消えない声・1

 ふわぁぁぁ……。生あくびを噛み殺しながら、秀は裏口から家を出た。家の裏に繋いだ自転車の鍵を外し、前駕籠にタブレットと弁当の入ったカバンを入れる。

 朝七時半。六月の空はとうに明け、今日は午前中は快晴の予定なので、頭上には綺麗な青空が広がっていた。

「……眠……」

 昨夜……いや、もう今日未明、三時まで秀は机に向かっていた。

 基礎学力が乏しい分、テキストを読むのも、問題集を読むのも、まず漢字や言葉の意味を調べてからでないと、理解出来ないのだ。そのせいで一つ課題をクリアするにも普通の生徒の倍以上時間が掛かる。

 しかし……、秀は目をこすると、自転車にまたがった。今は自分がしたいことの為に、寝不足なのだから幸せだと思う。

 スペチルは、宇宙放浪者、アウトローな人間達の中の底辺だ。親に捨てられた宇宙港で、そこに潜伏していたスペチルのグループに入れて貰ってから五年。寒さや飢え、または入り込んだ船の船員達の私刑で、眠れない夜は数え切れないほどあった。

 それでも、オレは運が良かった……。

 拾われたのが、面倒見の良いグループだったこと。二年後、はぐれた後も、今は秀同様、神田自治会の紹介で、母星カイナックや『オベロン』、他の星に養子に行った、良い仲間に出会えたこと。守りたい存在、ヒデキとアカネに出会えたこと。

 それらが多分、あの老人……茂雄が言った『まだやり直せる』ラインに留まらせてくれたのだろう。

『船長の話では、お前達は仲間同士ちゃんと助け合い、船の下働きもそれなりに真面目にやっていたという。でも、いつまでも、こんなことを続けていたら、きっとそのうち、他のアウトロー達のように、おかしくなり戻れなくなってしまう。私達がお前達にちゃんとした養子先を探そう。だから、私達、大人をもう一度信じてはくれんかね』

 そして『神田』で保護されたことも。

 今朝の暖かい朝食で満たされた腹を撫でて、漕ぎ出す。駅に向かい自転車を走らせると、反対方向の神田大手小学校に向かう小学生とすれ違う。

「秀兄!」

「秀兄ちゃん!」

 今年十一歳、しかし学力から小学四年生のヒデキ、田中英樹たなかひできと、八歳の小学二年生のアカネ、田中茜たなかあかねが声を掛けてくる。

濃紺と水色のお揃いの担ぐタイプのカバン。綺麗な服を着て、二人とも、あの頃よりふっくらと子供らしく太り、背も高くなっている。

 オレ達はここで救われた。だからこそ……。

「おはよう!」

 二人に声を掛ける。秀は前をしっかり見ると自転車を漕ぐ足に力を込めた。



 『神田』西地区。ビル群の上に、夜からの降雨の為の雲が垂れ込め始める。湿気を含んだぬめった風が、その間をゆるりと吹き抜けた。

 西地区は、星間一流企業オベロンの本社とそれに勤める人達の住むコロニー『オベロン』に近い為に、オベロンと取引のある商社ビルが多く立ち並ぶ。その一角の貸しビルにある専門学校の扉をくぐり、秀は道路脇の歩道を歩き出した。

 はあ……。溜息がこぼれる。あれだけ連日勉強して挑んだにも関わらず、今日の模試も最低の点数だった。

『まあ、仕方がない。今回は取りあえず受けるだけ受けて、次に備えなさい』

 担当の先生も、彼の合格ラインはるか下の点数に、苦笑混じりに諭していた。

「やっぱ……ダメなのか……」

 重い足を駅に向け、秀はぶるりと身を震わせた。どうも、昼休み過ぎから頭がぼんやりしている。

 寝不足のせいかな……。

 電車の中で軽く寝ておこう。歩道を足早に歩き出す。

「秀くん!」

 突然、頭に聞き慣れた声が響く。顔を上げると向こうから、駅で貸している立ち乗り電動二輪車に乗った、灰色の小型ドラム缶が触手をひらひら振りながらやってきた。

「ファボ」

 まだ就業中なのか『神林宇宙船修理整備工場』のロゴの入った作業着と帽子を被っている。足が遅い為、急ぐときは乗っている二輪車を、ファボスは彼の前で止めた。

「どうした? こんなところに」

「うん。僕の出した特許のことでね、どうしても説明して欲しいことがあるから来てくれって特許事務所に呼ばれたんだ」

 『神田』のコロニーを管理する、行政施設や公共施設、司法関係の事務所も、西地区にあることが多い。

 ファボスは工場に勤めるようになってから、技術者達に頼まれて、宇宙船関連のプログラムを組んでいる。中には特許を取っているものもいくつもあった。ヤレヤレとライトグリーンの瞳の浮かぶ単眼をひそめる。その様子に秀は急に何故か息苦しさを覚えた。

「……大変だな……」

 呟いて、ファボスの横を通り過ぎる。

「秀くん?」

追い掛けてくるテレパシーに秀は弾かれるように走り出した。ぼんやりしていた頭に更にくらくらと目眩が加わるが構わない。

 ファボスの取った特許は神田工場群では自由に無償で使え、『神田』の強みの一つになっていると聞く。それにプログラマー用の特化デザインチャイルドの能力を生かして、彼は神田商店街や工場群の管理システムのオペレーターもやっていた。

 同じ『神田』に拾われた身なのに、アイツはちゃんとここの役に立っている……!!

『無駄!!』

『役立たず!!』

 甲高い女の声がビルの谷間の薄暗い隙間から聞こえてくる。秀はふらつく頭を振ると、幻の声から逃げるように、必死に駅に走った。


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