静かだった。

 混乱しきったおれは、目を泳がせた。アスファルトのへこみの一つにバスガイドの制服を認め、すぐに目を逸らす。

「バスの中で聞こえた声は、佐々木さんの声……なるほどね、そうだったかもしれない」

 独りごちた古賀は、得心した様子だった。

「はい」

 相変わらずの笑顔だった。

「そんな、秀美ちゃん」

 早瀬があとずさった。佐々木から数歩、距離を置く。

「いったい、どういうことなんだよ?」おれは宗佑を見た。「宗佑……なあ、どういうことなんだよ?」

 宗佑の疲れた顔が、おれに向く。

「城ヶ崎を助けようとしたおれに向かって、ほかの女に抱きつくな、と水野が叫んだだろう。あのときに気づいたんだ」

 まだ答えにはなっていない。おれは黙して耳を傾ける。

「何かと、秀美は嫉妬するもんな。だから、水野のこの叫びは秀美の叫びなんだ、って気づいたんだよ」

 見れば、古賀も早瀬も深刻そうなまなざしだ。二人ともこんな話を受け入れたのだろうか。呆然と霧を眺めている真壁だけは、話が耳に届いていないらしい。

 佐々木は言う。

「小学三年生から六年生までの三年間、お父さんの仕事の都合で、わたしは家族とともにアメリカに住んでいた。お隣のアメリカ人の家族がとても親切だったわ。その家族の中でも、おばあちゃんがわたしをとてもかわいがってくれたの。しわくちゃのおばあちゃんだった。いろいろなことをわたしに教えてくれたわ。でもね、日本に戻ることになって、お隣にお別れの挨拶に行ったら、そこのおじさんとおばさんがね、こう言ったの。うちにはおばあちゃんなんていませんよ、って」

 宗佑は何も言わなかった。早瀬も黙っている。おれも言葉が見つからない。

「そのおばあちゃんが、魔術を教えてくれた、というわけねえ」

 険のある口調で指摘したのは古賀だった。

「教えてくれただなんて、魔術に関しては、そんな甘いものじゃありませんよ」佐々木は笑っている。「勉強です。訓練もしました。ちゃんと、教科書ももらったんです。わたしがもらったのは不完全版である英語版なんですが、それでもこんなに厚い本なんですよ」

 佐々木は人差し指と親指を五センチほど広げた。そして付け加える。

「古賀先生が疑われてしまいましたね」

 ならば、魔女は古賀ではなかったということだ。

 宗佑がため息をついた。口にするべき言葉がまとまったらしい。

「この現象を作る魔術だかメカニズムだかからくりだか知らないけど、そんなことは今は問題じゃない。どうして秀美がこんなことをしなくちゃならなかったのか、どうしてたくさんの人が死ななくちゃいけなかったのか、それを教えてくれ」

「この二人のせい」

 佐々木は笑顔で古賀を指差した。その範囲には真壁も含まれているらしい。

「わたし? それと、真壁先生?」

 目を丸くした古賀は、自分の顔を指差し、そして真壁を一瞥した。

 真壁は依然として霧を眺めている。

「わたしとそーちゃんは、高校に入学して、すぐに付き合い始めたよね」佐々木は宗佑を見た。「あのときは同じクラスだった。でも、授業中に見つめ合っていたとか、休み時間でもイチャイチャしすぎているとか、そんなことが職員会議で問題になった」

「ああ、そういうの、あったな」

 宗佑は首肯した。そんな問題があったことは、おれやほかの生徒たちも知っている。

「その問題を挙げたのは、真壁先生と古賀先生だったんだよ」

 同意を求めるような、若干の甘えを感じさせるような口調だったが、宗佑は首を傾げる。

「それは知らなかった。でも、仕方がないことだろう」

「どうして?」佐々木の表情がわずかに曇った。「この二人だって学校で見つめ合ったりしていたんだよ。それなのに、教師同士はよくても生徒のわたしたちはだめなの? そのおかげで、わたしたちは二年生になったら別々のクラスにされてしまった。大人なんて、本当に自分勝手だわ」

「まるで水野さんと一緒ね」

 古賀が言うと、佐々木は人差し指を立てた。

「さすがは古賀先生、察しがいいです。水野さんは使える子でした。わたしとシンクロしやすくて、超便利。これからも使ってあげるんだ」

「もしかして」おれは問う。「水野がずっとうつむいていたのは、調子が悪いせいじゃなくて、佐々木が何かしたからなのか?」

「何かしたかも」佐々木は肩をすくめた。「でも、水野さんだけじゃなくて、真壁先生にも何かしたかもね」

 言われた真壁だが、彼の視線は未だに宙を漂っている。

「どうして……」

 そこから先の言葉は、頭になかった。

「真壁先生にも水野さんにも、余計なことは言ってほしくなかったの。だって、本当のことはわたししか知らないんだもの。それなのに真壁先生と水野さんは、展示室で言い争っていたじゃん。危ない危ない」

