1.ファーストコンタクト


 その日の授業が終わった。先生が教室を出て行くと、張り詰めていた糸が緩んで騒がしくなる。


「あー、待って、消えないで。誰か、それ、止めて」


 教室に響き渡る声に、チサは顔を上げた。慌ててノートを取ろうとしているヨーコがいた。


 先生が板書した魔法陣やその解説が、光を失うように消えて行く。もし、今消えかかっているそれを止めても、読み取れないくらい薄くなっていた。


「チサ、ノート見せてくれない?」


 おでこに赤い跡をつけたヨーコが、やってきた。


「寝てたの?」


 チサは、しまいかけたノートを取り出して、差し出した。


「いや-、魔法陣理論は難しくてさ」


 その時、ヨーコは後ろを走り通った男子生徒に肩をぶつけられた。


「ちょっと!」


 男子は、両手を合わせて謝るだけで、教室を出て行った。


「騒がしいやつらだこと」


 今日一番に眠い授業が終わり、羽を広げているようだった。


「今日、あの結果が返ってくるね」


「チサは、増えそう?」


「私は、一つ増えていればいいかな」


 チサは、ピンク色のメガネを指で位置を直した。


「ヨーコは、今年もたくさん増えるんじゃない?」


「増えすぎても、使いこなせないっての。ノート、写してすぐ返す」


 ヨーコは自分の机に戻って行った。


「会議で遅れてしまった。席につけ」


 いつもよりだいぶ遅れて担任のティーダが、息を切らして教室に入ってきた。大柄な体形で、息を吸いこむとさらに一回り大きくなったように見える。


「最近、校内で頻発している盗難の件だ。日に日に規模が大きくなっているようだから、注意してくれ」


 注意してくれと言われて防ぎようがない、と教室内がざわめく。


「もし、発生した場合、それを見かけた場合、私に声玉(スピーカーバブル)を送るように。他にもアンテナを立てた先生がいるから」


 ティーダの頭上に光の棒が浮いている。頭を動かしてもしっかり動きに合わせてついてくる。


「声玉使えない場合は?」


 誰かが質問した。


「近くに使える人がいたら頼め。もし、いなければ時間と場所を覚えておくように」


「何か対策方法はないんですか?」


 女子生徒が不安な声で言った。


「障壁魔法を自分の持ち物にかけておくか、魔法を重くかけておくほかない」


「そんなの一部の人しかできないだろ」


 嘆く男子生徒。


 実際のところ、個人での対策は限界がある。また教室内がざわめき立つ。


「もし、見かけたりしたら、伝えてくれ。それじゃ、魔法拡張身体測定の結果を返す」


 ティーダがそう言うと教室内が静まり返った。盗難事件より身に関わるこっちの方がみんな重要だった。


 ティーダは、ポケットから四角い石を取り出した。親指と人差し指でつままれたそれは、青緑色の光を放ち始めた。


 スッと宙に投げられ、山なりの弧を描いて落下軌道に入る直前に、まるで流星群のように生徒一人一人の机に向かって光が流れ落ちていった。


 一瞬で、全生徒の机の上で平面に広がる光。


 一枚の紙が現れた。


 そして、いっせいに紙を持ちあげる音と鼓動の音しか聞こえないくらい静寂が訪れる。


 目的の数字を見つけた者から声をあげていく。それは、嬉しさが湧きあがっていたり、ため息が混じっているもの、なんとも反応せず、ただうなずいている人もいた。


 チサは、その数字を見て、そんなものだよねと一人納得していた。しかし、そこには注意書きのマークが添えられていた。


「拡張申請は、来週いっぱいまでに出すように。しっかり親御さんと話すように」


 ティーダの太い声が教室に広がった。


 それを聞いていたのかいないのか、みんなどんな魔法を増やすのか言いあっていた。


「それと、白鹿しろじかさんは診断結果の補足説明があるので、この後、朝霧先生のところへ行ってください」


 チサは突然向けられた指示にみんなの視線が集まるのを感じた。


 ――なぜ、私だけ?


