縫い付けられたようだ。

 砂糖も牛乳も入れていない、ブラックコーヒーの苦みの効いた後味はもうどこにも無い。代わりに口の中でのたりと、口にしていないはずの水飴の甘みが舌と上顎の間に浮かび上がる。

 小説の中で紙芝居屋の男が最後に見せた絵は、曇天の下で不釣り合いな日傘を差した女の絵だと書かれていた。

 いよいよ続きを読みたくないと思い始めた。それなのにあなたの体は動かず、唯一動く目と指は尚も画面の文字を拾い続ける。

 ブラックコーヒーは水飴よりも、器から離れる時にためらいが無い。いよいよカップの縁からはみ出した黒い液体は、ほんの一瞬その場に留まったのも束の間、あっという間に入れ物を離れて落下していった。そしてそのままデスクの角を通り過ぎ、擦り切れたボロボロの敷物の上に染みを作るというその時――――――ポツン、と何かが頬に触れた感触で、思わずあなたは息を呑み我に返った。

 その一呼吸で、それまで息苦しく感じていたはずの肺が、まともな呼吸の仕方を思い出したようだった。

 途端に、身体を凍り付かせていた緊張が解ける。

 このまま画面を閉じてしまおうとしたあなたは、目の前に広がる光景に目を疑った。

 自室にいたはずのあなたは、いつの間にか人気の無い、公園の広場に立っていた。

 辺りを見回しても誰の姿も見当たらない。ここはあの紙芝居をやっていたところじゃないかと瞬くあなたの頭上を、またポツンと何かが叩いた。

 顔を上げると、夕飯の後にしては妙に明るい曇り空だった。薄い灰の雲で何層にも覆われた日の光がぼんやりと広がり、その影のように雲が重なり暗くなっているところから、一滴、また一滴と雨粒が落下していく。

 また、質の悪い白昼夢でも見ていたのだろうか。

 首を捻りながらもあなたは階段を上り、公園の広場を後にした。

 これ以上雨に降られまいと慌てて歩く人混みの中、この曇天には不釣り合いな華奢な日傘を差した女とすれ違った気がした。




 そしてあなたは最後のこの一行を読むことなく、雨と物語の中で、いつも通りから外れた生活を続けていく。


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飴と傘 善吉_B @zenkichi_b

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