 そして佐々木は、おれに向かって歩き出した。

「新野くん、いつもそーちゃんと仲よくしてくれてありがとう。今日だって、最後までそーちゃんを支えてくれた。それに……」

 おれの前で立ち止まった佐々木が、顔を近づけてきた。

「新野くんはわたしとそーちゃんとの関係に肯定的だった。わたしたちの関係にいつも協力的だった。だから……」

 すぐ目の前に、佐々木の瞳があった。甘い息がかかる。

「ここまで無事でいられたの」

 そして佐々木はおれから体を離すと、早瀬を見た。

「亜希ちゃん」と呼ばれた早瀬は、顔をこわばらせた。

「あなたもわたしとそーちゃんとの関係に協力的だった。というより、あなたとわたし、お友達だもんね」

 早瀬はどう見ても怯えていた。今にも卒倒しそうである。それでも彼女は、震えながら口を開いた。

「ほかのみんなだって、秀美ちゃんと小倉くんとの仲を認めていたよ」

 その言葉を聞いた佐々木は、つかつかと早瀬の前に移動した。

 とたんに早瀬がすくみ上がった。

「本当かなあ?」

 佐々木は早瀬に顔を近づけた。

「だ、だって……」

 言葉に詰まった早瀬は、顔を背けている。

「わたしは、誰がどこで何を話しているのか、ちゃんとわかるんだよ。バスの中では、わたしに迷惑がかからないように、そーちゃんを注意してくれたよね。ありがと」

 早瀬は震えながら小さく頷いた。

 振り向いた佐々木は、宗佑に近づいた。

「ほかの同級生たち……わたしのいる一組の生徒とそーちゃんのいる二組の生徒はみんな、わたしとそーちゃんとの仲をうざったく思っていたみたい」

 佐々木は宗佑の前で立ち止まった。

「それは違う」おれは口を挟んだ。「宗佑はみんなに慕われていたから、委員長に選ばれたんだ。宗佑をうざったく思うやつがいたとすれば、それは須藤たちだ」

 笑顔の佐々木が、おれを見る。

「そうね。そーちゃんは慕われていたよね。でも、わたしとそーちゃんとの仲、それ自体が忌み嫌われていたのよ。ていうか、みんなからすれば、そーちゃんにべたべたするわたしだけがうざかった……のかな?」

 佐々木が多くの生徒に避けられていたという可能性は否めなかった。先ほどの城ヶ崎にしても、佐々木とは可能な限りふれたくなかったように見受けられた。おれは宗佑の彼女として佐々木とはそれなりに親しくしていたが、改めて想起してみれば、おれにとっても苦手なタイプだったかもしれない。

「それで秀美は、みんなを殺したのか?」

 こらえているのだ。宗佑は、抑えている。

「わたしが殺したんじゃないよ。みんなを食べちゃったのは、あの子たち」

 そう言って、佐々木は上空を見上げた。白い霧しか見えないが、あの蛇のような化け物たちがそこにいないとは、言いきれない。

 ふと、おれの脳裏に松井の顔が浮かんだ。いたたまれず口にする。

「松井は……松井は佐々木のことを陰であしざまに言うような子じゃなかった」

「あら、そういえば、新野くんは松井さんのことが好きだったんだよね」

 佐々木は横目でおれを見た。

 そのおれは、宗佑を見る。

 宗佑は佐々木を一瞥すると、うつむいて首を横に振った。宗佑が伝えたわけではなさそうだ。

「わたしね、ほかの女の子とそーちゃんが二人っきりでいるのなんて、許せないの」

 笑顔だが、目は見開かれていた。まるで先ほどの水野の表情だ。そんな顔を、佐々木はおれに向けた。

「委員長と副委員長、仲よくして当たり前なんだけど」

 狂気以外の何ものでもない。表情も、言葉も、してしまったことも。

 おれの恨みはこの狂った少女に向けてもよいのだろうか。宗佑の恋人だから遠慮するのではない。意味があるかないか、それだけだ。

 宗佑はどのように受け取っているのだろうか。この惨劇は自分の恋人がしでかしたことなのだ。重く受け止めている、などという程度ではないはずである。

「わたしが本当に成し遂げたいことは」佐々木は真壁と古賀を見た。「真壁先生と古賀先生に復讐することです。古賀先生が真壁先生に言ったのと同じになっちゃうけど……清算してください」

「冗談じゃないわ。どうして子供のわがままに付き合わなくちゃならないのかしら」

 そして古賀は、大きなため息をついた。

「ああ、思い出したぞ」真壁が急に両手で頭をかきむしり始めた。「おれは佐々木に脅されたんだ。おれは清算なんて……嫌だ嫌だ嫌だあああ」

「真壁先生は別ルートだなんていうくだらない計画を立てた張本人です。一組と二組、ただでさえ別々のバスなのに、見学コースまで別にしちゃったじゃないですか。でも一組のバスがここに来れば一石二鳥です。わたしとそーちゃんは一緒にいられるしね」