 そう聞き返そうかと思っだが、


「今日のホームルームは以上だ」


 と、ティーダはいつも以上に簡素に言い終えて、教室を足早に出て行った。


 また教室中が騒ぎ立った。


 もう一度、チサは自分の診断書に目を落とすと、目の前がノートで遮られた。


「はい、ありがとう」


 ヨーコがノートを返しに来た。


「早いね」


「ペンの限界まで筆致速度を上げたからね。チサ、何か悪い結果だったの?」


「いや、私もよくわからない」


 拡張診断書をヨーコに見せた。


「ゼロというわけでもなく、なんだろうね……。何かまずい物でも食べた?」


 ヨーコがからかうように言ってきた。


「何よ、まずいものって。美味しくないものは食べたくありません。ヨーコは、どうだったの?」


「私は、五つよ。去年も五つだったんだけどさ、拡張して使える魔法は増えたといっても全然使わないから、能力自体は上がってないんだ。結局、プライマリーばかり」


 同い年だというのに、その差に愕然とする。むしろ、そこはヨーコが特別なのかもしれない。もし、その使用していない拡張魔法を分けてもらえるなら、心の底から欲しいとチサは思った。


「さて、私は補足とやらを聞きに行ってくる」


「何を食べたのかしっかり伝えなよ」


「食べてないって」






 廊下は、ホームルームを終えた生徒が部活に向かったり、帰宅しようと行き交っていた。


 チサは階段を通り過ぎ、建物を上下に突き抜ける吹き抜け空間に出た。


 降下専用の吹き抜けから、次々と生徒が降下していた。


 チサは誰も降りてこないタイミングをみて、吹き抜けに飛び出した。


 一定速度を保って降下し、三階の廊下に足をつけた。


 まっすぐ伸びる廊下に、一定の間隔でドアが並んでいる。


 そこは先生たちの研究室が集められているフロアだった。


 ドアのネームプレートを確認しながら、朝霧の文字を探していく。


 すると、ティーダが廊下に立っていた。太い腕をやっとこ組んで、その腕の上を太い指がトントンと時を刻んでいた。


「ティーダ先生、どうしてここに?」


「おぉ、白鹿か。私は、人待ちだ」


 ティーダが立っていたのは、朝霧先生の研究室前だった。


「先生も朝霧先生を待っているんですか?」


「違う違う」


 ちょうど中からドアが開いて、男子生徒が一人出て来た。


 目にかかるくらい髪は長く、天然パーマというより寝癖のままのようにくしゃくしゃ。


 物静かで落ち着いた印象だったが、鋭い眼光の彼と目が合った瞬間、チサに悪寒が走った。まるで全身から思考まで見透かされているように思えた。


「終わったか」


「はい」


 彼はティーダの問いに、小さく答えた。


「じゃぁ、行こうか。白鹿、しっかり聞くんだぞ」


「はい……」


 チサは息を大きく吐き、緊張した肩を緩めた。


 初めて見る生徒で、新入生なのだろうか。ここに来ているということは拡張診断結果の補足の説明を受けていたのだろう。


 そもそもなぜ、ティーダ先生と一緒にいるのか頭をめぐらせたチサだったが、わからなかった。


 チサは、気を取り直して、ドアをノックした。


 どうぞ、と中から女性の声が聞こえて来て、ドアを開けた。


「失礼します。二回生A3の白鹿チサ……です」


 声が尻すぼむ。


 異臭とまではいかないが、カビの匂いが鼻を突く。


 壁一面に本やファイルが収められているが、殺害現場であるかのようにあちこちに血が飛び散っている。どれも乾いて黒ずんでいた。


 目を背けたくなる光景だった。


「そこに座って」


 試験管や実験道具が並べられている奥の机から声がした。


 向かい合うソファにくっきりと一人分だけ座れるスペースがある。そのスペースを避けるように、血みどろになった実験道具や本が散乱していて、それに囲まれて座るには勇気がいる。