 そして佐々木は、古賀と対峙した。

「こ、が、せ、ん、せ、い」

 甘えるような仕草で、佐々木は古賀の顔を覗き込んだ。

「何かしら?」

 古賀は佐々木を睨んだ。

「古賀先生は、負けず嫌いなんですよね」

 古賀の眉がわずかに動いた。

「ていうか、古賀先生はプライドが高い」

 このままいつまで佐々木に語らせておくのだろうか。宗佑は何もしないのか。古賀は張り手の一つでも食らわせないのか。それとも、二人とも佐々木が怖いのだろうか。そう、怖いのかもしれない。早瀬がよい例だ。彼女は佐々木という存在に萎縮しているではないか。真壁に至っては、言うに及ばずだが。

 ならば、おれはどうなのだろう。確かに、佐々木に刃向かっても太刀打ちできないだろう。だがそれ以前に、自分の意に反して、足が前後左右、どの方向にも一歩も踏み出せないのだ。膝は曲がるが、地面から足を上げることができない。まるでアスファルトに根を生やしてしまったかのようだ。

「だから」佐々木は続けた。「真壁先生を水野さんに取られることがたまらなく屈辱的だった。さっき水野さんを介抱しようとしたのは、彼女に借りを作りたかったから。そして人間的に自分が上であることを誇示したかったから」

「黙りなさい」

 古賀の左右のこぶしが震えていた。

「水野さんを追いかけようとした真壁先生を引き止めたのは、清算してほしいとかじゃなく、真壁先生を失いたくなかったから。同時に、水野さんに負けたくなかったから。あのまま真壁先生が霧の向こうに連れ去られたら、古賀先生は水野さんに負けたことになってしまう。ですよね?」

 さすがに堪忍袋の緒が切れたらしい。口を引きつらせて右手を振り上げた古賀だが、足を踏み出すことができず、バランスを崩してその場にへたり込んでしまった。ようやく彼女の靴底がアスファルトから離れたが、立ち上がることも、這って佐々木に近づくこともできないようだ。

 へたり込んだままもがいている古賀を、佐々木は狂気の目で見下ろす。

「誰もその場から動けないんです」

 宗佑と早瀬が自分の足元を見下ろし、わずかにもがくと、諦念の色を呈した。この二人も両足を地面から離せないらしい。

「そうか……そうなのね」恨めしそうな目で、古賀が佐々木を見上げた。「輝明さんを脅しているところを山田先生に見られてしまったあなたは、山田先生が邪魔になった。だから、輝明さんに山田先生を殺させた。あなたのその怪しい力で、輝明さんを動かしたに違いないわ」

「証拠はあるんですか?」

 明らかに佐々木は古賀を挑発していた。しかし古賀は、そんな佐々木に近づくことができない。

「きっと、輝明さんと水野さんとの関係も、あなたがその力で、そうなるように仕向けたんだわ」

「あっははは!」佐々木は声も高らかに笑った。「真壁先生が古賀先生を裏切ったのは、わたしのせいじゃありませんよ。真壁先生は最初から女たらしだったんです。古賀先生だって知っているはずです。知っているのに、認めたくないだけ」

 真壁が女子生徒たちから人気を集めていたのは事実だ。佐々木の指摘したとおりなのだろう。要するに、真壁はうぬぼれていたわけだ。

 口を引きつらせた古賀に睨まれ、目を見開く佐々木は勝ち誇ったように白い歯を見せる。

「正直に言いますね。古賀先生の言うとおり、山田先生は邪魔になりました。でもわたしは、山田先生に一言伝えただけなんです。あの夜、わたしは山田先生に電話したんですよ。真壁先生のアパートで真壁先生と一組の水野さんがいけないことをしています、ってね」

「それで山田先生は輝明さんのアパートに行ったわけ? 輝明さんが山田先生を殺すことをあなたは予見できた、というの?」

「だって、山田先生が真壁先生のアパートに行くだけで、真壁先生は追いつめられてしまうもの。山田先生を殺すか、辞職するか、懲戒解雇を言い渡されるか、選択肢はそれくらいです。そして古賀先生も、学校にはいられなくなる」

 佐々木はそう告げると、古賀から目を逸らして失笑した。

 再び地響きを感じた。先ほどと同じく、短い響きが連続している。

 おれは周囲を見渡した。

 霧の景色に、動きは認められない。

 宗佑と早瀬も辺りの様子を窺っている。

「なんで二組の別ルートがあけぼの鉱山なのか、わかる?」

 佐々木はおれと宗佑を見ていた。

「秀美がそうさせたんだろう。マッキーを脅したのは秀美だったんだから」

 宗佑は答えたが、佐々木はじれったそうだ。

「だからあ、どうしてここにしなければならなかったのか、という質問」

「この状況を作りやすかったから」当てずっぽうに言ってみた。「この変な霧とか化け物たちを呼び寄せるのに都合がよかったから」

「新野くん、すごーい」

 佐々木は拍手をして喜んだ。

「ここは……特別な場所……」とつぶやいた宗佑が、再度、周りの様子を窺った。

 地響きは大きくなったり小さくなったりを繰り返していた。巨大な何かがこの駐車場の周りを徘徊している、そう感じた。靴底にはっきりとした振動が伝わっている。

「上古の昔……」佐々木は地響きに動じる様子もなく言葉を放った。「恐竜たちが地上の覇者となる時代よりもずっと前の時代に、神々によって門はここに作られた。そして門のあった場所は、度重なる地殻変動によって地中深く埋まってしまった。でもね、おばかな人たちが、埋まっていた門を、知らずに掘り起こしてしまったの。門は人間の目には見えないから、掘り起こしたって何もわかりはしないけどね。おかげで今は、地中に埋まっていた門は、その半分が地上に出ているわ」

 話を繫がなければいけない、と思った。この地響きから少しでも自分の気を逸らしたかった。

「掘り起こしたっていうのは」おれはどうにか口を開いた。「つまり、鉱山の採掘で、っていうこと?」

 すぐ前に佐々木の顔が現れた。見開かれた目が、血走っている。

「そうだよ。わたしがその門を成長させた。そして、成長した門を通ってこの霧やあの子たちがやってきた。一組のバスだって、門のおかげでここに来ることができた。成長した門の一部を、一組のバスのほうに呼び寄せたの。門のあるところは、こちらの世界でもあり、あちらの世界でもあるわ。つまり、あちらの世界の一部とこちらの世界の一部が、門によって重なったのよ」

 地響きがさらに大きくなった。外灯が小刻みに揺れている。

「だから、今はここも門の中だよ」

 頭上を見上げつつ、佐々木はそう付け加えた。

 見えない門――形さえ定かでないそれが、おれたちを覆っているのだろうか。

「あれえ」佐々木がまた、おれの顔を覗き込んだ。「不思議そうな顔をしている。でもしょうがないかあ。三次元って、縦、横、高さの三軸がそれぞれ互いにどの軸とも九十度に交わっているじゃん」

 数学に関することらしいが、ただでさえ苦手な科目なのだ。こんなときに振られても、まともに返せるわけがなく、おれは黙して頷いた。

 気をよくしたとは思えないが、佐々木はなおも続ける。

「さらにもう一本の軸がどの軸にも九十度に交わったのが四次元なの。縦、横、高さに加えてもう一本、それが時間軸。そのうえ時間軸は、一つの線上の距離が時間の経過や逆行を示しているのよ。門はその四次元の存在。そんなもの、人間の目で見ることなんて、できるわけないもんね」

 やはり理解できなかった。したくもない。

 そんなおれから目を逸らした佐々木が、東の方を向いた。見開いていた目を、すっと細める。

「わたしのご主人様」

 佐々木は言った。

 彼女の視線の先に、おれは目を向けた。

 霧の中に、巨大な影があった。人の姿のようなそれが動いている――というより、こちらへと歩いてくるのだ。

 地響きはその影の足の動きと合っていた。

「何よあれ……」

 早瀬が声を震わせた。

 真壁も、立てないでいる古賀も、その巨軀から目を離さない。

 ふと、宗佑と早瀬が、申し合わせたように駐車場を見渡した。いくつもの巨大なへこみを見ているらしい。

 地響きに合わせて玄関ドアのガラス片が飛び跳ねている。想像もつかない質量を有する巨軀なのだ。ならば、人間はおろか、バスでさえもたやすく踏み潰せるだろう。宗佑と早瀬は、それを懸念しているのだ。自分たちにもバスガイドの里村と同じ最期が待ち受けているのだ、と。

 一瞬にして死ねるのなら、それもよいだろう。陰鬱な家庭から解放され、松井の元へと行くのだ。そして、おれの無様な肉片を両親に見せつけてやるのだ。

 地響きがぐんぐんと近づいてきた。

 おれはそいつに目を向けた。

 人間の戯画のようだった。巨大すぎる化け物だ。霧に包まれた腰から上は、はっきりとは窺えないものの、肩や腕が左右にあるらしい。しかし下半身は、何かの冗談で作られた獣のオブジェ、のようである。何せ、足が三本もあるのだ。

「悪魔よ……悪魔だわ。魔女が仕えるのは、悪魔しかいない」

 へたり込んだまま、古賀は言った。

「悪魔じゃありません」佐々木は静かに反駁した。「千の異形を持つ無貌むぼうの神です。わたしのご主人様です。ああ、わたしはやっとここに来ることができた。やっと、神がそれを許してくださった」