 ――さっきの彼もここに座ったのだろうか。


 チサを見つめた彼の鋭い眼光は、ここで聞いた話の影響なのだろうかとチサは想像した。一体どんな話を聞かされるのか、チサは怖くなる。


 自分が実験台にされてしまうのだろうか、不安が募る。


 机の奥から若い女性が姿を現した。笑顔をこちらに向けてやってくる朝霧先生は、この部屋と同じように血が飛び散った白いローブを羽織っている。


「魔法拡張身体測定の結果を聞きにきました」


 チサは、驚いていないことを装って、平静に言った。


「白鹿さんね、遠慮せず、そこに座って」


 目の前で言われては座らないわけにもいかず、物にふれないようそっと浅く腰かけた。


 朝霧も向かいに座った。そして、本の山が崩れた。


「気にしないで」


 あっけらかんという朝霧は、チサの診断結果をテーブルの上に置いた。


 チサは背筋を正した。


「緊張しないで。白鹿さんは今年、拡張数は一つなんだけど、もうすでに拡張されているのよ」


 チサは首を傾げた。


「どうかしら、あなた自身で気づいているとは思うんだけど」


「はい、なんとなく」


「なんとなく?」


「いえ、少し前から気づいてました。変に使えば、危険かなと思っていました」


「そう。あなたの魔法は、すぐ使える魔法ではないし、簡単でもない。心と体の成長で少しずつ使えるようになるとは思う。でも、今は無理せず発動させないほうがいい」


「はい」


 チサは、そう言ってもらえて、ホッとした。


「プライマリーが増える事象はあるんだけど、この魔法があとから覚醒することはないから」


「そうなんですか」


「この学校にも白鹿さんと同じような形でプライマリー魔法が覚醒した先生がいるけど、必要なら相談してあげる」


「今すぐでなくてもいいかですか」


「えぇ。気持ちの整理がついてからでいいと思うわ。時にこの魔法は危険視され、悪いことに使用する輩もいるからね」


「で、ですよね」


「あら、鋭いわね」


「いえ、本で読んだことがあって」


「今は、あまり口外しないほうがいいかもね。判断はあなたにまかせるけど」


 はい、とチサが答えようとしたその時だった。


 チサのメガネが突然、浮かびあがった。


「え、なに?」


 誰かに抜き取られたわけでもなく、自然と宙に浮いたメガネは黄色い球体の光に包まれて、ドアの方へと移動していく。


 チサは、何が起きているのかわからず、ただ呆然としている。


 メガネは壁にぶつかると思われたが、壁をすり抜けてしまった。


「えっ、ウソ! 私のメガネ」


 チサは慌てて立ちあがり、ドアを開けて外へ出て行った。


 廊下の先をふわふわと移動するメガネを追いかけて行く。


 角を曲がると、ベンチが並ぶロビーへ出た。


 天井すれすれに移動するメガネに向かって跳ね飛んでも届かない。


 ベンチの方へ動いてくれれば、ベンチの上からジャンプすれば届きそう、と思ったときだった。


「うわっ!」


 チサは、何かとぶつかり、それを抱きこむ形で三回転した。その間の一瞬、唇が柔らかく温もりのあるものに触れる感覚があった。


 目の前にベンチはなかったはず、道の真ん中に何が……。


「ど、どいてくれるか」


 チサは、目を開けると、自分の顔のすぐ横に男の顔があった。


「うわっ!」


 飛び退くように離れて、自分の顔が赤く、そして体温が上がるのを感じた。ただ、唇の何かに触れた箇所だけが冷んやりしていた。


 その男は、朝霧の部屋の前で出会った生徒だった。額に手を当てて起きあがった。


「あ、切れてる」


 自分の手元を見て、首を落とすように落胆した。


「えっ、ご、ごめんなさい。大丈夫ですか?」


 慌てて彼の額と手を見ると、血一滴すらついていなかった。


「もしかして、何かしている最中でした……よね」


 チサは、恐る恐る彼の目を見ると、あからさまにそうだと言わんばかりに目を細められた。


加持かじ君、わかったかね? 盗難が校内であちこちで起きて……白鹿さん。二人ともどうした?」


 ティーダが息を切らせてやってきた。ティーダの頭に一本の光のアンテナが立っていて、そこに次々とボール台の声を内包したバブルが飛んでくる。ティーダの頭はまるでとても泡立ちの良いシャンプーで泡立てられているようだった。


「いえ、解析フィールドの展開中にぶつかられましてね」


 加持と呼ばれた男子生徒は、お手上げというように手を広げて見せた。同時に冷たい視線を彼から浴びたチサ。


「本当にごめんなさい。私は、自分のメガネを追っていてそれで」


 辺りを見回す。


「メガネを追う?」


 何を言っているだと蔑んだような目で加持に見られた。


「ん、あれか?」


 ティーダが廊下の先を指差した。その先に、黄色い光に包まれたメガネがふわふわ浮遊している。


「それ、私のです」


 チサが追いかけようとした時だった。チサの横を通り過ぎる矢のような光がメガネに向かって突き進んだ。


 そして、その光の矢はメガネを包む光に刺さった。


 しかし、メガネは何の反応も見せない。さらに上昇して天井をすり抜けて消えてしまった。


「トラッカーをつけました。もう見失うことはありません。あれを追って、犯人の居場所に案内してもらいましょう」


 加持がメガネを追いかけていく。


「え、なに?」


 チサは、てっきり撃ち落としてくれると思っていた。


「あちこちで、例の盗難が起きているみたいで、今、加持君に調査を依頼している」


 すでに加持は階段を登って姿が見えなくなっていた。ティーダは加持の後を追っていくが、すぐに息が上がって足の進みがゆっくりになっていく。


「もうっ、私先に行きます」


 チサは、ティーダを置いて加持が進んだ階段を上がっていく。階段を一段飛ばしでも追いつけない。


 校内での浮遊魔法は、昇降専用の吹き抜けでしか使ってはいけないのだが、チサは軽めに浮遊魔法を使い、軽々とジャンプして次の踊り場へ。そして、次の一歩で上の階へと飛びあがる。


 加持の姿はそこにはなかったが、上から階段を上がっていく音が聞こえてきた。


 チサは、また軽く踏み出すだけで、飛びあがる。到着した踊り場で、加持の後ろ姿が見えた。そこからは、魔法を使わず階段を登っていく。


 加持は上がりきった階の廊下の角を曲がった。


 すぐに彼と女性の悲鳴が聞こえてきて、一瞬姿が見えなった彼がしりもちをついて姿を現した。


 チサも角を曲がると、辺りに本や書類を散らばしたその中心に加持と同じようにしりもちをついたパンツスーツ姿の女性がいた。


「マ、マリッサ先生。大丈夫ですか?」


「あら、チサさん。えぇ、私は……。あなたは、大丈夫だったかしら?」


「は、はい」


 加持は素っ気なく答えると、すぐに辺りを見回す。


「見失ったか……」


「あー、私のメガネ」


 マリッサを立ちあがらせたチサが叫んだ。マリッサがしりもちをついたところに、壊れたメガネがあった。ツルは曲がり、レンズは割れていた。


「ご、ごめんなさい。私がふんずけちゃったのかしら。でも、どうしてこんなところに」


 そこに、息を切らして汗だくで、バブルを引き連れたティーダがやってきた。


「い、今っ、校内で盗難事件が、はっ、発生しておりまして、その……、ちょ、調査を」


「ティーダ先生。それじゃぁ、彼が例の?」


「あー、はい」


「そうですか」


 マリッサは加持をチラッと見てから、壊れたメガネに視線を落とした。そして、両の手の平を下に向けると、メガネが光に包まれて浮かびあがる。


 マリッサの手元に近づくにつれて、レンズのヒビが七色の粒子を吹き出しながらみるみると消え、破片も磁石のようにくっついていく。曲がったツルの部分を七色の輪っかが通ると、まっすぐと元に戻った。