 さらに彼女は、声を高らかに唱える。

「いぐないい! いぐないい! ええ、や、や、や、やはああはああはああはああ、ああ、ああ、ああ、んぐふああああ、んぐふ、あああ、や、ややああ!」

 駐車場の端に足を踏み入れたそいつが、動きを止めた。

 左右の足が駐車場のアスファルトにめり込んでいた。後ろの一本は駐車場の外の藪を踏みつけている。胴体を中心とすれば、それぞれの爪先は放射状に外側に向いているようだ。

 霧が濃くなった。

 巨大な化け物は、なんとか見えていた下半身さえも、白い闇によって隠されてしまう。

 おれたちの周囲にも霧が迫っていた。

「来るぞ。またあいつらが、来るぞ」

 声をおののかせた真壁が、頭をかきむしりながらその場にしゃがみ込んだ。

「その前に、あの巨大な悪魔に踏み潰されるわ」

 諦めきった声で、古賀が言った。

 青ざめた顔の早瀬が、周囲を窺っていた。しかし、おれたちのいる場所以外は霧に包まれている。

 宗佑は佐々木を見つめていた。無言のまま、視線を逸らさない。

 佐々木はさっと周囲に目を走らせると、宗佑を見つめ返した。

「準備は整ったよ」

 狂気は消えていた。いつもの佐々木と変わらない。

「なんの準備だ?」

 宗佑は怒っている。抑えた低い声が、それを語っている。

「フィナーレよ」

 答えた佐々木は、宗佑の前に立った。

「みんなを化け物の餌食にするのか?」

 宗佑の問いに対し、佐々木は首を横に振った。

「新野くんはそーちゃんの友達だし、亜希ちゃんはわたしの友達だもの」

 慈悲深い趣ではなかった。裏があるかもしれない。

「真壁先生と古賀先生にも、帰ってもらうわ」佐々木は口元に笑みを浮かべた。「この霧が覆っているのはここだけ。帰るところはちゃんとあるよ。でもね、間違いなく、真壁先生は殺人の容疑で逮捕される。そして古賀先生は、そんな真壁先生と人生をともにするの。二人とも、転落の人生ね」

「それが秀美の復讐なのか?」

 佐々木はこくりと頷いた。

「その代わり、そーちゃんはわたしと一緒に残るの。この重なった世界に。それがフィナーレだよ」

「条件つき、っていうわけか」

「わたしと一緒にいるの、嫌?」

 冗談ではない。理不尽である。

 おれは訴えようとしたが、それより早く宗佑が口を開いた。

「いいよ。一緒にいよう」

 耳を疑うような言葉だった。

 佐々木は微笑んだ。

「よかった。そーちゃんならそう言ってくれる、と思っていた」

「ちょっと待てよ」おれは声を荒らげた。「宗佑、何を考えているんだ。一緒に帰るんだろう? 絶対に諦めない、そう言ったよな? 諦めてしまったら、犠牲になったみんなを裏切ることになるんだよな?」

「そうだな、ニッタを裏切ることにもなるな」

 暗い笑みが浮かんだ。そんな顔は、見たくなかった。

「なら、どうして残るんだよ?」

 諦めかけていたおれが、宗佑を説得していた。宗佑がいなければ、帰る意味が本当になくなってしまう。松井だけではなく宗佑まで失うなど、おれには耐えられそうもない。

「秀美のこと、本当に好きなんだよ」

 暗い笑みのまま、宗佑は告げた。

「でも……」

 でも、でも――佐々木はこの事件を引き起こしたのだ。多くの生徒が、運転手やバスガイドが、化け物たちに殺されてしまったのだ。松井が殺されたのだって、佐々木のせいなのだ。

 確かに裏切りだろう。だが、何度もくじけてしまったおれも、その都度、みんなを裏切っていたのかもしれない。

 おれはうつむいた。

「宗佑の両親にどう説明すればいいんだよ?」

 まして、宗佑には弟と妹がいるのだ。中学生の二人を慰める言葉など、おれには思いつかない。

「何も伝えなくていいよ。おれはみんなと一緒にいなくなった」

 さらりと言ってのける宗佑が、憎かった。

「おれはどうなるんだよ! みんないなくなっちまうなんて……」

「まだ若いじゃない」

 言ったのは古賀だった。未だにへたり込んでいるが、視線はおれをとらえている。

「若いからって、なんだっていうんだよ!」

 たまらず、食ってかかった。この女に何がわかるというのか。

「いくらだって友達は作れるし、恋人だって作れる。ちょっとやそっとの失敗はやり直すことができるわ。でもわたしや真壁先生は、そうはいかない」

「そういうことね」佐々木が言った。「新野くん、亜希ちゃん、さようなら」

 その言葉を待っていたかのように、再び地響きが起きた。とてつもなく強い揺れだ。

 早瀬が立ったまま両耳を塞ぎ、目を閉じた。

 おれは東のほうに向かって身構えた。

 巨大な足がおれの右でアスファルトを踏みしめた。

 左にも別の一本が接地する。

 どちらの足も牛や山羊の足に酷似していた。足先は蹄である。黒っぽい皮膚は、痛々しくただれていた。

 三本目の足が前方でアスファルトを踏みしめた。

 全員が三本の巨大な足に囲まれてしまったわけだ。

 悪臭が漂った。薬品のようなにおいにも感じられる。

 見上げたが、足の付け根は霧の中だ。

 羽ばたきが聞こえた。複数の羽音である。

 おれの右でアスファルトを踏みしめた足――すなわちやつの左足が、宙に浮いた。そして、おれの後方へと移動し再び接地する。右足がそれに続き、最後に三本目の足がおれたちの頭上を通過した。砂粒だかアスファルトの破片だかが、ぱらぱらと舞い落ちた。