「はい」


 修復されたメガネをマリッサは、チサに手渡した。


「ありがとうございます! 良かった。さすがマリッサ先生」


 チサはメガネをかけて笑顔を見せた。


「先生は、どうしてこんなところに? 今日は、図書室に行くんですか?」


 散らばった書類や本を慌ててかき集めているマリッサに、チサは聞いた。


「いいえ。頼まれた本を渡してきてたり、あずかったり。今日はそれだけよ」


「そうだったんですね」


 チサも拾うのを手伝った。


「で、加持君、犯人への手がかりは何かつかめたのかね」


 息が整ったティーダが聞いた。


「いえ。移動魔法をやめたのか、トラッキングが切れてしまいました。ただ、犯人もここから遠くにいたと思われます」


「それはなぜだ」


「メガネです」


 加持にチサは見つめられた。彼の視線はわずかにズレてメガネを見ているが、わざと目を合わそうとしていないようでもあった。


「犯人の近くであれば、魔力が強いため、速度がもっと出ていたはず。しかし、そのメガネは宙をふわふわ飛び、引き寄せる力もそれほど強くなかった」


「なるほど」


「被害者の証言を分析すれば、犯人が魔法を発動させた場所はある程度わかるでしょう。ですが、毎回同じ場所で発動させるとは思いません」


「確かに」


「それに目的がいまいち不明です。金品や貴重品ならまだしも、他人のメガネなど盗んでどうするのか、僕にはわかりません。そんなメガネ、趣味が悪いとしか……」


「ちょっと、それどういう意味ですか」


 チサが食ってかかった。


「犯人の趣味が、です」


 加持は、対面するチサから体をそらして言った。それからため息を一つして見せた。


 弁解されたように思えたチサだったが、あまり納得できず心の中はモヤモヤしていた。


 ティーダをふくめ、教員を呼び出す臨時職員会議の放送がかかった。


「私は行く。加持君、また連絡する」


「はい」


 マリッサも別のところに行く用があるとのことで、その場を去っていった。





 チサは黙る加持について行き、一階の昇降口から学校を出た。


 学校はビルになっていて、中階にも出入口はある。そこは、直接宙に出ることができる空中移動用出入口だ。


 加持は外に出たら、飛ぶのかと思ったが、道を歩いていく。


 なぜ、加持がわざわざ一階まで降りてきたのかチサにはわからなかった。しかし、今はそれよりもずっと引っかかることあった。


「あの、怒ってますよね」


「別に」


 チサと目を合わさず、ボソッと加持は答えた。


「さっき詠唱中にぶつかったことはあやまります」


 チサは、ずっと根に持たれるのは嫌だった。あからさまに気嫌いされているのは、落ちつかない。同じ学校の生徒であれば、校内でまた見かけるだろう。


 街を浮遊移動中に誰かとぶつかりそうになった時、それが二度と会うこともない見知らぬ相手ならあきらめもつく。


「あそこでぶつかられなければ、犯人の手がかり一つくらい得られたかも、なんて思ってもいませんから」


 そう言われて、チサは大きく息を吸って自分の顔がふくれるのを押さえこんだ。


「私のせいって言ってますよね」


 ゆっくり息を吐き出すように言った。


「はい、そうですね」


「やっぱり怒ってるじゃないですか――って、どうやってあの状況で犯人の手がかりが得られるんですか」


 チサが聞いた時、加持は足を止めた。聞く耳を持たないと言っているかのように、加持にそっぽを向かれた。


 そこは誰も待っている人がいないバス停だった。


 いま時、バスに乗る人は魔力が少なくなった人や年寄りばかりだ。ましてや世界指折りの魔法学校に通う生徒が、空を飛ばずにバスに乗ろうとしていることが不思議でならない。


 空から降りてきたバスに、加持は乗ってしまう。


 ――私から離れるためにわざと?