 振り向くと、霧の中の巨大な影が、地響きを立てながらゆっくりと遠ざかっていくところだった。

 宗佑と佐々木の姿がなかった。

 霧が晴れていく。

 巨軀の後ろ姿が、霧とともに薄くなっていった。

 不意におれの両足が軽くなった。

「宗佑!」

 おれは駆け出した。しかし、巨大な影はいくつもの羽音とともに次第に遠のいていく。

「宗佑を返せ!」

 叫んだとたんに、おれはアスファルトのへこみに足を入れてしまった。体勢を立て直せず、前のめりに転倒する。

 悪臭の源に近づきたいわけがない。ただれた皮膚を見たいわけがない。だが宗佑は、あの巨大な化け物とともにいるのだ。

「ふざけんなよ」

 おれはすぐに立ち上がり、巨大な影を追いかけようとした。

 背中に違和感があった。何かがブレザーの襟を引っ張っている。

「きゃあああ!」

 早瀬の叫びだ。

 振り向くが、真壁も古賀も早瀬も、元の体勢のまま元の位置にいた。もっとも、三人とも驚愕の表情でおれを見ている。

 背中の違和感はまだあった。ずっしりとした重さがある。何かがぶら下がっているらしい。その何かが、ばたばたとおれの背中を叩いているのだ。

 うなじに両手を回し、それをつかんだ。毛むくじゃらの何かだった。なま温かい。

 そいつを引き剝がして地面に投げつけた。

 四肢で衝撃を吸収しつつ、そいつがアスファルトの上で身構えた。

 猫ほどの大きさの鼠だった。

「何よそれ……」

 古賀が声を震わせた。だが、その生き物のサイズに驚いたわけでないことは、一目瞭然だった。

 それは鼠の体を有しているが、顔と前足が人間のものだった。しかも、その顔には見覚えがある。

 鼠のような生き物は、おれを威嚇しながら距離を取ると、瞬時に身を翻し、消えつつある巨大な影のほうへと、その四肢で走り出した。

「わたし、見たわよ。今の鼠の顔を」

 古賀に言われるまでもない。おれも見たのだ。

 もうあの巨大な影はなかった。霧も遠くの景色を滲ませている程度だ。鼠のような生き物も走り去ってしまった。悪臭も嗅ぎ取れない。

「わたしも見ました」早瀬が言った。「あの顔は――」

「やめろおおお! 言うなあああ!」

 真壁の叫びが早瀬の言葉をかき消した。

 おれのブレザーの内ポケットで、SNSの着信アラームが鳴った。スマートフォンの通信が復帰したらしい。

 霧は完全に消えてしまった。

 しかし、ひしゃげたバスはそのままだ。いくつもの巨大なへこみも残ってる。里村の遺体もそのままだ。資料館の玄関に目を向ければ、ドアは倒れており、その内側には有野の体を覆ったブルーシートがある。

 夢や幻ではなかったのだ。

 無論、あの鼠のような生き物――水野の顔をしたあの生き物も幻ではなかった、ということだ。


 秋晴れだった。

 風はなく、日差しが心地よい。

 待ち合わせ場所の河川敷公園は、自宅から歩いて五分ほどの距離にあった。見える範疇はまさしく田舎の風景である。下流に目を向ければ、数キロ先に市街地があった。背後の土手の向こうは、それに遮られて窺えないが、おれの自宅のある新興住宅地である。正面の対岸に見えるのは、雑木林とその彼方に広がる山並みだ。

 この河川敷公園にいるのは、今のところはおれだけだ。散歩する老人の姿さえない。

 貸し切り状態のベンチに座るおれは、ジャケットのポケットからスマートフォンを取り出し、時刻を確認した。午前十時三十七分だった。約束の時間から七分が経過している。

「新野くん!」

 振り向くと、早瀬が歩道を走ってくるところだった。

 おれはスマートフォンをポケットに戻して立ち上がった。

「ごめん、遅刻しちゃった」

 白のロングTシャツにジーンズという出で立ちの彼女は、おれの前で立ち止まり、息を切らせた。左肩にかけた紺色のリュックが、手ぶらのおれには大仰に思えてしまう。

「大丈夫だよ、どうせ暇なんだし」

「暇って、予習とか復習とか、していないの?」

「ああ、まあな。そのうちやるよ。まだ二週間じゃないか」

「もう二週間……なんだよ。休んでいられるのも、あと一週間。授業に遅れても知らないからね」

 いつもの早瀬節だ。鬱陶しくはあるが、なんとなく安堵した。

「早瀬はやっぱり強いな」

「どういうこと?」

 こんなときによく勉強なんてしていられると思ってさ――そう言おうとして、おれは言葉を吞んだ。

「なんでもない。とにかく座れよ」

 おれたちは並んでベンチに腰を下ろした。

「少しは落ち着いた?」

 尋ねられ、おれは答えを探した。平気なわけがない。毎晩のように悪夢で目を覚ましてしまうのだ。しかし二週間という時間は、多少ではあるが、冷静に考えようとする力を、取り戻させてくれた。

「ちょっとはな」

「そう」

 切なそうな声だった。

「どうした?」

「わたしは、まだだめ。勉強に集中すれば少しは忘れていられるのに、何もしないでぼーっとしているときなんて、ふと気づくと、号泣しているの。それに、暗いところに一人でいられない。寝るときも明かりは点けっぱなしだし」

 言っているそばから、早瀬は嗚咽を繰り返していた。

 こんなときは男としてハンカチを差し出すものなのだろうか。悩んでいる間に、早瀬は膝の上のリュックからハンカチを取り出し、目頭に当てた。

 事件の翌日には病院での精密検査があった。おれも早瀬も古賀も異常は見つからなかったが、週に一回のカウンセリングは、三人ともあと三カ月は受けなければならない。

 精密検査の翌日から三日間は、地元の警察署に通った。事情聴取である。やはり早瀬や古賀も同様だった。

 事情聴取では、早瀬や古賀と約束したとおりに言った。あけぼの鉱山周辺が濃霧に包まれ、大きな地響きが連続し、霧が晴れたあとには、無残な遺体が何体もあり、多くの生徒たちがいなくなっていた――これが口裏合わせの大まかな筋書きだ。要するに、佐々木が事件の黒幕であったことや化け物に襲われたことをはぶいたわけである。

 口裏合わせでは、古賀からの助言があった。有野の遺体にかけられたブルーシートについて警察に尋ねられたら、「自分がかけた」と素直に言うべきである、と。古賀は指紋が残っている可能性を指摘したのだ。「資料館の備品室のブルーシートで有野の無残な姿を隠してくれ」と古賀に指示されてやった――これは、古賀自身が提案してくれたことだ。

 早瀬と古賀も口裏合わせを守ったが、山田を殺害した容疑で逮捕された真壁だけは、体験したことをそのまま警察に伝えたらしい。無論、そんな話を警察が信じるはずがなく、山田が殺害された事件も鉱山施設跡と資料館での事件も、走査はまだ続いている。ちなみに、真壁のアパートの近くで山田の遺体が発見されたのは、捜査が開始された当日だ。山田の遺体は毛布に包まれ、雑木林の中に遺棄されていたという。山田を殺害してその遺体を遺棄した、という供述だけは事実として受け取られたわけだ。

 そしておれと早瀬は、学校側から三週間の自宅待機を告げられた。休みが明ければ、おれたち二人は、無事だった三組に入ることになるらしい。もっとも、その三組が「一組」というクラス名に変わるかどうかは、おれにはわからない。

 古賀の供述が警察外部に漏れることはないはずだが、警察に限らず、事情を知らない者たちにとっては不可解な事件であるはずだ。容疑者の古賀がわけのわからない供述をしている、という報道も相俟って、全学年の生徒たちはSNSでも盛り上がっていた。三組の生徒たちはもとより、一年生や三年生も勝手に想像を膨らませているらしい。つまり、少なくとも学校では、おれと早瀬と古賀は渦中の人なのだ。

 ならば、三組に入ることに懸念が生じても当然だ。はたして、おれと早瀬は三組の生徒たちに受け入れてもらえるのか。おれも早瀬も、三組には付き合いのある友人が何人かいる。だが、彼らがおれたちをかばってくれるかどうかは、成り行き次第だろう。

 真相を知りたい人間は学校の外にもいるはずだ。特に、遺体が見つかった有野と里村と一組のバスの運転手、体の一部が見つかった松井、安否不明の者たちなど、総勢八十七人も及ぶ帰ってこなかった者たち――そんな彼らの家族が納得するわけがない。そんな懸念もあり、あの事件以来、宗佑の家族とはまだ会っていなければ、話もしていなかった。

 報道関係も厄介だ。幸いにも学校側や教育委員会の働きかけによって、今のところは直接的な取材はない。しかし、自宅の電話には取材の申し入れがたまにかかってくる。三日前も電話があったが、受話器を取った父が、激しい口調で相手を罵っていた。

「時間を割いてくれてありがとう」

 落ち着いたのか、早瀬は言った。

 早瀬とは精密検査で顔を合わせたきり、今日まで会っていなかった。警察署でも、事情聴取の時間が違うため、一度も会っていない。古賀に至っては、精密検査のときも事情聴取のときも顔を見ていなかった。早瀬とメッセージで連絡を取り合ったのも、口裏合わせや事情聴取後の確認くらいだった。昨日の夕方に彼女からもらったメッセージは、本当に突然だったのだ。