 チサも加持に続いてバスに乗った。


 乗客は少ない。一人掛けの座席に座った加持の後ろにチサも座った。


 宙に浮いて動き出す箱型のバス。どれくらいぶりに乗っただろうか、とチサは思い返す。かなり幼少のころ以来なのは確かだった。


 窓越しに都会の街並みや宙を移動している人々が過ぎ去っていく。


 ここはマギアシティー・トウキョウ。世界五大魔法都市の一つ。魔法の中心地といっても過言ではない場所だ。賢者を目指して、この地にやってくる。


 いろんな人がいることもチサは理解しているつもりだった。


 チサは、久しぶりのバスに乗って気づいた。自分の魔力を使わずに移動することがこんなにも楽なのかと。浮遊移動がいかに神経を使っているのかが改めてわかった。


 浮力、推進力、魔力の発動維持、風を読み、周囲の確認と普段何も考えないで魔法を使っていると思っていたがそうでないことがわかる。


 ふっと気をゆるめて外を眺めていると、黄色い魔法の光がバスを追い抜いていった。はっきりと確認はできなかったが、大きな箱が運ばれていた。チサのメガネが盗まれた時と同じ対物移動魔法だった。魔力とその効果範囲は、あの時とは比べ物にならない。


 その光は、ビルの間を縫うようになににもぶつからず飛んで行ってしまった。


 突然、加持がこちらに顔を向けた。


 加持も追い抜いた魔法を見ていて、何かに気づいたかのように目を大きく開けてチサを見つめてきた。


「な、なに?」


 加持の手がチサの顔に近づいていく。


 チサはとっさに背筋を伸ばした。


 脳裏に廊下で加持とぶつかった瞬間がよみがえり、唇の感触も思い起こされた。


 伸びてきた手は、スルッと、メガネを引き抜いた。


「あの、なにを……」


 加持が発動する虹色の光にメガネは包まれていた。球体の光の面には、幾何学模様が走っている。


 チサは初めて見る魔法だった。


「やっぱり、遅かったか」


 加持は、そう言ってメガネを差し出してきた。目を見開いたのが嘘だったかのように、つまらないものを見ているかのような目をしていた。


「え、何をしたの? 変なことしてないでしょうね」


 加持はチサの質問を無視して、立ちあがった。


 ちょうどバス停に止まり、加持は降りて行った。


「ちょっと」


 チサも慌てて料金を払ってバスを降りた。


 そこは、都心から少し離れた住宅街の入り口だった。加持は、家々が建ち並ぶ道を歩いていく。


「メガネに、何したんですか?」


「何も」


「魔法かけてたじゃないですか」


「魔法は、かけていません」


「光ってましたよ」


「だから、魔法はかけていません。それに、なぜ、ついてくるんですか?」


「それは、あなたが怒っているから」


「そうですか……許します。これでいいですか?」


「ダメです。顔が許してくれていません」


「顔? これは生まれつきですから」


「そうじゃなくて」


 加持がチサの正面に向き直り、手を突き出してチサの動きを止めた。


「なんですか?」


「もう家なんで」


「あ」


 加持の背後には、門があった。その奥に家が一軒建っていた。


 加持は門を開けて中に入って行こうとする。


「しっかり謝らせてください。だから、クラスと名前を。せめて塔だけでも」


 チサの問いを無視するように門を閉めて玄関へと進んで行ってしまう。


「マヤト、おかえり」


 玄関の扉が開き、女性が出てきた。


「あら、お友達?」


「ち、違います」


 女性にしては体格がいい人だった。


 加持マヤトがばつ悪く目を伏せているのを見て、チサはすぐに彼女が母親だとわかった。


「まぁまぁ、そんな照れなくてもいいじゃない。マヤトが可愛いお友達を連れてくるなんて初めてのことね。さぁ、何もないけど、入って」


 門の前まで来た母親は、ティーダほどではないが見上げるように背も高い。


「え、あ、あの」


 チサは断る前に肩を抱えられて、強引に迎えられてしまった。


「遠慮しないで。マヤトをエアリスローザに通わせて良かった。今日は来てくれてありがとう」


 チサは、マヤトの家の中に入ってしまった。

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