「いいよ礼なんて。言っただろう、どうせ暇なんだ、って」

「そうだけど」声を細くした早瀬が、うつむいた。「急にお願いしちゃったじゃん」

「おれだって早瀬と話したかったから」

 取り繕ったわけではなかった。それが本音である。

「本当?」

「うそじゃねーよ。あのときのことを話せるのって、早瀬しかいないんだし」

「古賀先生だっているよ」

 早瀬は顔を上げた。ジョークではないらしい。

「あれだけ疑っちまったからなあ。なんとなく会いにくい」

「たぶん、古賀先生は気にしていないよ。それに古賀先生も、わたしたちの自宅待機と同じ期間は休暇中だから」

「そういや、堀口ほりぐちから聞いたんだ。古賀は辞めちゃうんだって?」

 堀口というのは三組の男子だ。彼とは話せる仲だ。

「わたしも聞いた。でも、あと二カ月くらいは在籍するみたいだよ。ていうか、二カ月経ったら、いなくなっちゃうんだね」

「真壁のこともあるし、学校にはいられないよな」

 可能であれば罪滅ぼしをしたかった。一方的に古賀を責めた自分が、たまらなく不甲斐ない。

「そうだね」軽く頷いた早瀬は、市街地の風景を眺めた。「あと何年かしたら、わたしもあんなところで平気な顔して働いているのかな」

 日常が回っている世界、おれたちが生活する場所――。

 おれたちはここにいる。憂鬱な世界だが、ここで生きていかなくてはならない。

「早瀬は家族や友達とうまくいっているのか? 日常に不満はないのか?」

 その問いはおれ自身の弱さを認めた証しでもあった。

「日常に不満はないよ」

 予想したとおりの答えだが、寂寥感は否めなかった。やはり早瀬には、おれとは異なる未来があるようだ。

 おれの両親は、真壁と古賀のような状況だ。いや、古賀はこれからも真壁を見守るつもりらしいが、おれの両親は――父と母は、いずれ離ればなれになるだろう。

 着信アラームが鳴った。SNSのメッセージのものだ。早瀬の膝の上のリュックから聞こえた。

 早瀬はスマートフォンを取ろうとしなかった。

「確認しないのか?」

「今は、あんまり見たくない」

「急ぎの用かもしれないぞ」

 早瀬の主張をないがしろにするつもりはないが、こんなときだからこそ、くだらないメッセージではないような気がした。

 面倒そうに「うん」と頷いた早瀬は、スマートフォンを取り出し、画面を操作した。

「みーちゃんからだ」

「それって誰?」

「三組の田中美奈たなかみなちゃん」

 答えた早瀬は「授業中なのに」とこぼした。

 名前を知っているだけで話したことのない生徒だ。しかし同じクラスになるのだから、今のうちに念頭に置くべきだろう。田中だけではない。ほかの生徒にしてもだ。受け入れてもらえるかどうかは自分の心がけ次第である――そんな気がした。

 田中についてあれこれと尋ねようとしたが、先に早瀬が口を開いた。

「これを見て」

 唇が震えていた。おまけに目が据わっていない。

 おれは早瀬からスマートフォンを受け取った。

 少し長めの文面だが、それ以外に違和感があった。

 文章を読み出す直前になって、ようやく違和感の正体に気づいた。絵文字の類いが一つもないのだ。

 声を出さずに、目で文字を追った。

 読み終わる頃には、おれの手が震えていた。

 落とさないよう、スマートフォンを早瀬にしっかりと渡す。

「三組にもあの二人の仲を快く思っていない生徒は、確かにいたな」おれは言った。「一年生や三年生にもいるかもしれない。まして教師たちは、みんなそうだよ」

「でも……」

 スマートフォンを両手で握りしめ、早瀬はかぶりを振った。

「門は……重なった世界は、どこにでも現れるんだ」

 おれはそう言って、うなだれた。

 佐々木のそばにいるはずの宗佑は黙って見ているだけなのだろうか。宗佑でさえ佐々木の怒りを鎮められないのだろうか。

 別の高校への転入を検討するべきかもしれない。この考えを早瀬に訴えたかったが、今はやめておこう。


 メッセージの文は、よほど慌てていたのか、絵文字やスタンプがないばかりでなく、誤字脱字が多かった。おそらく、こう綴りたかったのだろう。


    *    *    *


 数学の授業中に教室に大きな鼠が出たの。猫くらいある大きなやつ。

 それが教室内を走り回って、生徒も先生もみんなパニックだったよ。

 誰かが教室から逃げようとしてドアを開けたら、その大鼠が先に出ていちゃった。

 興奮して泣いちゃう女子が多くて、授業は打ち切り。というか自習になっちゃった。

 何人かの先生が学校中を調べている最中。だって、あんなのほうっておけないもんね。

 わたししか気づかなかったみたいだけど、あの鼠の顔、二組の水野さんに似ていた。気のせいだったのかな。

 えっと、ちょっとびっくり。窓から外を見たら、いつの間にか、すごい霧だよ。校庭も門も見えない。

 今ね、ガラスの割れる音がして、誰かが叫んだ。廊下のほうから聞こえた。声は男の人だった。先生かな。でも普通は、ぎゃあああ、なんて叫ばないよね。何があったんだろう。

 逃げろ、って誰かが言っている。

 またあとでね。


    *    *    *


                                    了

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忌まわしき白い闇に包まれて 岬士郎 @sironoji

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